第33話 こいの喪失
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帰り道、私はまた遠回りをした。
北風に吹かれながら歩く。桜並木の歩道が、今朝とはまるで違う景色に見えていた。
心が渦巻く。「あなたさえ居なければ、みな平穏に暮らせていた」と詩織さんは言った。確かにそのとおりだ。
いま、周囲の者が被っている不利益は私がもたらせたものだ。禍は池上葵の仕業であるが、根本は私にある。この事態は全て、私が彼女から恨みを買ったことから始まっているのだ。
――いますぐにでも消えて無くなりたい。
私は重い心を引きずったまま家路を辿った。
薄闇に惚ける街灯の明かり。曖昧な世界の中を行き交う人々の輪郭が、どこかぼやけていた。
「今、お帰りですか」
優しい声を耳にする。ハッとして視線を上げると目の前で健太君が微笑んでいた。
一番会いたくない人の顔を見せられた。なんて日だ。よりにもよって何でこんな日に。
健太君と鉢合わせをしてしまう己の境遇が恨めしかった。全身から力が抜けていく。僅かばかりに残っていた気力は萎えた。
「どうか、されましたか、菜月さん」
聞こえてきたのはいつもと変わらぬ穏やかな旋律。辛かった。その柔らかな声の一言一句が胸に針を刺すような痛みを感じさせる。
問題を解決するために身を引くと決めた日から、健太君は何も言わなくなった。それで良いと私は納得していた。元から近すぎず遠すぎず、距離があった間柄である。私達は良い友達同士。何があっても変わらぬ関係。互いに気まずさなど見せず、顔を合わせれば談笑もあった。
何も思わなかった。何も感じなかった。
それなのに何故だ。今は心に波風が立っている。
「――あなたは、こんなところで一体何をされているのでしょうか?」
率直に口から出た言葉だった。言った後に気付く。私は彼のことを責めていた。
何をやっているのだと、自身の言動を省みながら、憤る感情の故を私は探した。
「ええっと、何って……」
健太君の邪気の無い反応に苛ついた。これ以上、話したくないと思いながら、非難の言葉が胸の内から溢れてくる。
「今日は、バレンタインデーでしょ? あなたは、こんな所で、一人で、何をしているのかと聞いたの」
八つ当たりである。行き場の無い気持ちを無闇に彼に向けてしまっていることが分かっていた。――止めなさい、と収まらない気持ちに自制を言い聞かせる。握った拳に力が籠もった。
唇を噛みながら自身を責めていた。彼がどこで何をしていようと、それは彼の勝手である。私には関係ない。無意味なことをしている。
――もういい、帰ろう。ここから離れよう。
一言だけ諭して終いにしよう、私は健太君を見た。
目の前で、彼は、まるで言われている意味が分からないといった感じで首を傾げていた。
そんな彼の反応に対して勝手に失望をする。腹を立てる。鬱憤がジワジワと心の堰を押しのけようとする。
「詩織さんのことを放っておいて、こんなところで何をしているのかと私は聞いているのです」
問うと、健太君がハッとして私の目を見て僅かに口を開きかけた。
「詩織さんの気持ちはもう分かっているんでしょ? あなたは、あなたは……」
言いかけて止める。これ以上の話は、私の内側の何かを壊してしまいそうで恐ろしい。
健太君が私を見つめる。開きかけた口が堪えるように閉じられた。余計な事を話さないのはいつものことだが、今は彼の無口が辛かった。
何故、彼は、寄り添いながら詩織さんの思いに応えないのか。
それが償いだから?
その行いを美徳だとでも思っているの?
でもそれは間違いよ。相手の気持ちを知りながら――と考えたときに愕然とした。
私も浅田さんに同じ事をしていた。なのに今、自分のことを棚に上げて相手を責めている。
「菜月さん、僕は」
健太君が何かを言いかけて止める。彼は何もかも諦めた様子で下を向いた。
私は、相手の姿に自身を映して見ていた。
何故、私は浅田さんに応えなかったのか。好意は、あったと思う。でも踏み込めなかった。踏み込まなかった。
――なんで。
イエローカードが出たからか、彼に対して通知音が鳴らなかったからか。
違う、それは取り繕いだ。……ならば私は。
「菜月さん、僕には、人の命を奪った僕には、誰かを愛する資格など……」
「それは違うでしょう」
「え?」
「あなた達の間には何の障害もないわ」
私とは違う。私には出来ないが、あなたには出来る。彼女の気持ちを受け入れれば良いのだ。
「僕は、……僕の事はいいんです」
健太君が寂しげに苦笑を浮かべた。
「好きなの? 好きではないの?」
逃げる健太君を引き留めてしまう。何を聞いているのか、自分の意図に困惑しながらの言葉だった。
私は彼から何を引き出そうとしているのか。止めろ、と、もう一人の自分がこれ以上進むことを忌避した。
「彼女は、少しずつ歩けるようになっています。直に自立し、自分の道を歩み始めるでしょう。でも失った時間を取り戻すことは容易ではない。だから僕は」
自分には責任があると健太君は話した。
こんな事しか僕には出来ない、せめて、という言葉が引き金になった。
静かにゆっくりと、私の感情が弾ける。
「好きなの? 好きじゃないの? いったいどっちなのよ! 詩織さんはあなたのことが好きよ。大好きなのよ。なのに、それなのに、責任とか、せめて、とかって何? あなたは詩織さんのことが好きなんでしょ? それともあなたが今、詩織さんに寄り添っているのはただの同情なの。ならばそんな酷い事ってないわ! あなたのそれは裏切りよ! 彼女の気持ちを弄んで、ただ自分を慰めているだけ! 最低よ」
ありったけの感情をぶつけていた。
――そうか、私は健太君のことが、
このとき、ついに、否と避け続けてきた本音を認めてしまった。
でも、だからこそ胸が苦しくなる。
もういい、止めろ、よせ。
心が悲鳴を上げていた。
これ以上はダメだ。私はこれ以上踏み込んではいけない。そんなことをすれば私は自身を許せなくなる。
拳を強く握って立ち尽くす。
涙に滲む視界。外灯の明かりが枯れ木立をぼんやりと照らす。
目の前にそっとハンカチが差し出される。健太君は黙って私を見ていた。
相手の顔をまともに見ることが出来なくなっていた。
気付かされた気持ちから逃げるように目を逸らす。顔も背けた。
「菜月さん……」
途方に暮れていたその時、徐に近付いてきた健太君の腕がそっと私を包み込んだ。
束の間、頭の中が真っ白になった。
私は直ぐに歯を食いしばり、健太君の胸を押し戻した。
「や、めて、慰めてなんかいらない。私は、あなたのことなんか、好き、じゃない」
どこか決定的な一言。自覚した。私は今、自分の中の何かを喪失させてしまった。
――それでいいの?
私が私に問いかける。
後ろに引きずられようとする力に抗った。
強く首を振り、自分の心と健太君を突き放した。
自らの手で心を殺した。私は、恋愛ミッションの破綻を受け入れていた。
――もう、いいんだ……。
私は、何も言わずに彼に背を向けて歩き出した。
肩が震えていた。止めどない嗚咽を堪えていた。
これで何もかもが終わった。何もかもを終えた。でも、それで構わない。
これが最善であり、これ以外に選択の余地はない。
そう、これでいい。
ゆるやかに吹く風は冷ややかであった。季節は春を迎えようとしていたが、冬の名残はまだ春の到来を許してはいない。
俄に突風が吹く。弱る心を更に打ちのめすかのように寒風が身を叩いた。このとき不意に池上葵の微笑を思い浮かべてしまう。
まだ、よからぬ何かが起こるのだろうか……。
予感めいたものが脳裏をよぎる。
「――もうたくさんだ」
残り時間 50日と1時間1分18秒
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