第8話 緊張と弛緩

 話し合いが終わった日、清々しい気持ちになって家に帰り着くと、奏先輩からのラインが来ていた。

「国之、今日は情けないとこ見せてごめんね。ちょっと色々あって。気遣ってくれてありがとう。明日からもまたよろしくね。」

きっと、先輩も清水先生に言われたことを「色々」悩んでいたのだろう。あれだけ毅い先輩なのだから、過去にあったことも思い出したりしていたのかもしれない。恐らく自己嫌悪に陥っていたのだろう。俺は先輩の気持ちを想像しつつ、ラインを返そうと先生に言われたことも思い出していた。ここでは先輩の悩みに踏み込んで行くのはタブーだ。いったん普通にラインを返して、本当に言いたいことは明日口で伝えよう。そう決めて、

「お疲れ様でした、奏先輩。いよいよ明日でキャストが決まると思うとワクワクします!! 明日からもよろしくお願いします!! 」

と送り、くたくたになった体を布団に沈めた。

 3月31日。今日は3月最後の日であり、俺達演劇部員にとっては緊張のキャスト発表の日でもある。目覚めは良く、頭も冴えていた。三寒四温の季節というが、今日は昨日までと違って肌寒かった。曇り空の隙間から細く陽光が差し込み、周りの景色をピンポイントで輝かせている。俺はその中を緊張しながら歩いた。希望しているキャスト……柿田に選ばれるだろうか。そんな不安と自分勝手な欲が俺の心を支配し、心を高揚させてやまなかった。授業はふわふわとした心で受けたためろくに頭に入っては来なかった。当てられたときに戸惑ったりしてしまい、クラスメートにも変な目で見られてしまった。休み時間には目を爛々とさせて台本を眺めていた。少しでも意識して気持ちを高め、心の準備をしようと思った。

 いよいよ緊張の中で部活に入っていく。机を移動させている先輩や同輩の顔には、一様に不安と期待の色が浮かんでいる。方針は固まっているため、キャストさえ決まればあとは練習漬けという日々となる。いかに演劇がチームワークを要とする物でも、やはり個人の細かな願望や欲からは逃れえないのだろう。発声、ストレッチをするみんなの声も、心なしか上ずって聞こえる。そんな俺達の姿を夕日に変わりつつある太陽が優しく、でも明るく包み込んでいる。

 キャスト回しも全員いつもより気合が入っていた。ところで、キャスト回しは演出が役にあった人を見極めるだけではなく、みんなにとっては自分の個性を役の中で発揮する最大のチャンスとなりうるのではないか。役にあった演技だけでなく、役としての演技と自分の個性が合致すれば凄まじい力を発揮するのではないか。そういう事に遅まきながら俺が気がついたのは、キャスト回しが終わる直前だった。俺は、東田国之は、穏やかでいつでも物静かな感じのある監督の江東(えとう)よりも、直情的で感情の動きがセリフに現れやすい主人公の柿田の方に演じやすさを感じていた。改めて思えば、ある意味個性に合っているのかもしれない。そう考えると、一層柿田をやりたいという気持ちが強くなった。今日の部活は少し長めのようだ。

 「集合! 」

由香里先輩の心なしかいつもより鋭い声が部室にこだまし、いつの間にか少し弛緩していた雰囲気を一気に引き締めた。この号令がかかったということは、キャスト回しが終わり、発表が行われるということだ。演出部の三人が最終確認のため、一旦部室を出て話し合いに向かう。残された部員六人の心に六人六様の風が吹き荒れ、俺は思わず身震いした。数分の時間がとてつもなく長く感じた。それは待ち遠しいと来てほしくない、二つの感情が交錯する不思議な時間だった。

「それでは、新入生歓迎公演、セーフティスクイズのキャスト発表をします。台本の順番に読んでいきます。」

台本の順番。つまり主役である柿田が1番最初だ。心臓は既にその鼓動をはっきりと感じるほど鳴り、俺は息苦しさを感じた。

「柿田(かきだ)光輝(こうき)……東田国之」

目の前に幾筋かの閃光が走り、俺は思わず大きくガッツポーズしてしまった。本当に俺か、俺なのか。元々男子が二人しかおらず、柿田を演じられる確率は二分の一。確率が高いとはいえ、今の俺にはこの上ない歓びだった。

「よろしくお願いします」

みんなが俺に言ってくれるよろしくの声が、非常に信頼のこもった物に思えて俺は更に嬉しくなった。

「よろしくお願いします! 」

思わず満面の笑みでそう返してしまった。俺が柿田ということは、おそらく、

「江東(えとう)朋晃(ともあき)……大林(おおばやし)健太(けんた)」

やはりだ。仲の良く、話しやすい健太先輩との共演が決まりホッとする。まだ心と頬は上気したままだ。

「よろしくお願いします! 」

無意識のうちに声にも喜色がこもる。もちろん、克己先輩も男子だが、今はスタッフ専任のためほとんど舞台に上がることは無い。キャストを決める時にも考慮しないのだ。克己先輩は一年生の序盤は上がっていたと前に聞いたが、スタッフに転向したらしい。俺はいつか克己先輩の演技が見たいと密かに思っている。

「今川(いまがわ)翠(みどり)……十河由香里」

演出替えで急遽マネージャーを演じることになったのは由香里先輩だった。これも順当な配役だなぁと思った。実は今川はキャッチャーとしては珍しいほど優しく、気配りのできる性格だ。たとえ演出替えで女子のマネージャーに変わろうとそんな簡単に性格まで変わるものではない。完全に役のイメージと合致した由香里先輩とメインキャストをやれるのは俺にとって大きな喜びであり、頼もしさだった。途中、射るような視線が飛んだが、俺に向けてではないようだ。その後もキャスト発表は続いていく。俺は自分の希望した役になれた高揚の冷めやらぬまま、ふわふわとした気持ちで夜の帳に包まれる街を眺めていた。

「以上で、キャスト発表を終わります。セリフを覚える期限はひとまず4月7日にしようと思います。よろしくお願いします! また、台本のアイデアに関しても、キャストが決まったので募集を再開します。どんなに小さなところでも構いません。お寄せください。連絡はこの裏までお願いします。」

先輩は連絡事項を書くためのホワイトボードの前で説明をしている。言い終わるが早いか、先輩は回転式のホワイトボードを裏返した。そこには、いつの間に準備したのか、「セーフティスクイズ」の全キャスト、全スタッフの一覧が書いてあった。俺は思わず感動してしまった。やはり劇づくりの始まりの高揚、持つ誇りや使命感は並ではなく素晴らしい物だと改めて実感した。

 そんなミーティングが終わり、俺は2日連続で驚きの物を見た。舞台監督(ぶたいかんとく)を務める野田(のだ)好美(よしみ)先輩が、舞台で長さを測る一間棒(いっけんぼう)を手に険しい顔で奏先輩に詰め寄っているのだ。

「ねぇ、これどういうこと!? 」

部室に張りのある怒号が響いた。俺も皆も急に静まりかえった。

「これって……?」

「パネルの実際の大きさと、朝に奏にもらった舞台の平面図上でのパネルの縮尺が合ってないじゃない!! これじゃあ、舞台を作ろうにも作れない…」

些細なことかもしれないが、演劇づくりに置いてスペースの誤差は死活問題となりうる。少しでも狂うと役者の動きや小道具類の配置に影響が出る。好美先輩が怒るのも当然かもしれない。ここまで怒る必要はないのではとは思ったが。

「すみません……わかりました。明日手直しした物を作ってきますね。」

演出が質問に敬語で答えるのはある意味当然だが、それにしても今日の由香里先輩はいやに腰が低く感じた。ともあれ、何とか舞台に関しては済みそうだ。

「わかった。よろしく。後、奏さ、どうして今川は由香里なの?」

この質問には全員が固まった。ある意味ここから演出、ひいては演じる役者に対しての批判が始まるのではないかと思ったためだ。空気を片結びにするように、更に息が詰まる。

「そこに関しては…、単純に1番今川の雰囲気に由香里が合ってたからです。」

「じゃあ、雰囲気に合ってたっていうならなんで一美を使わなかったの? 私は一美も雰囲気に合ってるような気がしたけど。一年生だし。」

「一美は確かに雰囲気も合ってるから使いやすいですし、まだ一年生です。しかし、演出の次に負担の大きい助演出という仕事についている以上役との両立は厳しいと思い、今回は由香里にしました」

「でも……」

「あなただって、去年の大会で助演出とメインキャストを同時にこなしたから分かるはずです。助演出、メインキャスト、どちらも両立しようとしたらまた体壊しますよ。」

「また」。先輩のこの発言に俺はあることを思い出した。そういえば、去年の大会で本番後の楽屋で生徒が過労で倒れたということがあったらしい。それがまさか好美先輩だったとは本当に驚きだ。俺はそうなるまいと改めて心に誓った。

「そっか……わかった。もう他の人にあんなになってほしくないしな。納得したよ。ありがとう。」

好美先輩が厳しい表情を解き、少し寂しげながらも笑顔を見せた。奏先輩が安堵したように大きくため息をつき、体を伸ばす。何か言いかけた好美先輩だったが、その言葉は口にされることなくため息に変わった。

 どうにか疑問点も収まったようで、俺は気分が一気に弛緩した。喧嘩の一部始終を見ながら固まっていたみんなも、動画の再生ボタンを押したようにほぼ一斉に動き出す。「セーフティスクイズ」の劇づくりは、キャストが決まっただけの今でさえ色々な細かい問題を孕んではいる。しかし、今のところはそこまで大きな事はない。強いて言うなら初めての演出替えの不安さで、そこは脚本経験のある奏先輩を始め、みんなで作れば乗り越えられるだろう。何とかこのまま行ってくれ……。俺はただ願った。

 日誌が書き終えられ、それを合図に部員たちは帰宅の途につく。俺も当然例外ではなく、急いでカバンをもって部室を出る。いつの間にか置いていかれてしまったようだ。

「奏先輩ー! 」

いつしかまとまった演劇部の群衆の中、俺は最後尾の奏先輩目掛けて走る。ラインでの続き、ちゃんと自分の本当に言いたいことを言葉にして伝えるために。今日もにぎやかに帰る俺達演劇部員の背中を、38万キロ向こうから朧月がぼんやりと照らしている。目の前には、夜の暗がりの中に広がる道があった。どこまでもどこまでも続く確かな道が。

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