第42話 ぱぁふぇくと

 「どうやら、転学した理由は将来のためじゃないらしい。」

西脇からのラインに俺は動揺を隠せなかった。今まであいつが先生に言ったことは、そして先生から聞いて俺達が信じていたことは一体何だったのだろうか。そもそも幹彦が俺たちにそんな嘘をつくとは思えない。

「その話、どこから聞いた? ちょっと今受け止めきれないんだが……。頼む。教えてくれ、西脇。」

これが本当だとは信じたくない自分がいた。理由が違ったということより、幹彦に嘘をつかれていたかもしれない事実を俺は受け止めきれなかった。時間からして、向こうもついさっき送った物らしかった。既読はすぐについた。

「え? どこからって、ネットの掲示板? みたいな。ほらあるだろう。うちの学校について話すとこ。」

あいつの一言にホッと胸を撫で下ろす。きっとこいつが言ってるのも、俺が前に見た学校の質問掲示板だろう。あの時は随分と腹も立ったものだ。でも、ネットの情報なら信じるようなものじゃない。本人の口から聞いたわけじゃないから信憑性だって薄いし。安らいだ気持ちで俺は言葉を返す。

「お前、ネットの情報なんて信じるものじゃないよ。しかも、幹彦本人から言われたわけでもないんだからさ。」

「そっか……。ま、俺も興味本位で調べただけだし、信じるか信じないかはお前次第ってことで! 」

彼がおどけたようにそう返し、そこでラインは終わった。そう、本人が言わない限り確定した情報なんかじゃない。今の俺をその感情が支えていた。周りの風景が少しずつ戻ってくる。思ったより長く画面に集中していたようで、かなりの部員達が帰ってしまっていた。喧騒の中で、知った影はもう数えるほどしかいない。

「じゃあ、私もそろそろ帰るね。国之、明日私頑張るから。お疲れ様でした!! 」

そう言ってそのうちの一人、一美が帰っていく。残された世界は一気に色を失った感があったが、きっとそんなものは俺の妄想だ。

「何を頑張るんだろ……」

ふと奏先輩が不思議そうに呟いた。しかし、その言い方にしては、彼女の表情はやけに明るい。もしかすると彼女もわかっているのかもしれない。

「きっと、彼女なりに色々あるんですよ。」

「まぁ、そうね。」

できるだけ核心を言わないように先輩に答える。先輩は少し面白そうに薄く笑っている。

「国之! 」

突如克己先輩に名前を呼ばれた。そういえば、もうここに残っているのは同じ方面の人だけだ。

「はい。なんですか? 」

「明日、やっと幹彦に会えるな。良かったじゃないか。ちゃんと話すこと考えてあるか? 」

大きな衝撃が走る。思わず少し体を反らす。まず克己先輩が怒って来なかったことに少し驚いた。特に怒られるようなこともしてないから当然か。にしても、今日の先輩はやけに優しかった。この間のミスが尾を引いているのかもしれない。でも、ずっと昔、もっと幹彦と芝居がしたいと嘆いていた俺のことを覚えていてくれたのは、俺にとっての大きな驚きだった。

「はい! 色々と作りたかった気持ちはあるけど、新しいところでも頑張れよとか……とにかく、あいつの決断を僕は応援したいので。」

転学したのは本当に将来のためなのか。そんな禁断の質問も浮かんだが、流石に本人から語られるまでは聞くのは愚かだ。

「もう電車くるよ! ホーム行こう! 」

克己先輩が口を開け、返そうとした刹那、今日も奏先輩の気づきが駅に響いた。大抵こういうのに気づくのは奏先輩だ。帰り際の喧騒と人の波をくぐって俺達は帰途につく。

 克己先輩の前ではああ言ったものの、そんなものは月並みすぎるという考えがどこかにあった。もっと何か自分の言葉で伝えられることはないか。俺は何かに脅迫される様に考え続けていた。

「国之、あんた今日大丈夫? もう本番も終わったのにそんな難しい顔して。」

「大丈夫だよ。それに、まだ本番は終わってない。まだ来週もあるから。今日のとこの反省。」 

これは演劇部の、ひいては俺の問題だ。母にあまり心配をかけるわけには行かない。俺は半分本当、半分嘘を言って寝室へ駆けていった。

「考え過ぎも良くないよ。」

彼女の言葉が少しだけ暖かかった。俺は寝室へ駆け込んで布団を被る。考えてもしょうがないかもしれない。でも、なんとかして自分の言葉でこの応援したいという気持ちを伝えたかった。頭痛が頭にだんだんと迫ってくる。幹彦に何かこの場で伝えてしまおうかと俺は再びラインを開いた。しかし、未完成な言葉で思いを伝えていいものか。俺はそこでも悩み、また悶々とする。いつしか意識は、いつの間にか来ていた優磨からのメッセージに支配されていた。一番下には、「不在着信」の文字とメッセージ。

「急に電話しちゃってごめんなさい! ちょっと興奮を伝えたくなって……。家の都合で帰っちゃって直接は言えなかったんですけど、ものすごくいいお話でした。会場にいた人も結構泣いてて、僕もヤバかったです。一緒に来た3人も凄く興奮して見てました。いいものをありがとうございました。絶対に来週も行きますから! やっぱり、演劇部はいいですね。僕、クラスでもあんまり馴染めてなくて……。だから、演劇部が居場所って感じがします。」 

優磨の告白に思わず驚いてしまう。優磨ほどの優しさと人懐っこさを備えたやつがクラスで浮くのは意外だった。優磨とともに来た3人も、もしかしたら入ってくれるかもしれない。

「そっか……。ありがとうな。」

俺はそれだけ返すに留まった。それ以上下手に言っても優磨を傷つけてしまうかもしれない。それにしても、「居場所」とはいい言葉だ。優磨のラインの一文に、俺の胸がなにやら穏やかなもので満たされる。調べてみると、「いる所、座る所であり、自分の存在する所」とあった。俺は、「自分の存在が認められるところ」でもあると思った。きっと優磨もそういう意味で使っているはずだ。

 だとすれば、もしかすると明日使えるのではないか。きっと新しいところで不安になることもあるだろう。でも、俺はあいつの「居場所」でいたい。あいつの心が安らげる場所でありたい。そうしていつまでも話せる仲でありたい。たとえもう共に何かを作れないとしても。考えてみれば、これが一番今の俺にはまる言葉なのかもしれなかった。真っ暗な頭の中に、一筋の希望が走る。自分の言葉を探していたはずなのに、俺はどこかで妥協してしまったようだ。変に満ち足りた気持ちで俺は外を見る。街明かりの中で光る夫婦星は、あの時よりも輝いてみえた。

 翌日、俺はどこか吹っ切れたような気持ちで学校に向かっていた。まずは反省会、そして返し。わかっているはずなのに俺の気持ちはやけに高ぶり、どこへともなく彷徨っていた。俺の感情を冷ますかのように、霧雨が静かに道路を濡らしている。俺は傘を差して道をひたすら進んでいく。

「これから部活を始めます。よろしくお願いします! 」

「よろしくお願いします!! 」

「まずは反省会します。いつもの通り円になってください。みなさん、何かあればどんどん発言をお願いしますね。」

部活が始まり、まずは反省会になる。心なしかみんなも少しだけ浮ついた雰囲気だ。 

「すみません、本番はキャッチボールで投げミスしてしまって……。多分来週の本番は大丈夫だと思うんですけど。」

ひとまず俺は失敗を侘びたあと、結局出来なかった目線の方向について発言することにする。 「それから、やっていて思ったんですけど、演技中に凄く見る方向を迷ってしまって。そこに関する練習があるといいなと思います。」 

「ありがとうございます。演技の練習ばかりで、目線あわせのことを完璧に忘れてしまってました。今日の返しからやっていこうと思います。」

奏先輩が感謝も含みつつ冷静に応えてくれる。どうやら俺が言ったその作業は「目線合わせ」と呼ばれるものらしい。他にできること、言えることもなく俺は黙り込んでしまう。やはり、中々発言できないところも含めて部員としてどうかと思ってしまった。

 浮ついたものは反省会議のおかげで収まったものの、変な興奮のせいか練習は矢のように流れていった。返しでは目線合わせもしたものの、これだけ早く感じてしまったということは流してしまったところも多かったのだろう。ともあれ、これで勝負の時が来てしまった。心がざわつく。ふと外を見れば、風も少し強くなって来ている様子だった。

「集合!! 」

由香里先輩の号令。声が震えて聞こえた。いよいよ、最後のミーティング。清水先生に連れられて、幹彦が何ヶ月かぶりに俺達の前に姿を見せた。

「おはようございます。」

心なしか少しの暗さを含んだいつもの挨拶。それは間違いなく幹彦に向けられたものだ。本当に久しぶりに見た幹彦は少しばかりやつれ、目の輝きすらも失われているようだった。でも、たしかにここに立っている。俺は少しの感慨のあまり言葉を失った。皆も同じだったようで、何日か前の優磨と同じ状態になる。でも今部室を満たす沈黙に含まれているのは、決して喜びだけでは無いはずだ。清水先生が彼を促す。 

「おはようございます。君津幹彦です。」

その唇が弱々しく言葉を発した。

「おはようございます。」

いつもの癖か、俺達は本日二度目の挨拶を交わした。彼の口は、やはり留まることを知らない。

「今回、こんなタイミングでやめることになってごめんなさい。あと、挨拶に行くのが遅れてしまったことに関しても。皆さん公演もあるでしょうから、できるだけ負担を与えたくなくて。でも、これから忙しくなりそうなので、中途半端ですがこの時期にさせてもらいました。」

抜けた後までこっちを思ってくれるのは実にらしい。でも、俺達が聞きたいのはきっとその先だ。

「将来の夢の地質学者と言うことを考えますと、申し訳ないですがここではということで転学を考えさせていただきました。そういう訳で皆さんには凄く迷惑を掛けてしまうことになりますけど、本当にごめんなさい。今までありがとうございました。」

本人の口から、懸案していたことの答えが語られた。俺は場違いなため息をついてしまった。やはり西脇の言っていたのは嘘では無いか。やはりネットの情報はたやすく信じるものではなかった。その言葉を最後に幹彦は言葉を切った。また、部室を沈黙が包む。

「そういう訳だ。まあ……部活からはいなくなるけど完全に話せなくなるわけじゃないしな。多分公演もまた見に来てくれると思うし。」

そう清水先生が言い継いで、ミーティングは終わった。みんなの顔は暗いが、それはきっと言葉を噛み締めているからだろう。霧雨は止むことがない。折からの風にもあおられて横殴りになり始めた。さぁさぁという音が校舎の壁を越えて響いてくる。

 帰り道。本当に久しぶりの10人での帰り道。霧雨など降っていないかのように、傘も差さず俺達は歩き続ける。ポツポツと会話も飛び交う中で、幹彦は終始最後尾を話すことなく歩いていく。俺は彼のすぐそばを歩き続けた。どうせすぐ会えなくなるのなら、少しでもそばにいてやりたいし、そばにいたい。

「国之……あ、いや、ごめん。」

俺になにか話しかけたいようだったが、幹彦の心には直前でストッパーがかかってしまうようだった。俺はそんな彼に近づこうとするも、一定のところで彼は憂えたような顔で距離をとる。胸の中に少しの苦さが広がった。

「幹彦、あのさ、ちょっと話したいことあるんだけど、いいかな。」

俺の代わりに幹彦に突っ込んでいったのは一美だった。どうやら覚悟を決めたらしい。俺は察して前の方へと足を早めた。

「ん? 」

柔らかい声で幹彦は立ち止まり、一美の方へと向き直る。どうやら一美はいいらしい。また暗澹とした気持ちを残して、俺は場を離れた。

「あのさ、幹彦、私……」

そう弱々しく話す声を背中に聞きながら。


 「あのさ、幹彦、私……」

やっと話せる。やっと言える。楽しみにしていたはずなのに、私の胸は暴れることをやめてはくれなかった。このままじゃ言えずに終わってしまう。こっちを向いてくれている幹彦が眩しい。早く、早く言って楽になろう。

「あのさ、幹彦。次いつ会えるかわからないから言わせて。私、幹彦のことが好き。」

やっと言えた。言ってしまった。急速に拍動が収まっていく。きっと今の私は情けない顔をしているだろう。そんな私を見た幹彦は、困ったように少しだけ笑ってくれた。

「ありがとう。一美。でも僕、他に好きな人がいるんだ。その人とは離れることになっちゃったし、凄く迷惑をかけちゃったけど、やっぱり大切なんだよね。」

「そっか……。そうだよね。ごめん。」

急に恥ずかしくなった私は逃げたい気持ちに駆られる。多分もう、素直に幹彦とは話せない。こみ上げてくる熱いものを隠して、私は前へ前へと走っていく。困らせるかもしれない。でもきっと美智なら聞いてくれる。やはり困った顔の幹彦を残して、私は駆けていく。


 先輩たちと無言のまま歩く俺のそばを、半分泣き顔の一美が駆けていく。彼女はそのままの勢いで美智に突っ込んですすり泣いている。俺はその表情で察した。きっと一美は振られてしまったのだろう。言葉をかけてやりたいが、俺の言葉を咀嚼する余裕は今の一美にはなさそうだった。ひとまず幹彦の元に戻ろうと俺は足を止めた。それにしても幹彦はいつの間に好きな人なんて出来ていたのだろう。しかし、当然そんなことを話せるわけもなく、少々意外な気持ちを抱えて、俺は去山駅に向かった。

 ほとんど何も言葉を交わせぬうち、帰り際になり、幹彦に何か言おうと言葉を探す俺。昨日の腹案は、完全に頭から抜けてしまっていた。俺に対して避けるような、悪く言えば冷たい態度をとっていた幹彦が動いたのはそんなときだった。

「国之……!! あのさ! 」

「なんだ!? 」

幹彦が思い悩むような、でもかなり大きな声を出した。驚きと嬉しさとが同時に去来し、思わず変な声を出してしまう。もしかしたら最後に幹彦からも何か俺に言いたいことがあるのかもしれない。突然の出来事に、俺はもちろん8人の部員達も一斉にそちらを向いた。

「あの、さ、ほんとにごめん。僕が転学した理由は、本当は将来のためなんかじゃない。」

「え…、!? 」

俺と奏先輩が異口同音に声を上げた。世界が静止する。幹彦本人から言っているのだからきっと間違いはない。ならば、今まで先生が言っていたことは何だったというのか。

「みなさんも、本当にごめんなさい。先生には、ほんとのことを言ってあります。口裏合わせてもらってたんです。どうしても、嘘つききれなくて……。」

「じゃあ、ほんとの理由はなんだって言うんだよ? 」

少しの怒気を含んだ声が克己先輩の口から漏れる。幹彦は、答える代わりに俺に問を発した。

「ねぇ、国之、覚えてる? 僕と国之って、休み時間とかでも結構一緒にいたよね。それで、いつの間にかクラスメートからホモだホモだってバカにされるようになってて。」  

「うん。そうだったよね。たしかに。」 

確かにバカにされてはいたが、特に俺は気にしてはいなかった。いつもの男子の冷やかしだと思って過ぎていた。

「でも、俺実はそれなんだ。」 

「それ」とはどういうことだろうか。俺はまたモヤモヤしたものを頭に浮かべた。しかし、その靄を払うように、幹彦の声が響く。

「僕さ、実はバイセクシャルなんだよね。だから、あながちホモってのも正鵠を射てた。冷やかしかもしれないけど、みんなのそれが出ていけっていうふうに感じちゃって……。」

不思議と驚くことはなかった。何故か俺の周りにはそういう人が割といる。バイセクシャルとは、確か自分の性別に関係なく同性、異性の両方が恋愛対象になったりする人のことだったはずだ。ふと、俺は何かに気づいて声を上げる。

「まさか、それに耐えられなくなってきて転学を……? 」

「そういうことだよ。新天地なら上手くやれると思ったのに……。」

そう言い放った彼の表情は冷たく、どこか吐き捨てるようにそうつぶやいた。どこか絶望したような顔だ。いつの間にか雨は止み、夕闇に沈む街の最後の残光が、幹彦の横顔をおぼろげに照らしている。

「じゃあ、どうして部活まで休んじゃったの……?」

純粋な疑問の声で、美智が呻いた。半ば詰問調になってしまってはいるが、それを咎められる者は俺達7人の中にはいなかった。

「美智、そもそも学校に行ってないんだから基本的に部活なんて行けるわけないよ。週末の部活だって、僕には行く勇気は無かった。」

幹彦はさらに口調を暗くしていく。半分泣き出しそうな顔ながら、危うい均衡を保っている。

勇気なんて出さなくても部活に来るくらいならなんのことは無いだろう。そう俺は思ってしまった。しかし、幹彦の次の言葉で俺は最大の後悔に気付かされることになる。   

「そもそも、部活に行かなかったというより、行けなかったんです。彼に、他でもない国之に凄く迷惑をかけてしまってたから。彼は、僕への冷やかしが本格的になってからも、ずっと僕のそばにいてくれたんです。その裏では国之だって色々と言われてたはずなのに。変な目で見られてたはずなのに。一緒にいたら、彼にも迷惑がかかる。それは、それだけは絶対に嫌だった! そもそも彼は、僕のことなんて受け入れてくれるわけないんだ!! 」

なぜだか一美が息を飲む音がした。俺は得心が行き、次にやってきたのは激しい、本当に激しい自己嫌悪だった。もしも、俺がもっと早く大丈夫だと言っておけば、幹彦が部活に来なくなることも、転学することも無かっただろうに。どす黒いものが俺の全身を駆け巡り、今にも吐き出ようとする。自己嫌悪の一方で、ふつふつとうごめく何かを感じていた。俺が幹彦を、周りの目を迷惑に思うだって? 周りの目はまだしも、俺は幹彦といて、彼を迷惑だと思うことは絶対にない。人の気持ちを勝手に決めるな。それは、怒りにも似た激情だった。

「じゃあ、どうして公演には来られたの? 国之を避けたいなら、公演だって来ない選択肢もあったはずなのに。」

さらに問いかけは続く。今度は佳穂先輩だった。

「それは……この芝居を見逃すわけには行かなかったからです。この芝居は、僕を最初に救ってくれた芝居だから。健太先輩、江東監督をやった先輩なら、ラストシーンのポーズは覚えてますよね。」

「お、おう……。」

健太先輩だけでなく、最後に共演していた俺も覚えている。半身を捻り、サムズアップとともに行うポーズ。そして、「ぱぁふぇくと」の一言……。たしかそれは、普段幹彦がやっていたのと同じもので。台本の段階で何となく気付いていたことが、幹彦の言葉で確信に変わる。

「これは僕の解釈なんですけど、あのポーズはいわゆるグッジョブなんです。それも、個性を出し切り、やれることをすべてやった相手への。その証拠に、柿田がフルスイングでホームランを打とうと彼はそうしなかった。柿田の得意分野はあくまで小技でしたから。個性を殺さず生かしたものへのポーズがそれなんです。僕は、本当にそれに救われました。ちゃんと見てくれる人がいれば、自分を殺さなくてもいいのかなって。だから、僕はこのポーズを今でも使ったりしてます。それで、そんな芝居のためなら僕はと思って行ったんです。」

「幹彦……。」

奏先輩が感嘆のような声を上げている。

「それじゃ、僕はもう行きますね。言いたいことは言い尽くせましたから。短い間でしたが、ありがとうございました。」

そう言って、彼は改札の方に去っていく。幹彦の足音だけが冷たく駅にこだましていく。矢継ぎ早の出来事のためか、誰も声を出せる者はいない。ふと、幹彦は思い出したように立ち止まった。

「国之、次にいつ会えるか分からないから言っとくよ。僕、やっぱり国之のことが好きだ。」

そう言って、彼は改札へとまた歩き始める。俺は唐突に昔のラインを思い出した。「大好きだ。」というあいつのライン。あれは冗談などではなかったのだ。このままでは終わりたくない。終わらせたくない。その思いが俺を強く突き動かす。

「幹彦!! 」

俺は気づけば叫んでいた。周りの耳目を集めるが、そんなことはもうどうでもいい。あいつに届け。

「人が自分のことを勝手に迷惑って思ってるなんて、そんな勝手に人の気持ち決めつけてんじゃねぇよ! お前はそうやって決めつけて、俺がお前を迷惑なんかじゃない、むしろ話したいって思ってることさえ否定するのか!? 俺はお前ともっと話したかったんだ、お前ともっと一緒に芝居がしたかったんだ! お前は俺の居場所だったんだ!! もうこれ以上手前勝手なそと言うんじゃねぇよ! 」

俺の体は熱くなり、気付けば涙さえも流していた。あいつは聞き慣れない大声に思わず身をすくめる。それでも悲しそうに、嬉しそうに小さく笑ってくれた。俺にさらに掩護射撃を加えたのは奏先輩だ。

「幹彦、今の幹彦がどう思ってるかは分からない。でも、国之を始めとしたみんなの心の中に幹彦はいたの。迷惑だなんて思ってたら、幹彦のためにこんなにみんな残ったりしない。そうでしょ? 今の幹彦にはたくさんの友達が居て、仲間がいる。もう、あなたを邪険にする人も、変な目で見る人もこの部活にはいない。昔の私が君にできなかったことを、今の仲間は十分すぎるくらい果たしてくれてる。幹彦一人が身を引けばどうにかなることじゃないの。幹彦はこの去山高校演劇部の一員だったんだから。もしこれ以上あなたが自分を迷惑だと思うんだったら、幹彦のことを大事に思ってる私達も否定することになるんだよ。」

最後の一言に涙が混じる。幹彦は、ハッとしたように笑みを浮かべた。

「ありがとうございます。」

その声も、少し震えていた。

「だから言ってるしょ幹彦。お前がどこに行ったって、絶対に俺達はお前のことを忘れないし、お前は俺達の居場所だ。もう戻って来られないことはわかってる。だけど、公演くらいなら来てくれないか? 」

「うん! もちろん……。国之、本当にごめん、ありがとう。」

俺はふと思いついた。最後にお得意のあれをやって、別れよう。幹彦も、きっと受け入れてくれる。

「幹彦、お前ならどこへ行ったって大丈夫だ。自分らしさを貫いていけよ。ぱぁふぇくと!! 」

最初はおどけて、最後は真剣に言葉を紡ぐ。そして、あのポーズ。

「うん! ぱぁふぇくと! 」

真似してもらえた。受け入れてもらえた。そんな現実に、また心が温まっていく。幹彦はふと思い出したように言葉を紡ぐ。

「あ、そうだ、国之。僕からも一つお願いがある。」

「ん? どうした。」

彼は一拍置いて、少し憂いも含んだ声で続けた。

「国之、君がこれからどれだけ辛くなろうと、苦しくなろうと、絶対に演劇部をやめるなんて思わないでほしい。この集団は本当にいいところだ。自分の意思で出ていく僕もちょっと名残惜しいくらいだ。ここなら、みんな受け入れてくれる。絶対にやめようなんて思わないで。後悔することになるよ。」

俺は不意をつかれて完全に黙り込む。急に何を言い出すのだろうか。

「どうしたのさ、急に。」

「いや、何となくだよ。まぁ、国之のことだからないとは思うけど。約束してくれる? 」

「もちろんだよ!! 」

心の憂いを消して俺はうなずく。

「それじゃ、元気でね、国之。」

彼は手を振りながら、階段へと上がっていく。後ろ姿になり、顔は見えなくなってしまった。でも、彼はきっと笑ってくれている。そんな気がした。俺は彼が見えなくなっても、彼を乗せた電車が行ってしまっても、なかなかそこから立ち去ることは出来なかった。

 かなりの時間立ち尽くしてから、俺は大切な仲間たちのところへ戻った。みんな清々しいような澄み切った顔で迎えてくれた。

「国之、お前も幹彦と同類だよ。」

帰ってきた俺を、好美先輩がいつもの憎まれ口で迎えてくれる。疑問と安心感を同時に感じる。

「お前も自分が不要だなんて思うんじゃないよ全く。その気持ちの決めつけは、全然幹彦のこと言えないんだからね。私は全部わかってるんだから。お前も、私達の居場所さ。」

やはり見られていたようで、少々バツが悪い思いになる。みんなも驚いているようだが、不思議と怒りの声を上げる者はいなかった。

「お騒がせしてすみません。僕もそんなことを思った時期が、あったりなかったり……。」

「ほんとにいいところも悪いところも国之と幹彦は似てるねえ。」

少し老いたような発言をする由香里先輩に、一斉に笑いが漏れる。去山高校演劇部9人を和やかな雰囲気が包み込む。 

「さ、帰るよ!まだまだ公演は来週もあるんだし、電車もあるんだから。立った立った!! 」

由香里先輩にどやされつつ、俺達は立ち上がる。何人かが小言を挟みつつも、電車が近いのは事実だ。俺達はぞろぞろとホームへ向かった。

 明日からもまだまだ練習は続く。より良い本番に向けての練習、演劇部を存続させ、思い出を作り続けるための練習が。やっぱり、幹彦の言うとおりだ。どんなに落ち込んでも、結局は受け入れてなんとかなると思える。それがうちの部活の最大の良さだ。俺はポケットから退部届を取り出して破り捨てると、仲間達に追いつこうと走り出した。このメンバーならどこまででも行ける。そんな気がした。

 ふと空を見上げると、満点の星空と月が俺達を眺めていた。電車の音がぼんやりと近づいてくる。

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