第27話 決死の盗塁死

 足がもつれて転びかけたが立て直す。まだ朝もやの余韻が残る街を俺は走り続けた。だいぶ息も体力も限界に近づいてきたが、ここで止まるわけには行かない。回復なら後でいくらでもできる。普段あまり運動をしない質だが、ここまで体力の無さを恨んだことはない。走りながらスマホを開き、マップを表示する。残るは500メートル、普通のペースならあと5分もなくつく距離。俺はまた前を向いた。

 8時1分。残り30分を切ったところで、俺はそこに立っていた。店先には「スポーツ用品専門店 サードベース」と看板が出ている。ここに来たのは言うまでもなく、件のグローブの修理のためだ。俺は荒れる息を抑えつつ、開店1分後の店に飛び込んでいった。ワックスと革と様々な匂いが入り混じった混合物が俺の鼻をくすぐり、少しのめまいを感じさせた。もしかするとこういうものには弱いのかもしれない。場所も料金も調べてあった。完璧なはずだったのに、ここに来てまた俺は絶望することになる。入り口を通り、二つしかないカウンターへ向かうが、そのとき既にそこには幾人かの客が順番待ちをしていた。スタッフ人員は足りているが、いかんせん受付が少ない。これではかなり待たされることになってしまうだろう。俺は一つ大きなため息をついた。光明を見いだせたのは前の人の会話でだった。

「……こちらでしたら、約20分ほどで出来上がるかと存じますが、それでもよろしいでしょうか? 」

「はい、よろしくお願いします。」

前の人はどうやらラケットのガットが切れてしまったらしい。かなり年配なところを見ると、自分での張替えが厳しくなっているのだろう。いずれにせよ、これで何とかなるかもしれない。20分で終わるなら、8時25分頃には終わるはずだ。そして、そこから約1時間……。帰るのにかかる時間を含めると、基礎が終わり、セッティングが始まるかの当落線上だ。しかし、どんなに焦ろうとも今は何もする事ができない。息は収まってきたが、足の筋肉の疲れとハリはなかなか収まる気配がない。とにかく体を休めておこうと、俺はいすに座り込んで台本を取り出した。

 街は朝の喧騒の中に包まれつつある。人の足音や喋り声も段々と大きく思えてきた。お金を払い、台本の確認を整えた俺はスマホを取り出した。ネットで去山高校の掲示板を開く。ここでよく公演の感想を書いてもらっているのだ。もちろん直接聞くこともあるが。学祭、大会公演、クリスマス公演……少し胸が傷んだ。一年生でも書けるようになってはいるので、俺は何人か来てくれた見学者が書き込んでいないか確認する。これを見るのも随分久しぶりなので、何か書いてあるかもしれない。しかし、その期待は淡くも散った。感想欄には一つの更新も無かったのだ。まぁ、少し見て変えるという程度だったから記憶にも止まらないだろう。しかし、次に開いた質問欄で、俺は目を疑った。思わず体が熱くなるのを感じる。

「去山高校を受けようと思ってる現中3です! 昨年度、新入生は282人入っていましたよね? 最新の学年人数を見たら、281人で2年生が一人減ってるんですよね。転学にしても退学にしても、理由って何なんですかね……。いじめとか無いか心配なので本当によろしければ教えて下さい。」

この間西脇にされたのと似た、しかしさらに踏み込んだ質問がそこにはあった。いすに座っているはずなのに、頭がくるくると回っておぼつかなくなってくる。でも、受験を考えた新入生に、それもいじめか無いかとどうかまで聞かれたら答えないわけにはいかない。俺は回答を打とうとページを遷移したが、答えはすでに完全な形で存在していた。

「いじめがあったわけでは無いです。彼と同じクラスでしたが、将来の事を考えての選択だそうです。ご安心ください。」

元クラスの人が何とか取りなしてくれてるようで安心した。続くその他の回答を見てもあまりおかしなものはなく、無難だった。

 しかし、質問へのある回答を見たとき俺は本当に腹立たしい思いだった。視界がゆがみ、思わず画面を凝視する形になる。

「あのホモ野郎なら多分逃げたんじゃ無いですか?w 仲のいい部活の友達がいて、そいつとつるんでるところをからかわれてただけなのに本気にしちゃってwww」

こいつは愚かだ。まず抱いた俺の感想だった。これは完全にいじめ予備軍ではないか。もしも本当なら、いじめ予備軍で学校から転学者が出たとして問題になりそうなものだ。もしそうならこれを書いた「名無し」もただではすまない。学校ごとのイメージダウンにつながることにもなる。何より、何よりも幹彦が不憫すぎる。あいつは素直で優しく、誰よりも繊細だからからかいを本気と受け止めててもおかしくはない。でも、俺だって幹彦には諭したし、何よりあいつの理由は最初の通り将来のためだ。この線はない。俺は可能性を断ち切ったが、まだ頭は熱く、興奮が少し冷めた体は燃えかすかがだるさとして沈着していた。もう、何も言わせない。

「お客様、お客様? 」

「あ!? あ、はい!! 」

思わず半ギレた声で返してしまい反省する。そうだ。今の俺は学校へと急がねばならない身なのだ。

「グローブの補修、完了いたしました。またご利用くださいませ。」

そう言って、店員さんは品を渡してくれた。

「ありがとうございます!! 」

一言言い捨てて踵を返した。時計をちらりと見ると、時刻はやはり9時15分を指していた。店を飛び出し、全力で学校まで駆ける。強い向かい風が俺の頬を殴ったが、それさえも受け流して進んでいく。いつしか疲れすら感じなくなっていた。

9時35分。学校へと帰り着いた俺をどっと疲れが襲った。足が急に動かなくなり、走れなくなる。最後の力を振り絞って階段を登って部室へと歩む。突入した部室では、なんとすでに基礎はおろかセッティングまで終わってしまっていた。大変な遅れをとってしまった。視界がぼやけ、肩で息をしながらも最低限挨拶を交わす。

「おはようございます…………。」

「おはようございます!! あ、国之、おかえり。」

セッティングが終わったのか少し和やかな雰囲気の奏先輩が挨拶を返してくれた。先輩は手を後ろで組んで何か考えていたようだった。今後の方針だろうか。

「奏先輩!! グローブ修理してもらって来ました!! これでなんの問題もなく練習が」

 俺の言葉は途中で消えた。否継げなかった。そこには汚れてはいるものの、確かに紐の壊れていないグローブがあった。完璧に言葉を失った。頭が急に重くなり、無力感が俺を襲う。今までの苦労は何だったのだろう。

「あの、先輩、えっと、これは……」

もしかすると、壊れてない方のもう一つのグローブかもしれない。頭が完全に混乱し、問い募ろうとする。俺の質問を遮るように、奏先輩が口を開いた。俺が何をしたのかはわからない。けど、何か重大なことをしてしまったことだけはわかった。

「国之、これは君が出ていったあと、野球部さんに無理言って頼んだ予備のグローブだよ。いざってなったら、まだ野球部さんに予備を借りる選択肢もあった。それを言おうとしたのに君は行っちゃった。今回のことはもうしょうがないし、野球部さんもいつか修理する必要があるから別に損ではないけど、もっと落ち着いて、ちゃんと確認してから行動しようね。これを今すぐやらなかったら死ぬなんてことはないんだから。」

「はい。」

「まぁ、こうは言ったけどあんまり気にし過ぎないようにね。これでいつまでもウジウジ言ってても仕方ないし。とにかく、次に繰り返さなければいいんだから。」

「はい。」

頷くことしかできず、がっくりと肩を落とす。先輩の言葉も、自分がしてしまったことの重大さもはっきりとわかった。そして何より、普段とても強く優しく俺達を包んでくれる演出、奏先輩にそこまで負担をかけ、苦しめ、言葉を選ばせてしまったことに俺はひどく後悔と申し訳なさを感じていた。その日の練習は全く持ってなあなあで、ダメを言われたところの修正はできたものの、心には常に暗いものが垂れ込めていた。残り一週間もないのにこのままじゃ駄目だ。全く身にならなくなってしまう。わかっていても、中々その気持ちは消えてくれなかった。

「明日は朝にまず通し、その後に返しをしてダメを修正していきます。また、今日同様に前説、カーテンコールのところから練習していいます。皆さん、あと6日気合入れていきましょう!! 」

「はい!! 」

 部活が終わったあとの帰り道、駅までの道のりはいつもどおり暗かった。薄暗い道を俺達は歩き続ける。今日はやけに肌寒い。くしゃみをこらえながら俺は必死についていくが、やはり重さは消えなかった。

「お疲れ様でした!! 」

「お疲れ様でした!! 明日もよろしくお願いしますね! 」

先に、同行していた由香里先輩達が帰っていく。続き、それとは反対方面の奏先輩達も帰っていく。そういえば、奏先輩達と幹彦は同じ方面だったな……。思いつきをどうでもいいと振り払う。俺はふと胸にまたしこりを感じた。奏先輩と同じ方面で帰るはずの克己先輩がなぜだか残っている。理由を聞こうとした俺だが、数瞬早く克己先輩が口を開いた。彼はいつになく険しい表情をしていた。

「国之、今日奏達と何があったかは細かく知らないけど、また早とちりしてたみたいだな。」

克己先輩まで言うのか。俺は十分反省してると思ってはいるが。思わず目を逸らしてしまう。その時、克己先輩から鋭い眼光が飛んできた。まるで「こっちを見ろ」というように。逆らうなんてできなかった。先輩に向き直ると、彼は十分に間を取り、話し始めた。

「話を聞くに、奏は相当言葉を選んでくれたみたいだけど、この際だからあいつの言いたいことも、俺が言いたいことも含めてお前に全て言ってしまおうと思う。」

「え……」

「国之、お前はやっぱり勇み足がすぎる。最善のために動いてくれるのはありがたいけど、それにしても空回りし過ぎてる。今回だって焦ってたせいで色々あったんだろ? それで結局失敗したら、たとえ最善のための行動だとしても回り道にしかならない。あと、覚えておいてほしいのが、お前の焦りと思い込みはすごく短絡的で主観的だってことだ。一年生入って気が引き締まってるのは分かるけど、もっと色々と考えてから行動しような。」

短絡的で、主観的。それはつまり、考え無しで自分勝手ということだ。一つの中傷ともとれる、でも紛れもない事実を俺は噛み締めていた。やはり、やはりそうか。今までもそのような行動は何回かしてしまっていただけに、怖いぐらいにスッキリと言葉が入ってきた。

「恨むなら俺を恨んでくれていい。でも、多分事実だ。よろしく頼むよ、国之。あ、あと、使わない道具は早く返したほうがいいぞ。それじゃ、お疲れ様でした。」

そういって、靴音を響かせた克己先輩は改札を通り抜け、ホームへと登っていった。

 一世一代の賭けに敗れた。他でもない自分の焦り、勇み足によって。きっと、これから先輩達からの信頼、ひいては同輩たちからの信頼も失っていくだろう。このままでは部員としての関係すら維持できなくなるかもしれない。ならばいっそ。部活以前に、俺達は高校生なのだ。そして、これから社会へと踏み出そうとする少年でもあるんだ。演技力とか以前に、こんなところでのミスを何度も繰り返し、改善されないのならば。こんなに罰当たりではた迷惑なやつはもういらないはずだ。後輩の育成にしても、このざまではきっと数合わせすら務まらない。どうしてこんなトラブルメーカーがよりによって演劇部に入ってしまったんだろう。俺がいなければ、みんなもっとストレス無く過ごせてたかもしれなかったのに。俺のことで今日みたいに疲れなくても良かったかもしれないのに。でも、どんなに辛かろうと、与えられた役目は果たさないといけない。せめて、最低でも新歓だけは。

 翌日、15日。公演前の最後の日曜日。俺は朝早くあのグラウンドにいた。野球部に使わなくなったグローブを返すためだ。俺は覚悟を決めていた。せめてこの最後の舞台を成功させて終わろうと。目は少し腫れぼったいが問題はない。朝日の残響が俺の顔を少し橙色に染めている。今日も、1日が始まる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る