第34話 あらしの到来

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「――助けて下さい。先生が!」

 それは、予期せぬ嵐の到来。

 吉田詩織が告げた災厄は、瞬く間に私の心を破壊した。


 三月三十日

 恋愛ミッションの期限まで一週間を切った。私の在職もいよいよこの日が最終日となる。 

 終業後の事務所に親しい者達が集まった。

 元気でね、頑張れよ、という励ましの声の中に惜しむ言葉が混じる。優しい作り笑顔が並んでいた。

 ここは傷心を癒やし立ち直らせてくれた温かな場所。皆のおかげで私は人嫌いにならずに済んだ。前を向いて歩むことが出来た。

「一年という短い間でしたが大変お世話になりました。皆さん、ありがとうございました」

 谷本さんが花束を用意してくれていた。手渡され抱き締められた時には堪らず泣きそうになった。

 でも、泣くのは嫌だ。これは勝利なのだから胸を張ってここから去りたい。私は涙を堪えた。

 簡潔に挨拶を済まし、一人一人にお礼を伝えて回った。最後に拍手が起こると、私は応えて深々と頭を下げた。

 ――池上葵よ、私は負けなかったぞ。

 私の身の回りを悉く調べ上げた女。用意周到な彼女のことである、私の退職のことはもう伝わっているだろう。

 職を失い、友人を失った。自宅マンションを引き払い、この後は家族とも距離を置くつもりだ。私は周囲の者を切り離した。私がいなくなれば手を出す理由は無くなる。皆が守られるならば本望だ。これでもう何もかもが終わる。

 私は、心の中で勝利を宣言した。心はもう揺らがない。


 皆を送り出した後、事務所の掃除に取りかかる。

 本来ならば、皆に送り出されて会社を去る形になるのだが、無理を言って、最後に事務所の掃除をしてから退社することを許してもらった。

 ただし、退職する者が事務所に一人で居残るというわけにもいかなかったので、そこは申し訳なかったのだが、浅田さんと谷本さんに協力してもらった。

 二人の協力もあって作業は進み、掃除は早々に終わった。私は、持参していた生花を花瓶に生け、これが最後だと、感慨深い気持ちで事務所の中を見渡した。

「これでよし! 本当にありがとうございました」

 大きな声で礼を言う。世話になった仕事場に向かって深々と頭を下げた。

「菜月ちゃん、急がなくてもいいんだろ? 熱いお茶入れたからさ、最後に飲んでいってよ」

 手にしたお盆に湯気が立った湯飲みを三つ並べて谷本さんが微笑む。

「はい、喜んで」

 少し熱めに入れられた緑茶。湯飲みを受け取ると澄んだ香りが立っていた。

「熱っ! ちょ、おばちゃん、これ、ちょっと熱すぎるんじゃねぇか」

 浅田さんの苦情を聞いて、私と谷本さんが同時に笑う。

 最後の最後にこうして穏やかな時間を持つことが出来て良かった。思い残しはもうない。何もかもをやり終えた。私は荷物を手にして入り口の方を向いた。

 後ろ髪を引かれる思いが無いわけではない。それでも未練たらしい行いはよそう。笑顔で去ろう。一歩を踏み出したその時だった。

 突然、事務所の入り口のドアが開く。

 風の塊が事務所に入り込んできて髪を揺らす。誰かしら、何だろう、とドアの向こうを見ると……。

 唐突に事務所を訪れたのは詩織さんだった。尋常事ではないと、彼女の様子を見て直感した。詩織さんは蒼白の顔に悲壮を浮かべて唇を震わせていた。今にも泣き出してしまいそうだった。その場に居た三人が同時に息を呑んだ。詩織さんの振る舞いはそれ程の悲痛を醸し出していた。

 何かが頭をよぎった。しかし、始末をつけたと思っている私にはそれが何なのか分からない。

 浅田さんが私の肩をポンと叩き、谷本さんへ目配せをした。彼も彼女の異常な様子から何かを感じ取ったのだろう。表情を強ばらせていた。

「どうした? 何かあったのか、詩織」

 浅田さんがゆっくりとした口調で語りかけた。

「あの、あの、あの……どうしよう……あの……」

 詩織さんは酷く混乱していた。何をどう話していいのかといった具合で言葉に詰まった。

「詩織さん?」

「――助けて下さい。先生が……先生が!」

「落ち着け詩織、ゆっくりでいいからな。整理して話さなくていい。一つずつでいいからな」

 浅田さんは抑揚を抑えて話した。車椅子の上で震えながら頷く。詩織さんは落ち着きを取り戻すように大きく息を吸った。

「先生が警察に捕まえられて……」

 事情を話しだす。

「うん。わかった。健太君が捕まったんだな」

「駅で捕まって……」

「そうか、駅でな」

 浅田さんが、詩織さんの言葉をゆっくりとした口調で復唱する。

 私は彼のすぐ隣で彼女の話を聞いていた。

 目を閉じる。何も言わずに、ただ耳を傾ける。

 激しく揺さぶられる感情――許せない。

 事件の概要を話す詩織さんと浅田さんの声が私の鼓動を加速させる。言葉が、起きた事件が、私を蹂躙する。ドロドロとした重苦しい怒りが胸の中を渦巻きながら蠢いた。

 これは現実なのか、こんなことが起こりうるのか、これは許されて良いことなのか、何故このような者がこの世界に存在しているのか。

 私はいつの間にか脱力していた。

 破壊し尽くされた心。頭の中が空っぽになった。

 そうか、彼女を……。 

 奇妙な落ち着き。

 ――いや、落ち着きというよりは、心から温かいものを全て失わせていたという方が正確だろう。

 心が冷えきっていた。

 危機感も焦燥感も不安感も何も無い。

 私の内側にはもう漣すら立たない。不思議なくらい凪いでいた。

 怒りとはまた違う鋭利な感情。

 無機質な意思。

 もしかするとこれが、殺意というものなのだろうか。

 ――彼女が、消えて無くなればいいのだ。

 健太君が強制わいせつの容疑で逮捕された。

 聞いても心は微動だにしなかった。ありえない。

 現在、健太君は警察で取り調べを受けていると聞くが、何の心配もしなかった。

 彼なら大丈夫だ。必ず何とかするはずだ。私は断言できた。

「浅田さん……私、どうしたら」

「状況は分かった。まずは落ち着こう。とりあえず、健太君の父親と、村山奈々実さんにも連絡する。彼らは弁護士だ。なに、健太君自身も法律家だ。きっと大丈夫だ」

 頷きながら詩織さんは涙を流していた。――大丈夫だよ、詩織さん。

「それよりも詩織、お前、この事件のことをどこで聞いたんだ? それにどうやってここまで来たんだ?」

「――え?」

 二人のやり取りを聞いて瞬時に反応する。――今更、尋ねるまでもない。

「池上葵ね」

 私は鋭く言葉を挟んだ。

「だろうな」

 浅田さんもすかさず私に同調した。

 詩織さんが私と浅田さんの様子を見て目を見開いた。彼女は、何で、と言ったまま身を強ばらせた。

「詩織、いいか、よく聞け、お前は池上葵に利用されているんだ」

「……利用?」

「この前もそうだった」

「この前?」

「二月十四日のことだ」

 浅田さんから日付を聞くと、詩織さんが考え込むように目を細めた。

「すまない。やはりあの時にちゃんと話すべきだった」

「話すって、話すって何を……」

「佐藤菜月が抱えている事情のことだ」

「佐藤、菜月、さんの、事情?」

「そうだ、菜月の事情だ。あの時、俺はその事をお前に話そうとした。だがそれを菜月は止めた。菜月が何も言うなというから俺は言葉を飲みこんだんだ。菜月の気持ちを尊重してな」

 浅田さんは、これまでの経緯と私の事情をつぶさに語り聞かせた。

「――そ、そんなことって!」

「付け込まれたんだよ。お前、健太君のことが好きなんだろう。どうしようもなく好きなんだろう?」

「……」

 問われて詩織さんは俯く。両拳が膝の上で強く握られていた。

「ごめんな、聞くまでもないことだった。お前の気持ちには誰もが気付いていた。……あいつも直ぐに気が付いたのだろう」

「あいつ?」

「池上葵だ。彼女は、そんなお前の心の隙に付け込んで利用した」

「あの人が、私を」

「迂闊だった。あの日に気が付かなければならなかった。これは俺達のミステイクだ」

 詩織さんがハッとして顔を上げ私を見る。

「菜月も全てを知っているよ」

「……そんな」

「勿論、健太君も知ってる。彼は当初から池上葵を打ち負かせようと動いていた」

「だから先生は……、先生は菜月さんを守る為に司法試験を受けた」

「そうだ。それから詩織、彼は、お前の好意に気付いていたはずだ。多分、もうずっと前から」

「……」

「詩織、そのことの意味を、お前はもう悟っているだろう」

「…………」

 詩織さんは唇を強く噛んだ。

「お前はもう気付いている。だからあんなに必死になって一人でリハビリに通っていたんだよな。このままではいけないと思ったんだろ?」

 詩織さんの俯く顔から大粒の涙が落ちた。

 浅田さんが詩織さんの頭をそっと撫でる。その後、屈みこんで涙で濡れた頬を拭いた。途端に彼女から嗚咽が漏れだす。胸が締め付けられた。

「いいんだ。みんな……、みんな優しすぎるんだよ」

 浅田さんは詩織さんの震える肩をそっと抱き寄せ包み込んだ。

 大きな泣き声が事務所に響いた。

「悪くない。いいんだよ。誰も悪くないんだ」

 にわかに、浅田さんの言葉が私の心を砕いた。氷塊がガラガラと崩れていく。

 心が鮮やかな色を取り戻し始めると、愛する人達の笑顔が次々と頭の中に浮かんできた。

 ――怖い。先ほど私は、何を考えていたのだろうか……。

 肩から何かが落ちたようであった。途端に身体の芯から震えが来る。

 私は唇を噛み締めながら顔を上げた。心が再び熱を取り戻していく。

 考える――私のやるべき事は、私が本当に行わなければならぬ事は何なのか。

 私は、池上葵との戦いを決意した。もうこのままには出来ない。 

「浅田さん、まずは健太君のいまの状況を確かめなきゃいけないわ」

「そうだな」

 短く応じて立ち上がる。彼は、泣くな、勝負はこれからだと言って詩織さんの頭をくしゃりと撫でた。

「で、菜月、まずはどうする?」

 浅田さんが谷本さんに目配せをしてから私を見る。

「むざむざと冤罪に掛けられるとは思えない。だから彼は大丈夫だとは思うけど、一応状況は確認しなきゃ。といっても素人には何も出来ない。だからさっき浅田さんが言った通りに健太君のお父様と奈々実さんに動いて頂きましょう。弁護士なら会う事が出来る。あとは時間が欲しいわ。もう少しここに居られないか社長に――」

「それならば大丈夫よ菜月ちゃん。もう社長には連絡しておいたから」

「流石は谷本さん、仕事が速いですね」

 こうして事務所に対策本部が立ち上がった。


「社長も直ぐにこっちに来てくれるってさ、あと高木弁護士もこちらに来るって言ってた。健太君の所へは既に村山さんが向かってくれているらしい。堀内先生も一緒みたいだ。これで後は状況を待つという事だが、これからの事はどうするんだ、菜月」

「池上葵に会いに行くわ。それと池上の会社にも行ってみる。まずは話をしてみましょう。その後は私の名誉を回復させる為に動こうと思う。私はあの会社と、いや池上葵と戦うわ。そして彼女の悪事を全て暴く」

 私は、起きた出来事を全て思い浮かべた。

 彼女は純真な気持ちを弄んだ。友人の職を奪い、立場を奪い、脅迫した。まだある、業務を妨害し、多くの人を憂き目に遭わせた。それに、あの事故までも疑わしいという。 

 私は、全てが自分の責任であると思い込んでいた。

 まったく、馬鹿げていた。逃げたところで池上葵は追ってくる。これは明らかな条理。そのことをちゃんと理解していたからこそ、健太君は戦わねばならないと主張したのだ。

「私は何も悪くない」

 強くその言葉を口にする。

 だが……、

 決意を言葉として口に出したその時だった。

 私の心に重圧を掛ける女の声が、耳に届いた。

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