第35話 あくいの暴発
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「あらあら、まったく、あなたも懲りない女ね」
勝ち気を発しながら腕組みをする女が、事務所の入り口で扉に背を預けこちらを見ていた。
虎視眈々とした目つき、悠々とした振る舞い。その微笑は語っていた。彼女は満を持して現れた。
「池上葵!」
「あら、呼び捨て? 偉くなったものね。それともただバカなだけなのかしら?」
憂えた眼で私を見る。彼女は見下げながら髪を掻き上げ、やれやれ、と首を振った。
「好きに言えば良いわ。私はあなたなんかに屈しない。私はあなたと闘います! もう、あなたの思い通りにはさせない」
精一杯反抗して見せるが、池上葵は軽く鼻を鳴らすだけで、愉悦を浮かべる表情は、なんら変わることが無い。
「あら、威勢のいいこと。でもいいのかしら?」
「いいって、どういうことですか、仰っている意味がよく分からないのですが」
「高木健太が強制わいせつで捕まったって聞いたけど?」
池上葵は一言で場を支配した。彼女の一瞥に皆が息を詰めた。
「でも意外よねぇ、あんな大人しそうな男が痴漢だなんて。あ、違うかぁ、気弱で根暗な男だからこそ女に飢えて犯罪に走るのかもねぇ」
下卑た物言いであった。
「健太君は絶対にそんなことをしない!」
私は押し込まれながらも相手の迫力に抗い睨み付けた。
「あら? でも現に捕まっているのでしょ?」
白々しくも言ってのけた。彼女は、涼やかに私の視線を受け流すと、ゆっくりと歩み寄ってきた。
手札を小出しするように話す姿は、まるで、獲物が窒息していく様を見て愉しむ蛇のようだ。
「私ね、あなたとの誼でちょっと調べてみたの。そうしたら何と、その事件の被害者ってお父様の会社の女の子だったのよ。ねぇ、どうする?」
「どうするって、何を――」
「鈍いわね、分からないの? 私、あの方を助けてやろうと思ってわざわざこんな汚い所まで来たんだけど」
「や、やっぱり、これはあなたが仕組んだことなのね」
「仕組む? ふふふ、何で私があんなちっぽけな司法修習生如きにそんなことをしなきゃならないのよ。知らないわ」
「いけしゃあしゃあとよく言うわね!」
「あら、何かしらその態度、おかしくない? それともさっき私が言ったことが、まだちゃんと理解出来ないのかしら?」
池上葵は、どこまで馬鹿なのか、と呆れた様子で眉を持ち上げた。
「言ったでしょ、先程、彼を助ける為にここへ来た、と」
得意げに目的を告げる。これで主犯は確定した。彼女は事件をでっち上げた。その目的は、私を追い込むため。
言わんとすることは察している。でもここで屈することは出来ない。何より、私は健太君を信じている。彼ならば自力で窮地を脱するはず――でも、どうやって……。
「あははは。あなたってホントお間抜けね。被害者は私の知っている子だって初めに言ったじゃない。強制わいせつは現行犯じゃなければ親告罪よ。でもまぁ今は別の罪状にして告訴が無くても捜査は出来るらしいけど。それでも被害者側から訴え出て人違いでしたといえば、この話はそれで終わる話よ」
「わ、私は負けない。健太君も冤罪なんかに嵌まらないわ」
「あらあら、この期に及んでもまだ強気でいられるとは大したものね。でも呆れる。ここまでバカだとは思わなかったわ。じゃもういいわ、高木健太は見殺しということね」
池上葵は、粛々と断罪を告げたあとにニヤと口角を上げた。
私はどうすれば、何をすれば良いのか――考えるも、持てる力をひけらかす相手に対して、私はあまりに無力だった。
「それはそうと、この会社も業績不振で苦しいって聞いたけど?」
「それも、あなたの仕業でしょう」
「知らないわよ、こんな会社どうでもいいもの」
「よくもそんなことを!」
「あ、そうそう、そう言えばぁ、こんなことも聞いたわよ。あなたのお友達の再就職もまだ決まらないそうね?」
「そんな、彼は直ぐに再就職したと……」
私の狼狽を見て、ふふと笑う。池上葵は、たたみ掛けるように言葉を継いだ「それからぁ、なんだっけ? ああそうだ、これも小耳に挟んだことなんだけどぉ、そのお友達の彼女も、どうやら事務所から解雇される寸前らしいわよ。おかしいわね。あなたの周囲の人達ってなんでこんなに不幸になっていくのかしら? 運の無い人の集まり? 類は友を呼ぶってよくいわれるけど、そうそう地でいくものでもないでしょうに」
池上葵はこれまで行ってきた悪事を知らぬ顔で言い連ねた。
「池上さん、あなた、何故そこまでやるの」
「え? そこまでって何のことかしら? 嫌だ、何言ってるのあなた」
「私に、何の恨みがあってそこまでやるのかと聞いているのよ」
「恨み? 何のこと? 私が何で? それはあなたの被害妄想では無くて?」
「何が気に入らないの!」
「気に入らない? 何が気に入らないと聞かれればそうねぇ、私、あなたの全てが気に入らないの。大嫌いなの、あなたが」
「私が何をしたと言うの」
「うーん……何をしたかと言われてもねぇ……忘れちゃった。あははは」
絶句する私とは対照的に、彼女は、鼻歌まじりに独りごち、ご満悦の表情を浮かべる。
「さてと、佐藤さん、もうよろしいかしら? お話には飽きたわ。それにね、こうして顔を突き合わせているだけで、吐き気もするのよ。そろそろ答えを頂けないかしら? どうするの?」
「どうするって……」
「決まっているでしょう。助けて欲しいんでしょう。私なら全てを救えるのよ。縋りなさい。泣きついてくればいいわ。そうすれば助けてあげない訳でもない。勿論、高木健太のこともね。ふふふふ、あはははは」
高笑いをする女の瞳が冷酷な光を放つ。
諦めろ、降伏せよ、と嬲るように迫る。
池上葵は、焦燥する私に向かって、さあさあ、と煽り立てた。
「そう、いいのね。それならば仕方ないわね。みんな仲良くあなたと一緒に沈むといいわ」
軽く言い放つと、池上葵は不敵に笑って私を見下した。
このとき私は、彼女の歪んだ笑みの底にある真意を汲み取った――これは、追い込むどころの話では無い、池上葵は私に
時の進みが早く感じられた。一刻も早く健太君を助けなくてはならない。皆を池上葵の呪縛から解放しなくてはならない。だが、彼女を睨みつける事しか出来ない。私は池上葵の悪事を止めるための手段を持ち得ていない。
考えあぐねていると、勝ち誇った女が、嘲笑を浮かべながら踵を返した。
私は対抗する術もなく焦燥だけを募らせていく。
「――ま、待って!」
「ん? 待て、ですって? それが人にものを頼むときの態度なの? 嫌ねぇ、礼儀も知らないの? あなたが下品な女だということは知っていたけど、ここまで不躾だとは思わなかったわ。流石は場末の町工場の娘よね。ドブで育てば泥まみれ。その品性のなんと醜いこと」
身に降り注ぐ憎悪に耐え唇を噛む。私はゆっくりと離れていく女の背中を目で追った。
既に詰んでいる。この状況下では、訴訟だの悪事を暴くなどと悠長な事は言っていられない。今この時にも健太君は厳しい責めにあっている。
「お、お待ちください。池上さん」
言い直すと、池上葵が僅かに振り向いた。その肩口から覗く悦楽の目が私の背筋を凍り付かせる。
「何かしら?」
「どうか、助けては頂けませんでしょうか」
「ほう、そうですか、私の助けが必要だと言うのですね、佐藤菜月」
「――はい」
「そうねぇ、あなたのお願い、聞いてあげても良いわよ。でもね、さっきも言ったでしょう。そ・れ・が、人に頼み事をする態度なのかと」
池上葵は更なる喜色を顔に浮かべていた。
「わ、私は、何をすれば良いのでしょうか。どうすれば助けて頂けるのでしょうか」
今は逆らうことが出来ない。私は無念さを押し殺して尋ねた。
すると、窮する私を見て悪女が笑う。
そうねぇ、と声を弾ませたあと、彼女は、跪け、媚びろと命じた。
「土下座して私の靴を舐めなさい。泣きつけばいい。そうしてハッキリとした声で言いなさい。池上葵様どうかお助け下さいと」
品性の欠片も無い物言いに愕然とする。言われて奥歯にキッと力が籠もる。
私は、こんな女に負けたのか。
「どうしたのかしら? 出来ないの?」
静まりかえる事務所。場の空気が重々しく張り詰める。
私は目を閉じた。
葛藤する心。
頭一つ下げるくらい何でも無いが、相手は悪辣な女。ここで膝を折り屈したところで全て解決するとは思えない。ならば私は勝たねばならない。しかし……。
思考が停滞する。
どうする、どうすればこんな女と闘えるの?
「出来ないの? 私はどちらでもいいのよ、助けてやる義理などないもの。あなたも同じように考えたんでしょ? だから逃げた。会社を辞め、引っ越すのでしょう?」
「そ、それは――」
「全て放って逃げようとしてたじゃない。でも、それでいいの? 見えなくなればそれでいいの? 周囲の者を路頭に迷わせた事実は何も変わらないわよ。あなたのせいで皆が不幸になる。あなた、確か、実家には父母が健在で、弟夫婦が工場を継いでいるのよね、子供は二人だったかしら?」
それは圧倒的な悪意だった。聞いた途端に脱力する。膝がガクリと折れた。
「無様ね」と悪女が嘲る。下劣な眼に見下され萎縮していく心。
――もう勝ち目は無い。
私は床に正座し両手をついた。
「やめろ菜月! そんなことをする必要はない!」
浅田さんが声高に制止する。
「煩いわね! 外野は黙って見ていなさい!」
ヒステリックな池上葵の言葉が浅田さんに向かった。
「止めなさい、菜月ちゃん、私達の為にそんなことしなくていいのよ!」
また大きな声が掛かった。谷本さんが池上葵に負けじと向き合い言い放っていた。
私は、二人に感謝しながら池上葵に向かって首を垂れた。
「佐藤君、馬鹿な真似はやめなさい!」
事務所の扉が開くと同時に飛び込んできた社長の声。
「なっちゃん! 僕なら大丈夫だから! 顔を上げて!」
「菜月さん! 私も大丈夫よ! だから負けないで!」
続けて陸君と奈々実さんの声が聞こえてきたことに少し驚いた。二人は息を切らせているようだった。
――奈々実さん? 彼は、健太君はどうなりましたか? 大丈夫でしたか? あ、そうか、私がここで頭を下げれば助かるんだった。
「菜月さん、もういい! もういいから立って! 立ち上がって!」
――詩織さん、あなたも、こんな私のために声を上げてくれるのね。
胸が熱くなった。
ありがとう、みんなありがとう。
私は、心に勇気を抱いた。臆する気持ちなどもう無い。
一時でも彼女の溜飲を下ろせるならば上々である。この様なことはお安い御用。簡単なことだ。私は、愛する人達がこれ以上不幸になることを看過できない。それに思えば、たとえ恥辱に塗れながらこの場を去ったとしても、私は何も失わない。友人も家族も健やかならばそれでいい。私は何も欲しない。だから、何だって出来る。
清々しながら
「どうして……」
池上葵が声を震わせながら呟いた。
束の間の沈黙の後、頭上で狂ったような叫び声があがる。
「何! なんだっていうのよ! こんな! なんで!」
池上葵の怒りの意味が分からなかった。
今のこの状況は彼女の思い通りの事で、これは彼女の完全勝利なのではないのか、なのに何故そんなに取り乱しているのか。
まるで理解が出来ない。
「どうして? どうしてなの? なんで佐藤菜月なのよ、なぜ佐藤だけがこんなに愛されるのよ!」
地団駄を踏む池上葵の発狂は続く。彼女の狂乱の声が悲痛を伴って事務所に木霊する。
私は、混乱する彼女を無視して床に額を近付けた。
すると――、
「お、お前、なんでそんなもんを持ってんだ!」
浅田さんの焦る声が耳に飛び込んできた。
「止めろ! そんなことして何になるっていうんだ!」
陸君が浅田さんに続く。彼も狼狽えていた。
いったい何が起きたというのか。
何か大変な事態が起こっているということは察知できたが、俯く私には状況が見えない。
「動かないで! う、動くと佐藤菜月を殺すわよ!」
聞こえてきた池上葵の声に、一瞬だけ耳を疑った。――殺す?
「あ、あなた、そんな危ないものは離しなさい。もう菜月ちゃんは十分に頭を下げているじゃない。これ以上何が望みなの。止めなさい」
「煩い! 煩い、煩い、煩い、煩い! 何なのよ! 佐藤菜月が何だって言うのよ! 池上優斗は最初から私の伴侶になるべき人だったのよ! それをなに? 酷いだの、略奪だのと!」
「あなたは、何を……」
疑問が小声で口から溢れる。悲痛の声を耳にして推し量った。今まで、まるで見えてこなかった彼女の動機の一端を垣間見た気がしていた。
「佐藤菜月のどこがいいのよ! みんな、みんな。佐藤菜月なんて、こんな何の能力もない凡人。人たらしで、人気だけはある忌ま忌ましい女のどこがいいのよ! 会社で成功してきたのは私の力よ! 全部、全部、私が頑張ったからじゃない! それなのに、それなのに何でみんな佐藤菜月ばかり慕うのよ! 馬鹿げているわ、こんな下らない女、生きてちゃいけないのよ!」
彼女が私を憎悪していた理由は。
――そうか、そういうことだったのか。
知らず知らずのうちに彼女を傷つけていた事に初めて気が付いた。
私のせいで彼女は不利益を被って不満を募らせていたのだ。
ふと、あの日、教えられたことを思い出した。妖精が言うように、誰かの利益が誰かの不利益になることが、この世界にはあるようだ。だからといってそれは、現実的な事象であり、度しがたいことでもある。
意のままに全てを手に入れた。池上葵は、一見して幸福に満ちていたように見えるが、実はそうでは無かった。思うままにならず、欲しいものは得られず。彼女は不満を募らせていた。
察すれば申し訳ない気持ちにもなるが、同時にそれはとても寂しい事のように思えた。彼女はあまりに独善的であり、それはとても哀れなことである。
しかし、同情することはやぶさかでは無いが、抱く不満を解消するために誰かを虐げても良いという考えには賛同しかねる。それは決して許される事ではない。私は、そんな池上葵が許せない。
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