第38話 さよならの向こう《最終回》

      -38-


 四月五日、十九時五十五分、――終了まで残り五分。

 最後の夜を迎えた。 

 点々と灯された外灯の下には、桜の季節を惜しむ若者らの姿が見えた。それでも花冷えする夜である。ともすれば風変わりに見える花見客の人影は疎らだった。

 風に吹かれる夜桜の下、小川に沿った遊歩道を歩く。普段は通勤にしか使っていなかったこの道は、昼間のような活気も無く、閑散として寂しげだった。

 

 白いベンチに腰を下ろし見上げる。枝葉の向こうには紺碧の夜空が広がっていた。

 風が吹いて枝が揺らされると、残されていた花が散った。踊るように飛び出した花弁がひらひらと流れていく。

「キレイ……。やっぱり、出掛けてきて正解ね」

 言葉が口をついて出た。

 落ち着いていた。ミッション終了を目前にしても気持ちは穏やかだった。

 ――これで最後だ。

 私はしっかりと自分の恋の終末を見届けなければならない。

 気持ちを整え、来るべき時を待つ。

 時は、進む。

 来る、いよいよだ。

 視界に何らかの表示が現れて終了となるのか、何も起こらずに淡々と時だけが過ぎるのか、それとも最後にあの妖精が現れるのか。

 私は、終わりを教えられていなかった。いったいどのような形で終了が告げられるのだろうか。


 トクン、トクン、と鼓動も時を刻み始める。

 緊張しながら深く息を吸う。

 腕時計に目を落とす。

 針の動きがやけに遅く見えた。

 それでも秒針はカチカチと時を刻み進める。

 止めようのない現実を教える。

 私は、息を止めて待ち構えた。


 ――4秒前、3秒前、2、1、


 その時が来た。

 おそらく、これが終了を知らせる合図であろう。

 頭の中に聞こえてきたのは、カリヨンの鐘の音のようなベルの響きだった。

 終わった――これで一生涯、私の恋は消え失せた。

 肩から力を抜く。私は、止めていた息を放ち来るべき者を待った。

 ……しかし、何も音沙汰が無い。

 確たる合図はあった。

 これでミッションは終わったはずだが……、

 取り立てて何も起こらなかった。身体にも心にも何の変化も起きなかった。あの妖精は、待てども一向に姿を見せない。私は、案外こんなものなのか、と拍子抜けしてしまった。

 それにしても、何と不親切なのだろう。初めて登場した時は、土砂降りの雨も、人も車も、時間さえも止めて仰々しく現れたくせに、今はこのように何も告げず、何の後始末も付けずに去るとは無責任にも程がある。

 これから私はどうなるのだろうか……。

 私は最高の恋を拒んだ。取説には、権利を放棄したら終わりになると書いてあったので、私の選択は、しくじった、ということに他ならない。しかし、それならば終了を知らせたあの鐘の音にはどういう意味があったのか。もしかすると、最後の最後までロストはしていなかった、ということなのだろうか。

 どういうことだろう? コンプリートは出来なかったが、ミッションはクリアした、と解釈しても良いのだろうか。……いや、多分、違うだろう。それは、未練が思わせる希望的観測でしかない。

 恋愛ミッションとは一体何だったのだろうか。

 期限に間に合わなければ、一生、恋が出来なくなるというが、喪失感がまるで無い。それどころか、居心地の良い職場も、健やかな家族も、友人も――この一年の間に得られたものは多かった。それは全て掛け替えのないもので、結果、私はこんなにも満たされている。今の私は胸を張って幸せだと言える。

 考えてみれば、失ったのは恋という朧気なものだけだった。

 恋って何だろう……、私が失ったものは……、

 心の中にふわりと彼の微笑む顔が浮かぶ。

 ――なんで? もう無くしたはずなのに。

 彼は第一待ち人だった。

 二人で大樹を見上げた時に心地よさを覚えた。

 二人で飲んだ珈琲は心を温めてくれた。

 守りたいと言ってくれた時は本当に嬉しかった。

 幾度となく、必然のように巡り合わせた偶然。

 ――様々な思い出が頭の中を巡る。


 痛い……、胸が痛い、心が、痛い。


 唐突に込み上げる感情。私は、歯を食いしばり胸を押さえた。

 ダメ、心の奥にまだ誰かを好きになる感情が残っている。私は、湧き上がる思いを押しとどめようとした。自身に言い聞かせた。この感覚も、直に消えてなくなる。だから今は、耐えろ、耐えろ、耐えろ。

 それでも、想いは募る。無かったことには出来なかった。

 ――私、こんなにも健太君のことが好きになっていたんだ。

 胸の奥に押し込めていた熱に触れる。

 ポトリと、涙が膝の上に握る拳の上に落ちる。

 決壊する自制心。途端に素直な気持ちが溢れ出す。


「好きだよ、好きだよ、好きだよ。嫌だよ、こんなの……、こんなので終わりだなんて嫌だ」


 失った今になって、ようやくハッキリと言えた。私は、初めて真実の気持ちを言葉にした。好きだと、言えた。

 私の恋は、あって当然のもので、無くしては生きていけなくなるほど大事なものだった。

 失ってなお、こんな気持ちを抱くとは……。

 私は、これまで何をやってきたのだろうか。

 喪失感が胸の内に広がる。ひどく落胆する。

 もう、どうにもならない。

 私は恋を失った。

「健太君、あなたのことが好きです。こんなにもあなたのことが……好き」 

 私は、閉じ込めていた思いの全てを空に解き放った。

 涙声が夜風に攫われて消える。もう、気持ちの置き場も分からない。

 私は、泣きながら笑っていた。

「だけど、もうこれでお終い。さよならだ……」

 折から吹く夜風が桜を吹雪かせ、髪をかき乱す。滲む景色には満天の星。

 私は、流れ星を見送ったあと視線を落としギュッと口を結んだ。

 そうしてしばらくの間、ぼんやりとしたまま葉擦れの音を聞いていた。

 ちらり、ちらりと花弁が降る。

 溜め息の後、乱れた髪を後ろへと撫でつけ顔を上げた。

 ――家に帰ろう。

 心残りを振り払い、諦めることを決意した。だが、悪夢は追い打ちを掛けた。

 それは、傷心を慰め立ち上がろうとした時のことだった。

「なんで? なんで、あなた……」

 朧気な視界の中に思いがけない人物のシルエットを捉える。

 人影が桜並木の向こう側から近付いてくる。ゆっくり、ゆっくりと歩み寄ってくる。私は、混乱したまま俯いた。

「こんな冷える夜に、こんなところにいたら、風邪をひきますよ」

 背の方から聞こえた声は、いつも通りの柔らかな声だった。

 肩にふわりとコートが掛けられる。彼の温もりが私を包み込んだ。

 だけど私は喜べなかった。――なんて酷い事なのだろう。これが、行いに対する報いなのか。せっかく頂いた神様のギフトを、幸せになるための選択肢を、私は自らの意思で放棄した。これは、だからこその罰なのか。

 だとしても、こんな残酷なことはない。

 最後の最後、全てが終わってしまった後にこの仕打ちは余りに酷い。

 今更、心を揺らしてみてもどうすることも出来ないのに。

 抱く素直な気持ちを告白する機会などもうないのに。

 いま、大好きな彼が目の前にいる。失意にまみれる私を優しい眼差しで見てくれている。なのに、何も許されない。意味が無い。私の恋は全て、消えて無くなるのだから。

 肩を震わせながら下を向き唇を噛む。何の言葉も出てこなかった。

「菜月さん、なぜ泣いているのですか? 何かありましたか?」

 優しさが降りてくる。声は波紋を描くように心の中に広がっていった。

 もっとその声を聞いていたい。だけれど、私にはもうその資格がない。

 でも、でも……、ああ、このまま時間が止まってくれればいいのに、そうすれば私はこの人の側にずっといられるのに。

 全てを受け入れなければならない。それでも、揺れる心を押さえつけることが出来ない。私は未練に引きずられながら振り返った。

「あ、あの……」

「なんです? 菜月さん」

「どうして、ここに?」

「それは、実のところ僕にも分かりません。気が付いたらここに来ていました」

 はにかんで健太君が頭を掻いた。

 この笑顔を、もう二度と見ることが叶わないかもしれない。私は、健太君の笑顔を、大切に大切に思って見つめた。

「強いて言えば、『運命』ということでしょうか」

 健太君は馬鹿でしょと言って笑った。

「……運命?」

「訳が分からないですよね、こんな事、おかしいですよね。自分でもそう思います。でも、今日じゃなきゃダメだって思ってしまって」

「今日が、何か……」

 何のことだろう、私は首を傾げた。

「あ、いえいえ、それは僕の都合です」

「健太君の都合?」

「はい、これは僕の都合です。でも、もしかしたら、もしも運命が微笑むのなら、今日という日ならば、菜月さんに出会えるんじゃないかと……」

「今日? 出会える?」

 何のことだろう。私には、彼の言わんとするところが理解出来なかった。

「出会えるというのは僕の独り善がり。実は、今日は記念日なんです」

「記念日?」

「はい、菜月さんは覚えていないと思いますが、実は、僕が初めて菜月さんに出会ったのが十三年前の四月五日だったんです」

「え?」

「すみません。随分と身勝手なんですけどね。でも僕にとっては大切な日だった、って……ホント馬鹿だな僕は、でも、そうでもしないと勢いが……」

「勢い……?」

「僕は、告白をするために、運命を信じてここに来ました」

 彼の言葉を聞いた瞬間に胸がトクンと高鳴った。これは、夢なのだろうか、と頬をつねりたい気分になった。いったい何が起こっているのか、こんなことがあって良いのかと考えたときにハッとする。

「告白って、あなたには詩織さんが――」

「彼女なら、もう大丈夫です」

「え?」

「どうやら彼女は、未来を見つけたようです。彼女はもう自分の足で歩き始めた。過去はもう、要らないのだと言われてしまいました」

 健太君はサッパリとした様子で苦笑を浮かべた。

 私は、呆然としながら彼の顔を見ていた。

 少し戸惑うように横を向いた彼が、よし、と意を決するように息をつく。そうして私の顔を真っすぐに見てきた。

 私と彼の視線が合わさる。

 見つめる先で健太君の唇がゆっくりと開いていく。

「僕は、菜月さんが好きです。初めて会った時から、ずっとずっと好きでした」

 告白を聞いた途端に涙が零れた。

 胸の奥に閉じ込めようとしていた熱が一気に溢れ出す。

 嬉しかった。もう想いは止められなくなっていた。

 私は、あと少し、ほんの少しで良いから時間を下さいと神様に願った。

 震える唇を固く閉じてから想いを言葉に変える。

「わたしも、好きです。健太君のことが大好きです」

 告白して下を向く。目の前はもう滲んで見えなくなっていた。

 溢れ出す涙をぬぐう。心の底から満足していた。私はこの上ない幸福に包み込まれていた。――これでいい、これでもう思い残す事はない。さようなら。

 思うと同時に強い風が吹いた。直後、異変は起こった。

 それは一年前のあの日と同じように突然起こった。

 辺りが明るくなり、時間が止まる。

「これで、ミッション終了だね、佐藤菜月さん。まったく、こんな選択をしてしまうなんて、あたしは想像も出来なかったよ」

「妖精、さん?」

「一年間よく頑張りましたね、お疲れさまでした。これで約束通り、まぁ結果、もうこれから先、あなたには恋は訪れません。残念ですが、いや、残念でもないか。ま、結果が全てだからね」

「――はい」

 一言だけで返した。私は、黙って妖精の死刑宣告を受け入れた。

「で? どうだった? 素敵な『最高のCOI』は?」

「見ての通りです。私は制限時間に間に合いませんでした。結果、恋愛を成就させることが出来ませんでした」

「しかし、まさかだよねぇ、最後の最後に、自ら利益を手放す選択をしちゃうとはね」

「はい……」

「でも、見事な利益相反、『COI』だったよ」

「え?」

「ミッションクリアの鐘の音が聞こえただろ?」

「え?」

「おめでとう、佐藤菜月さん」

「え?」

「あれ? あたし、最初に言ってなかったっけ? 個の救済は神様にとって利益相反行為に当たるって、全能であるからこそ神様は全部の人を救えない。神様はその立場を利用して特定の個を救済してはいけないんだ。そんなことをすれば世界がおかしくなっちゃうだろ? でもね、慈悲はあるんだ。言っただろ、神様は機会を与えて下さるのだと。これは、神様のCOI、直接手を出さずに救済するシステム。だからこその、とっておきのギフト」

「え?」

「おいおい、それでも元起業家かい? あの時、自分でも言ってなかった? 言ってたよね? 『えらく現代的な企業用語を知ってるんですね』って」

「え、ええ。でも……」

「だよね。だからさぁ、てっきり分かっているものだと思っていたよ、『C・O・Iシーオーアイ』が利益相反行為を示す言葉だって『コンフリクト・オブ・ インテレスト』略して『コイ』」

「最高のCOIって、そ、そういうことだったの!」

「あれー? あたし何か勘違いさせること言っちゃってたかなぁ?」

「……」

「いやー、それにしても最高の『コイ』でした。御見事でしたね。まさか自分の利益を取り戻す為の助け人を誰一人も選ばないまま、意図して自分に不利益を呼び込んで、その上でなお相手に利益を与えることで、利益を呼び戻すとは考えもしなかったよぉ。しかも玉突きで周囲の人達も救済しちゃうって、凄いよ」

 惚けるようなその声色とドヤ顔が、どことなく腹立たしかったのだが、説明を受けていてもまだ頭が混乱していて何をどう理解していいか整理がつかない。

「これも初めに話したことなんだけど、失恋なんかしている人間があたし達に出会えるなんて稀だって」

「そ、それでは、あなたは初めから……」

「あたし達はバランサーなのさ、理不尽な目にあった人間が稀に出会えることがある幸運のバランサーなんだよ。恋愛なんてつまらないものに、わざわざあたし達が関わるわけないでしょ、あんなもんキューピッドにでも任せればいいのさ、恋なんてどうせ娯楽なんだし」

「ご、娯楽って」

「一時的な感情だろ? 恋なんて」

「は、はあ!」

「とにかく、ミッション終了おめでとう、これで君は幸せになれる」

「……」

「どうしたんだい? なにか不満でも?」

「じゃ、じゃあ、私はまだ恋が出来るのかしら」

「あ、ああ、それね、それはもう無理だ」

「え、えええ!」

「恋なんて娯楽だって言ったろ、まったくあんなものまやかしなんだから拘るのはやめておきな、それにもう必要ないだろ、終わったんだから」

「……」

「まったく、あたしは口に出さなくても思考が読めるって言ってなかったかな? なんでそんなに悲しむんだよ。佐藤菜月さん、君はもう愛を手に入れたじゃないか」

「え、ああ、ええっと……それって?」

「ミッションは無事にクリアした。おめでとうって言っただろ。これからも恋は出来るよ、ただし、君にはもう必要ないだろって言ってるんだ。まったくもう、始めから終わりまでこれか。ちゃんと人の話は聞かなきゃだめだよ」

「……じゃ、じゃあ、わたしはまだ恋が出来るの?」

「出来るよ、でも恋なんて――」

「いいえ、恋は娯楽なんかじゃないわ、だって私の恋はこの先もずっと続いていくのだから」

 胸を張って言い切ると、妖精は少し呆れるような顔をして笑った。


 こうして私の「最高の恋」いや「最高のCOI」は終わった。

 一年前のあの雨の日に、妖精に言われたことを考えてみる。

 確かに、彼女に言われた通り、この世には、誰かの利益が他の誰かの不利益になることが不文律としてあるのかもしれない。いやあるのだろう。

 それでも、私は思う。他者が得た利益は己の不利益とはならない。被った不利益は、必ずしも不幸だとはいえない。

 生きていれば、身の回りに辛い出来事は起こるだろう。だけど、負けないで欲しい。

 チャンスは必ずある。私のように「妖精」に出会うこともあるかもしれない。

 ――いや、訂正しよう。あんなものには出会わない方が良いな。

 大丈夫、心配はいらない。選択肢の向こうには必ず幸福がある、というのは、つまりは、世界は希望で満ち溢れているということだから。

 折れないこと、挫けないこと、前に進むこと、それが出来れば、きっと人は幸せになれる。だから負けないで欲しい。

 薄桃色の桜吹雪の中、惜しむことなく妖精は去った。

 桜が散っていく。今年も、散っていく。しかし枯れるわけではない。

 私は、抱きしめてくれている健太君の手にそっと手を重ねた。

 ――温かい。

「嬉しいです、菜月さん、大好きです。これからもずっとずっと……」



          ―― 完 ――

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