第15話 責任の領域

 翌日、4月6日。珍しく朝寝坊してしまった俺は駅からの道のりを全力で駆け抜ける。眩しいくらいの陽光の中が俺を包む。部活の始まる9時半より5分ほど遅れてしまった。 

「おはようございます!! 」

ダッシュで息を切らした俺を迎えたのは、いつもの穏やかさとは無縁の物だった。怒られると思った俺も思わず息を飲む。奏先輩と、それを睨み据える好美先輩の姿がそこにはあった。他の部員たちもいるにはいたが、好美先輩の剣幕に恐れをなして手をこまねいている。

「だから、いつになったら出してくれるの? もう1週間経つんだよ!! 縮尺測って合わせるだけだからすぐでしょ!」

そういえば、図面とパネルの縮尺が合わないような話をしていた。でも、何かおかしい。心に引っかかるものを感じたが、俺はひとまず話を聞いておくことにした。

「ごめんなさい……色々と立て込んでいたので頭から抜けてしまっていて……。」

奏先輩は自分のものと思われる台本を手にしている。凄まじい数の書き込みで端はよれ、遠くから見ると台本全体が灰色に染まって見える。演出として仕事をしてきた何よりの証拠だ。顔にも心なしか生気が薄れ、目のくまも深くなっていた。

「今回の芝居、使うパネルは少ないけど場面転換が多いんだから、申し訳ないけど、できるだけそういうのは早くしてもらえると助かるよ。出来れば今日にでもよろしく!! 」

好美先輩は吐き捨てるようにそう呟く。彼女の顔は混ざりあった感情でいびつに歪みつつある。どうして何もしないのか。俺は自分の体が高揚していると気づいた。息切れではない、名前のつけられないその感情が怒りだとわかるのにそこまで時間はかからなかった。俺は思わず好美先輩に食ってかかる。

「好美先輩、どうして自分でやろうとしないんですか!? 確かに広報の時は自由意志で、特定の誰かが働く義務を持っていた訳じゃなかったのでまだいいです。」

「国之!? 」

周りの動揺の声を意識の端に感じたが、俺は自分を止められなかった。止める気も無かった。

「……でも、あなたはいま舞台監督として責任ある立場にある。そんなあなたが舞台の縮尺を測ることすら人に任せてどうするんですか! あの時、由香里先輩は分担しようと言いましたけど、あれはあくまで明確にやるべき人が決まってない人の話です!! やることが決まってるあなたは舞台関連のことをやり遂げてください!! できることをやって、演出の負担を少しでも減らしてください!! 」

全力で言い切った俺は、集中状態から解放されて少しめまいを覚えた。そんな俺を待っていたのは好美先輩の反駁と部員達の驚きを含んだ視線だった。

「言いたいことは分かるし一理ある。確かに、仕事は当然果たすべきだし、演出の負担も減らすべきだと思う。でも、私は2度手間が嫌いでさ。自分で測って、何度も調整し直すくらいなら初めから演出さんにしてもらえばいいのかなって。」

「だからってどこまで演出さんにやらせる気なんですか! 全て演出がやるならわざわざ部門ごとに分けて責任者を置いてる意味が無くなりますよ!! あなたは大会でも舞台監督やってた一端の経験者ですよね!? そのくらいの臨機応変さすら無いんですか!」

思わず個人攻撃に、半ば煽りに入ってしまった。かなりまずい。案の定火に油を注がれた好美先輩は怒り出した。

「臨機応変さの全くないあんたに言われたくないわ!! あんた、舞台監督やったことあんの!? 無いでしょ? あんたに何がわかるのよ!! 」

そう言うが早いか、好美先輩は持っていた一間棒(いっけんぼう)を抱いてそっぽを向いた。俺の話に取り合う気はもう無いのかもしれない。確かに、言われてみれば俺は舞台監督として何かをしたことも無ければ、その苦労を慮ったこともない。言われて当然のことだった。いつもの通り硬直し、二の句が継げなくなってしまう。

「俺は、少しはわかるぞ、好美。」

代わりに口を開いたのは健太先輩だった。健太先輩はいつものふざけた先輩から人が変わったように真剣な顔をしていた。

「好美も知ってると思うけど、俺は1年のとき、学校祭で助舞台監督をやったんだ。だから、多少は苦労もわかってるつもりだ。」

健太先輩が話していくにつれて、好美先輩の表情が少しずつ柔らかくなっていくのを感じた。しかし、健太先輩が言った次の言葉でみんなが凍りつく。 

「でも、確かに演出さんにわざわざ図を書いてもらうのは面倒だし、時間の無駄だよな。今回混乱した件もあったし。これからは演出がパネルの縮図を書いたりしないで、そういう図面、特に舞台全般に関わるものは舞台監督が書いたほうがいいんじゃないか。後から演出に確認するのは面倒かもしれないけど、負担が減らせるようになる。」

至極妥当な提案だと思った。しかし、今までやってきたことを大幅に変革することはやはり受け入れ難いのだろうか、みんなは糸を張ったような緊張感とともに何も出来ずにいる。ふと、時間を確認した由香里先輩がつぶやいた。

「あ、奏、もう9時50分だよ!! 始めないと!」

「そうね、ひとまず、今回の新歓に関しては、舞台の図面は舞台監督さんにお願いしようと思うのでよろしくお願いします。集合!! 」

 ミーティングが始まり、好美先輩は釈然としない顔で渋々集まる。割と古い去山高校校舎。時折吹いてくる隙間風が体を軋ませた。

「演出からです!! 昨日も家に帰ってから台本についていくつか考えたのですが、多少の変更点がありましたので、該当する人に連絡します。それから、また先のことにはなりますが、残り一週間になったら朝練をしたいと考えています。今日については、昨日と同様頭から流していこうと思います。出来れば後半は行きたいなと思います。よろしくお願いします。」

「あ、ちょっといいか? 」

同席していた清水先生だ。何か話すことでもあるのだろうか。

「練習が遅れてる今はあんまり言うべきじゃないのかもしれない。でも、昨日の国之のこともあったからこれだけは言わせてほしい。」

そう言って先生が語りだしたのは、昨日俺に話してくれた「いい役者の条件」についての話だ。ほとんど俺の聞いたことと同じだったが、更に一つだけ追加されていた。

「さっき、いつでも同じようにって言ったけど、これは何も役者本人だけの問題じゃない。役者個人が、いつでも出来をキープするのはもちろんなんだけど、周りもその手伝いをしてほしい。スポーツ選手が優秀な運動理論を持っていたり、食事に関するアドバイザーがいたりするように。いくら個人の努力があっても、集団がバラバラだったりしたらいい役者はできっこないし、ある意味いい役者をつくるのは個人と周りの共同作業みたいな所があるからね。すまん。長話になってしまったな。始めようか。」

先生の話は確実にさっきの論争のことを指している。建設的な論争はいいが、バラバラにならないように……。先生の言いたいことはよくわかる。演劇は他のもの以上に連携が必要になるんだ。

 こうしてようやく始まった練習。意識のせいもあってか昨日よりも格段に演じやすくなっていた。しかし、結局のところ進歩はあまり見られず、奏先輩によれば、昨日よりもひどくなっているところもあるようだ。努力しているはずなのに、認められない。成果が出てこない。果たしてそんな物は努力と言えるんだろうか。全体としても、何とか空中分解せずに危うい均衡を保ってるように過ぎないと思えた。好美先輩については、要領を健太先輩に教わりながらなんとか図面を書いているのを見かけた。しかし、その顔はやはり憮然としていた。帰りのミーティングでは大した連絡はなく、先生は頭のミーティングに続いて発言をした。いつもは見ているだけの先生がここまで発言するのも珍しい気がする。

「俺が今言いたいのは一つ。仕事の責任の重さを感じて欲しいってことだ。」

朝よりも直接的な表現。小さく好美先輩が肩をすくめていた。

 帰る直前、俺は由香里先輩に呼ばれた。彼女は少し怒り気味だった。

「国之、ミーティング直前にあんな喧嘩しないでよ!! 練習する時間も無限にあるわけじゃないんだから。あと、明日からもう少し早く来れない? 主役が遅刻じゃみんなに示しがつかないと思うよ。」

それは確かにそのとおりだ。昨日に関しては、あの遅い時間にLINEをし、しかも結果を勝手に解釈した俺が悪い。

「はい……、もう寝坊なんかしませんし、遅刻しないよう努めます。」

「うん、それに、明日からは私ももっと早く来ようと思うから、一緒に柿田、特訓しよう!! 」

「はい!! 」

思いもよらないことになった。今の部活の雰囲気として、悪くは無いが決していい方でもない。みんなが少しでも気持ちよく部活ができるように、個人の行動から変えていきたいと思った。

 帰り道、身を切るような寒風が吹く中、俺は美智と他愛もないことを喋って帰っていた。「そういえばさ、あんまり国之って部活遅刻したことないよね。今日どうしたの? 」

まあ、大したことでもないだろうし、個人の問題だ。多少かいつまんで話すか。

「ほんとに大したことない個人的な問題で自分でも情けないくらいなんだ……。えっと……」

興味津々で聞き入る美智。ここまで反応されると思わなかったが、それに嬉しく思いながらも話し始める。寒風の中、俺の意識は徐々に記憶の底へと向かっていった。

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