第17話 時は過ぎゆく

美智と別れ、帰宅した俺は、人に話したことで改めて実質的に一美に振られたんだという現実を噛み締めていた。頭に重い何かが乗ったような感覚がずっと続く。よく世間では、こういう問題は時間が解決してくれるという。実際、多分この心の大きな傷もいつか忘れられる日が来るのかもしれない。幼児の頃トラウマだったものを今見せられてもあまり怖くないように。例えそうであっても、一美のことを考えるたびに訪れる胸の締め付けに関しては当分付き合っていく必要がありそうだ。俺は頭の痛みをこらえながらなんとか体を引き起こす。人間の営みに対してある意味現実は冷淡だ。嬉しいことがあった日も、悲しいことがあった日も容赦なく全てを過去に流し、未来へと目を向けさせようとする。こうして過去から抜け出せない者もいるというのに。俺も先へ進まなければ。手にした台本がこれまでになく重く感じた。

 明日、4月7日はいよいよセリフを覚えてくる日となる。キャストが決まってからで何とか一通り練習ができたこともあってセリフを覚えることはできた。明日からはいよいよ動きを本格的に加えて練習していく。だからセリフを今一度完璧にしないと。俺はかろうじて台本を手に取り、読み始めたが、全くセリフや内容が頭に入ってこない。逆に、事あるごとにちらつく助演出のあいつの姿ですっかり集中も何もかも無くなってしまった。多分、今日は何も出来ない。少し早いが、もう寝てしまおう。寝室に向かう途中、母と目が合った。

「国之、また相当なことがあったみたいだね。ご飯も食べずに……失恋でもしたかい? 」

なぜ分かるのだろう。少し気持ち悪さを感じながら俺は何とか応えを返す。

「……まぁ、そうだね。完全にそうだって決まった訳じゃないけど。勝手にいつの間にか恋してて、勝手に振られた。どうしてわかったの? 」

「そりゃだって、私はあんたの、国之の母親ですよ。顔に辛いですって書いてたし。それにね、私はあんたよりも30年は長く生きてんのよ。そういう人の一人や二人見てきたよ。」

人生経験。ふと胸にそんな言葉が去来した。母は強い。強いだけでなく今は小さなことではあるが、過去にあったことを自らの教訓として取っておけている。果たして自分はどうだろうか。クリスマス公演での失敗を活かせているだろうか、そして自分はこの失恋の経験をなにか次につなげることは出来るだろうか。

「国之、国之」

「おお、ごめん」

いつの間にかぼーっとしてしまっていた。母は優しい顔で続ける。

「辛いことがあっても、無理して気丈に振る舞わなくてもいいのよ。それで疲れて周りに当たってちゃ、それこそ本末転倒よ。周りに迷惑をかけない程度なら弱くなっていいの。それで結果的に自分が何とか成長できればいいんだから。」

「……うん」

「何かあったらすぐ言いなさいよ。ここにはあんたの人生の先輩がいるんですからね。」

単に「人生の先輩」ならば部活の先輩だって同義だろう。でも、ここにいるのはただの先輩じゃなく、自分を産んだ大先輩だ。そう思うと、母の優しさが一層胸にしみた。辛いことつづきで人恋しくなっていた俺は、思わず両手を広げる母に抱きついた。肌の暖かさが懐かしかった。こんなふうに抱いてもらったのもいつぶりになるんだろう。もしかしたら年単位かもしれない。久しぶりに感じる母の腕の暖かさの中で、俺はすすり泣いた。

 翌日、4月7日の朝は虹だった。明け方ににわか雨が降っていたようで、奇麗な二重の虹が俺の心を洗った。何はともあれ、今日はセリフを覚え、劇づくりへのさらなるステップを踏む日だ。次第に薄れゆく虹と母に見送られて家を出た。頭のミーティングで早速俺は自分の世界の小ささを思い知らされた。

「それでは、今日はいよいよセリフ入れの期限ということで、台本を置いての練習になります。動きに関して、今まで以上にどんどん指導入れていくのでよろしくお願いします。」

いつもの通り奏先輩が予定を説明する。覚悟もしていたことなので素直に受け入れられた。しかし、問題は次だった。次に手を挙げたのは由香里先輩だった。

「えー……部長からです。皆さん、3月中頃に話したこと覚えてますか? 」

3月中頃。幹彦と一美の件で、3月27日以前のことは頭から抹消されてしまっていた。みんなが黙り込む中、克己先輩が一人、気づいたように声を上げた。

「もしかして……部活動紹介のことですか……? 」

そうだ。そういえば遠い昔にそんな話を聞いたような気がする。

「そうです!! それで企画書を書いてたんですけど、そろそろどっかで一度練習がしたいなぁと……。とは言っても、大して話すこともないんですけどね。」

由香里先輩によれば、今回も例年通りみんなで前に出てこの部活の良い点や部員について話すらしい。俺はそれならいくらでも話せる自信はある。しかし、新入生が必ずしも聞いてくれるとは限らないのだ。俺の時も話半分の人がほとんどだった。そろそろマンネリ化が進んでいるような気もする。

「とりあえず、何処かのタイミングで一度練習したいです。本番は12日ですし、まだそこまで焦る必要も無いかもですけど。」

由香里先輩の提案を奏先輩が受ける。こういう細かい部紹介からでも部員は集まる可能性がある。

「わかりました。じゃあ、台本を置いた返しが最後まで行き次第、一旦時間を取りますね。」

「よろしくお願いします。あ、一応原稿は考えてあるのでご心配なく。」

他に特に連絡はなく、今日も活動が始まった。

 部活内での動き、演技に関しては、何故か今までと比べて抜群に評判が良かった。冒頭のシーン、初回を見終えた奏先輩は驚きに大きく目を見開いていた。

「国之……急にどうしたの……。まだまだ動きが硬いところはあるけど、全般的に良くなってる……。この調子で頼むよ!! 」

「はい!! 」

素直に驚き、嬉しかった。先生に言われたとおり日頃の生活行動からある程度意識していたのもあるし、前回と違って完全に台本を置いており、のびのびと演技できたことも関係しているかもしれない。しかし、何よりも俺には心当たりがあった。きっと、演出席の端の方で見ているあいつのせいだ。今までも意識してはいたものの、一昨日の一件からさらに強くなった気がする。とにかく、この調子で頼むと言われたからにはやるしかない。いい役者の条件のひとつ。「いつでも安定した演技」。ここで成長を見せたかった。この日はその効果もあってかとても調子が良く、大きなダメもなく半分までやりきって部活が終わった。

「集合!! 」

高らかな宣言とともに終わりのミーティングが始まる。

「演出からです!! えー、明日は入学式なので部活は無いです!! みなさんクラスの人としっかり馴染んできてください。それから、次の部活は9日ですが、その日から部活の勧誘期間と新入生の部活動見学期間が始まりますので、しっかりと勧誘しましょうね。」

最後の一文に皆が苦笑する。実際死活問題ではあるのだが、あからさますぎて笑えてきた。

 部活が終わり、帰り際にふとクラス分けの紙に目が止まった。そういえば。講習の最終日にクラスがどうとか言っていた気もするが、未だに掲示していたらしい。俺はそれに釘付けになった。人間というのは往生際の非常に悪い動物のようだ。殊更恋に関しては。俺は理系で一美は文系。基本的には交わらないが、文理混合があればワンチャンスある。そこに賭けつつ、俺は紙を見つめた。結論はすぐに出た。ワンチャンスを逸した俺はがっくりと肩を落とす。俺が3組で、一美が7組だった。クラスは違う、でも、部活でも会えるし、たまに立ち話くらいならできるかもしれない。最後の望みが絶たれた感は否めないが、こればかりは受け入れるしかなさそうだ。そう思いつつ、俺はいつの間にか人数を数えていた。7クラス合計で、281人。入学時は一人多かったはずだ。やはり幹彦はもういない。またもや孤独感に襲われつつも俺は担任を確認しようと顔を上げる。そして、3組の担任名に思わず声を上げた。そこには「清水(しみず)正孝(まさたか)」の文字。見慣れた顧問の名前だった。俺はこの興奮を誰かに伝えようと駆け出した。

 校門の前に行くと、美智が何故かやけに遠い目をして立っていた。夕日が彼女を逆光の中に包んでいる。

「国之、恋ってすごいねぇ。人をここまで盲目にして、弱くして、最後には限界を超える力を出せるほど強くする……。」

どうやら、美智も俺の演技の変化、更にはその理由にまで気づいていたようだ。

「いや、私恋したことないからさ、なんか羨ましいなって。」

果たしてこの辛さを呑んでまで羨ましいと言えるだろうか。少し疑問には持ったが黙っておいた。

「羨ましいぞ、このやろ! 」

またも俺は美智にこづかれる。きっともう一美とはこんな軽いやりとりもできないんだろうな……。少し寂しく思いながら帰る。いつの間にか担任のことは頭から抜け落ちていた。

 翌日、入学式。いよいよ新入生が入ってくる。先輩になるという緊張感を持ちつつ、「2-3」の教室に入る。

「おはよう、東田!」

入るやいなや、威勢のいい声と共に俺を迎えたのはあの坊主頭だった。

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