第31話 せいじゃくの朝

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 二月十四日

 静かだ。冬の冷気が周囲の音を奪ったように思えた。外は未だ薄暗く外光は部屋の中に届いていない。そんな夜明け前の暗がりの中で、私はゆっくりと瞼を開いた。

 どうやら今朝はアラームよりも先に目が覚めたらしい。

 微睡みながら天上を見つめる。朝は苦手ではないが、起床するには未だ早い……私は、ぼんやりと天井を眺めた。

 会社はまだ追い詰められてはいない。陸君は就活を始め、奈々実さんも今のところ無事に日常を過ごしている。――まるでこちらの意図を察したかのように悪意は鳴りを潜めた。とはいえ、何もかもが停滞しているように見えるものの、池上葵からのプレッシャーは真綿で首を絞めるようにジワリと周囲の人々を苦しめている。

 けたたましい電子音が静寂を打ち破った。時刻を知らせながら目覚まし時計が元気な声を上げた。

「……寒いな」

 起きなければとは思うのだが、私に恋する布団達が放してくれない。まったく、仕方のない奴らだ。――もう少し、あと少しだけ。

 ピピピピピピピ! 

 寒い、気怠い。

 何故、忘れてしまったのだ。私は昨夜、暖房の予約のスイッチを押し忘れていたことを後悔した。

 渋々ベッドから降りて立ち上がり窓辺に立つ。遮光カーテンを開放すると黎明の美しい空が広がっていた。真冬の朝の空気はどこか凛として清々しい。寒いのは苦手だが、冬の晴れた朝は嫌いでは無い。

 年が明けてもう二月。駆け足で過ぎ去った私の時間。聖夜も暮れも仕事納めも、正月も仕事始めも、何もかもが瞬く間に流れていった。

 そうして今朝も、お約束のように現れる残り日数の表示。

 突如示されたレッドカードを怒りにまかせてねじ伏せてしまったのだが、どういうわけか、私は神様のギフトを失わなかった。なのでミッションは続いている。

 私の「最高の恋」の期限も残すところ五十日。

 この日数表示は、期限までの数字が三桁から二桁に変わった日から、目覚めて直ぐに現れてカウントを数えるようになっていた。

 宣告の期限、私の人生における恋愛の完全喪失まで二ヶ月を切った。

 いよいよ来るべき時を迎えるのか、と終幕を予感するが焦る気持ちにはならなかった。

 ――恋なんて、どうでもいい。私にはもっと大切なことがある。

 あの日、浅田さんは私が健太君のことが好きなのだと言った。だが、断じてそのようなことがあるはずがない。私は横恋慕などしない。想い人を心に抱く人に対して、身勝手に思いを寄せることなどありえない。

 それでも浅田さんは思い込んでしまったようだ。

 俺の事は気にするな、頑張れ、などと満面の笑みで言われてしまえば身も蓋もなく言い訳のしようもなかった。……いや、そうではないな。

 私は、はっきりとさせなくてはならなかった。それなのに、彼の告白をうやむやにしたままここまで来てしまった。本当はこのようなことを彼の口から言わせるべきではなかった。

 ……なのに、私の心は、彼から励まされたときに安堵の気持ちを抱いた。――どこまで自己中なんだ。私は卑怯者だ。私は本当に馬鹿で罪深い。

 そんな私に、皆が揃って明るい顔を見せる。周囲の者は何一つ不満を漏らさなかった。だけどそのことが殊更に辛い――。

 なればこそ、早急に対処せねばならない。手をこまねいてはいられない。そうこうしている間に、どんな悲劇が起こるか分からないのだから。

 悪いのは池上葵であり私には何も責任はないと、皆が言ってくれる。だけど納得など出来るはずがない。目にする現状は耐えがたいもの。結果的には私のせいだ。私に関わりさえしなければ、皆が不幸に見舞われることなどなかった。

 池上葵のターゲットはただ一人、佐藤菜月のみである。

 彼女は私を苦しませる為だけに私の周囲の者を傷つけた。こんなことは許されるはずがないし、許すことなど出来ない。だが、憤ることは出来ても現実的に対抗する術を持ち得ていなかった。

 だから私は、自分に出来る唯一の対抗手段を講じた。私は皆の前から姿を消すことを決めた。退職願は既に提出してある。ただし退職の期日に関しては年度末まで待って欲しいと言われた。なのでとりあえずは、こうして今朝もいつも通りに朝の支度をしている。 

 それにしても、一人の人間にこれほど恨まれることになった原因とは何なのか。

 私が彼女に何をしたというのだろうか。私には彼女からこんなにも敵視される覚えが無い。恨まれる理由がまるで分からなかった。

 それでも、一連の出来事において一つだけ悟っている事がある。

 池上葵に対しては決して勝利してはならないということだ。

 健太君に力を借りれば彼女を負かす事が出来たのかもしれない。

 ――だが勝ってどうなる。

 勝つことが更なる怨念を彼女に抱かせることになるばかりか、その怨念は倍化して再び私や私の愛する人々に不幸として降りかかるに違いない。

 彼女の立ち居振る舞いをみれば、結果は火を見るよりも明らかであろう。

 ならば負けるが勝ちだ。この勝負は決して勝ってはいけない。

 上手く負けることこそが最善の手であろう。

 一刻も早くこの決断と行動が池上葵の耳に届いて欲しい。

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