第32話 あくいの追い打ち

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 冬枯れの桜並木の下を歩く。

 冬の夜の晴れは放射冷却を起こす。連日、朝は冬日となっていた。どうりで寒さが身に染みるわけだ。

 早めに家を出た私は一駅手前で下車し徒歩で会社に向かった。

 気持ちの良い朝だった。道を行き交う人々の表情は明るく、皆が爽やかな朝を満喫しているように見えた。

 冷気が頬を撫でた。ふと見上げると、たおやかに揺れる木々の枝が目に入ってきた。その細い枝の先に見つけた膨らみは――花芽だ。

 黒い幹も張り出した黒い枝も、一見すると枯れ木の様相だが、よく見ればその姿が冬の装いであることが分かる。勇気づけられた。木々も人知れず力を蓄え春に向かっているのだ。私も早く冬を脱して平穏な毎日を取り戻さなくては。

 

 少し本音を吐露すれば、ぶん殴ってやりたいと思うし、性根を叩き直してやりたいとも思う。私の心は憤懣やるかたない気持ちでいっぱいだ。

 それでも思いは飲みこんでいる。水はよく万物を利して争わず、と、うる覚えの故事まで持ち出して沸々と沸き立つ修羅を収めていた。

 私は、決して彼女と同じステージには立ちたくなかった。それが人としての矜持だと考えていた。

 立ち止まり冬の空気を吸い込む。自身に言い聞かせた。冷静になれ、悪意に翻弄されてはならない。憎悪で対峙しても万事治めることなど出来ないだろう。

 ――私は負けない、落ち込んでなどやるものか、怒ってなどやるものか。

 歯を食いしばった。試合には負けるが勝負には勝つ。負けの体は見せているが、投げ出したわけでは無い。私にも気概はある。


 会社に着くと既に谷本さんが出社していた。彼女は抱えるように持っていた紙袋から小さな包みを取り出すと、それを一つ一つ社員デスクの上に置いていった。

 そういえば、今日はバレンタインデーだった。

 谷本さんは持ち込んだ義理チョコを男女分け隔てなく配っていった。

 もちろん私の机の上にもチョコが置かれていた。

「おはようございます」

「ああ、おはよう。どうしたんだい? 今朝は早いんだね」

「なんとなく早く目が覚めてしまって」

 頭を掻いて笑う。

「大丈夫かい? ちゃんと眠れているかい?」

 しょうがな子だね、谷本さんが呆れた様子で優しく笑う。

 谷本さんの顔を見れば分かる。全てを承知しているようだ。だから何も聞かないし、言わない。そんな彼女の心遣いがとても温かく感じられた。

 私は心の中で感謝しながら頭を下げた。気を遣わせてしまって本当に申し訳ないです。

「大丈夫ですよ。ご心配をおかけしてすみません」

「そうかい。でも、無理しちゃダメだよ」

 谷本さんは明るい顔で話した。笑顔も声もいつも通り溌溂としていた。


 その日の業務を淡々とこなして夕暮れ時を迎える。退職まであと僅か、おいおいと、持ち受けている仕事を整理しなくてはならない。私は数日前から残務整理の為の残業をするようになっていた。もちろん十七時にタイムカードを切っての残業だ。

 労基がどうのと言われるかもしれないがお許し願いたい。これは個人的な仕事である。故あった私を救ってくれたこの会社に恩義を返す為の行為である。なので好きにやらせて欲しい。

 デスクの上に書類を広げパソコンに向かう。人がいない事務所は静かだ。おかげで仕事に集中できた。没頭することで一時的に気を紛らわせることも出来た。

 パチパチとキーを打つ音をBGMに画面の中の文章を目で追っていた時だった。

「あの、すみません!」

 私は事務所の入り口付近に細い声を聞いた。

 ――女性の声、どこかで、聞いたことがあるような声。

 作業の途中で目が離せなかったので「ちょっと待って下さいね」と声だけ掛ける。

 もう少しと思いながら画面から目が離せないままでいた時、その声の主の顔を思い出してハッとした。

 慌てて振り向き見ると、事務所の入り口に、やはり見知った車椅子の女性の姿があった。

「詩織さん?」

 私は、会社に吉田詩織がいるというギャップを不思議に思いながら名前を呼んだ。

「突然にお邪魔をして申し訳ありません」

 詩織さんの鋭利な語気と強い視線が返る。登場が唐突すぎて驚いていた。

「あ、いえいえ、大丈夫ですよ」

 少し戸惑いながら彼女の訪問の理由を考えたのだが見当もつかない。すると、詩織さんが察するように訪問の理由を口にした。

「夕方、こちらに先生が来ると伺ったのですが」

 先生と聞いてまたハッとする。ええっと、と狼狽えながら辺りを見回す。彼女が膝の上に抱える可愛らしい紙袋から覗くラッピングを見てそこでようやく気付いた。そうだった。今日はバレンタインデーだった。置かれた状況を踏まえてみても情けない、女の子の大切な日に目も向かないとは。

「健太くん、あ、いや高木君ね、ええっと……」

 おかしいな、健太君が事務所に来ることなど聞いていなかったが。

 辺りを見回してキョロキョロとしていると、詩織さんは焦れたようにして口を開いた。

「まだ来ていませんか? それとも、お帰りになったのでしょうか?」

 何故か詩織さんは矢継ぎ早に話をした。

「……あ、いや、私、ずっとここにいましたが、気が付かなかったから多分まだお見えになっていないのだと思いますよ。よければここで少し待たれますか? その間に誰か、高木君の来社の予定を知っている者を探して聞いてきますので」

 適当に机の上の書類を片付ける。急ぎ席を離れようとすると、詩織さんが慌てた様子で私を呼び止めた。

「あ、あの!」

「は、はい」

「浅田さんは、ま、まだ、いらっしゃいますでしょうか」

「え、浅田さん?」

 これは一体どういうことだ?

「あ、いえいえ、せっかくこうして会社に来たついでに、あの、一言お礼をと思いまして」

「お礼?」

「はい、以前病院で。そこのリハビリ室で大変お世話になったものですから!」

 口をとがらせて不愛想に話す詩織さんの強い口調に少し気後れする。彼女の頬は僅かに赤らんでいた。何をそんなに怒っているのだろうか。

「おい、菜月、この書類なんだが、よく分かんねえんだ、ちょっと見てくれないか」

 絶妙なタイミングで浅田さんが現れた。

 彼は、書面に目を落としながら通用口を通過し、机やら何やらを器用に避けながらこちらに向かってきた。浅田さんは詩織さんには気付いていなかった。

「おおっと!」

 浅田さんは驚いて声を上げた。書類から目を離して視線を下げる。彼は車椅子にぶつかりそうになってようやく詩織さんの存在に気が付いたようだった。

「お! なんだ、詩織じゃねえか、どうしたんだ? こんなところにまで来て」

 浅田さんの口調は陽気で明るかった。しかし浅田さんの声を聞くや否や詩織さんの表情が変わる。

「浅田さん! 私は、私は、あなたに呼び捨てにされるほど、まだ親しくはありません!」

 、という詩織さんの言い回しが少し引っかかった。

 様子を窺うと、詩織さんは恥ずかしがるような、少し拗ねるような顔をしていた。

「いいじゃないか、知らない仲でもないし、リハビリも一緒にやった仲間だし、もう友達だろ?」

「と、と、友達なんかじゃありません」

「ん? じゃなんだ?」

「――そ、それはその……」

 詩織さんは言葉に詰まった。頬が赤い。そうか、照れているのか。

 彼女の様子は、どこか初々しくて可愛らしいかった。

「それはそうとして、詩織、今日はなんだ? こんなところに何をしに来たんだ?」

 おいおい、浅田竜也よ、一回りも違う歳の女の子に対して何だそれ。詩織ちゃん、困って固まっているじゃないの。もう少し優しい言い方もあるだろうに。

「浅田さん、吉田さんは、いつかのお礼を言いにいらしたのよ」

 さりげなくフォローした。だがしかし、何故か詩織さんに睨まれてしまった。

 ――え、なんで?

「あん? いつかのお礼? それってなんのお礼?」

 思い当たる節が無いといった感じで浅田さんが呆けた。すると詩織さんは徐に車椅子を浅田さんに向けて反転させた。

「お、おっと! 何だよ詩織、危ないじゃないか」

 浅田さんが反射的に車椅子を受け止める。

 長身の浅田さんが腰を折る。彼の目線が下がったところで二人は見つめ合う形になってしまった。驚いた詩織さんはマジマジと浅田さんの顔を見つめた。

 数秒後、ハッとして我に返った彼女は、恥ずかしさを打ち消すように大きな声を出した。

「以前病院で、リハビリで、あの、その、立ち上がらせて頂いたこと、誠にありがとうございました。いつかお礼を言わなきゃと思っていたのですが、機会もなく今になってしまってごめんなさい。もう一生、お会いすることも無いと思っておりましたが、今日はせっかくバレンタインデーなので、それで、お礼がてら、こうして訪ねて参った次第です!」

 一息に長い台詞を吐いた後、詩織さんは「はいこれ!」といって手に持っていた紙袋を投げるように突き出した。

「お、おう、これはご丁寧に」

 言いながら浅田竜さんは直立不動になる。その後、縋るような目で私の顔を見てきた。――おいおい、浅田龍也、どうしてそこで私に救いを求めるの。お礼なのだからただ受け取ればいいじゃないか。

 浅田さんが戸惑った為に少し妙な間が出来た。すると、もう待ちきれないといった感じで詩織さんがもう一度、浅田さんに向かって力強くバンと紙袋を突き出した。

「お、おう、ありがとう……」

 浅田さんが両手で紙袋を受け取って詩織さんの顔を見る。また二人が目を合わせた。

 直ぐに詩織さんは逃げるように顔を背けた。潤んだ瞳、困ったように恥じらう顔。若干、頬に紅が差しているようにも見えた。

 遅まきながら気付いた。詩織さんは怒っていたのではなかった。尋ねてきた直後のツンとした態度は、つまりは彼女の照れ隠しだったのだろう。

 それはまるで、下級生の女の子が憧れの先輩の前で恥じらうような甘酸っぱい仕草。私は彼女の様子にノスタルジーを感じていた。

 それにしても、詩織さんが大事に抱えていた包みが、まさか浅田さんに渡すものであったとは思わなかった。彼女がこの会社に来た本当の理由は浅田さんにお礼をする為であって、健君太を訪ねてきたわけではないということも、今の彼女の様子を見て理解出来た。

 私は、どことなく二人の間に立つことが野暮のように思えて自分のデスクへ戻ろうとした。

 義理チョコとはいえ、何とピュアな光景なのだろうか。

 二人の様子に心が温められ頬を緩ませていた。しかし、そんな私の背中に予期せぬ険のある声が掛かった。

「佐藤さん、あなた三月でこの会社を辞めるんですってね」

「――え?」

 不意な言葉に振り向く事も出来ず、答えることも出来ない。

 固まる私に、詩織さんが追い打ちをかける。

「報いだわ、自業自得よ」

 詩織さんの言葉には棘があった。私はその場で立ったまま沈黙した。

「私、全部聞いたの。あなたが前の会社でやった不正や社員に対する嫌がらせの数々をね。きっとここでもそうだったのでしょう。気に入った皆の前で良い顔をするけど、その裏で気に入らない者には意地悪をする。あなたはズルるい女。あげく、根が性悪なものだから、結局はその醜いところがバレて得意先も失わせてしまった」

「…………」

「何? 言い返さないの? 言い返せないの? 本性をバラされて困ったのかしら? 笑っちゃうわ」

「……」

「私、あなたがみんなの前から消えてくれて本当に良かったと思うわ。先生だって、浅田さんだってみんな騙されてた。でも、悪い奴が目の前から消えてくれれば、みんなまた以前のように平穏に過ごせるもの」

「お、おい、詩織!」

「浅田さんは黙ってて。私、許せないの。良い人の顔をして平気で人を傷つける人間が許せない。先生は、本当に……。浅田さんだって、あの花火の夜にあなたのことを好きだっていったのに、それなのに、あなたはそんな浅田さんの気持ちに答えることもせず。ただ放置して。自分が人気者であることがを嬉しがりほくそ笑んでいた。その上に元カレに子供が出来たことまで恨めしがってあげくストーカーまがいな事をして奥様まで苦しめて喜んでいた。私、絶対に許せない!」

「……」

「おい、詩織。お前、いったい誰にそんなことを……。お前、そうか! いいかよく聞け詩織、それはお前の誤解だ。菜月はそんなことをしない。お前は――」

「浅田さん! いい」

「いいって、菜月……」

「いいのよ、浅田さん。もういいの」

 浅田さんが事情を話そうとするのを厳しい目で制止した。彼がグッと堪えたまま眉根を寄せる。私は、何も言わないで、と首を振った。

 これでいい。浴びせられた辛辣な言葉は、私の心に枷を抱かせて闇に沈めるようなものだったが、反論する気にはならなかった。それは、これ以上の波風を立てたくなかったから、それと彼女の話には自分でも否定できない事実があったからだ。

 浅田さんは、どこか納得出来ないといった様子だったが、不穏な空気をそのままに詩織さんを無理やりなだめて退室した。

 その後、事務所に一人残された私の気分は惨憺たるもので、これではもう残業どころではない。私は暫く天上を見上げたまま何を考えるでもなく無為に時を過ごした。

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