第36話 こうふくの機会

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 なまじ勝ち負けを意識するから結果を恐れてしまうのだ。相手を打ち負かすことだけが闘いでは無い。完勝しなくてもいい。たとえ相手が聞く耳を持たぬとしても、人としての筋だけは通させてもらう。私は彼女を諭すことを強く決意していた。

「あなたの行いは全て間違っているわ」

 俯いたまま意思表明をするも、反論や動きは無かった。

 場は沈黙していた。呻くような声だけが敵意として伝わってくる。 

 顔を上げたその瞬間だった、視界に黒いものが向かってきた。

 その黒い影が私の首元に飛んできたと思うや否や、身体が起こされるように後ろに飛ばされる。私は池上葵に蹴り飛ばされていた。

 一時、激しい痛みと衝撃に呼吸を失う。

 見ると頭上に鬼気を纏った池上葵の顔があった。息を荒くしながら目を吊り上げる。彼女の手にはナイフが握られていた。

 負けるものか、そんな脅しには屈しない。私は痛みを堪えながら彼女の眼を見返した。

 そんな私を見て池上葵が更に激高する。目は血走り、唇と手は震えていた。

 凶器を持つ手が僅かに後ろに下がると、彼女は半身から滑り出すように前へ出た。

「危ない! 菜月、動け!」

 危機を躱せと浅田さんが叫ぶ。肌が殺意を感じ取ると、ドクンっと心臓がはねた。

 不味いと思うが、蹴られた痛みとショックで身体に力が入らない。とにかく動かなければならないと考えたが、身体が言うことを聞いてくれない。

 私は、近付いてくる狂気をスロー再生される映像のように見ていた。 

 鈍い光がこちらに迫ってくる。私は、もう間に合わないと覚悟をした……。

 ガシャリ! 大きな物音と共に弾かれた。重さを受け止めた身体に痛みを感じる。

 だが、それは打ち付けられた痛みでしか無かった。

 目の前に立つ何者かの背中を不思議に思いながら見つめる。振り返った男性は徐に屈み込むと、私の肩を抱き怪我の具合を確かめた。それはほんの一瞬の出来事で、何が起きたのか分からなかった。情況を理解するのに数秒を要した。

「大丈夫ですか菜月さん」

 無事を訪ねる男性の声を耳の直ぐ近くで聞いた。間一髪の時に、その男性がサッと駆け寄ってきて私を守りつつ狂気を躱したのだと理解した。私は凶刃きょうじんから守られていた。 

「え、ええ……」

「すみません、遅くなってしまいました。怖い思いをさせてしまった。必ず守ると約束したのに本当に申し訳ありませんでした」


 ――サラサラサラと頬を撫でる柔らかな風を受けながらその声色を聞いていた。


 話しかけてくるその声は、確かにあの人の声だ。

 でも、なんで……訝しみながら声の方へ顔を向けると……。

 私は目を見開いた。目の前に健太君の優しい瞳があった。 

「お、お前、高木健太! なんで、なんでだ!」

 池上葵の驚きの声が飛んだ。

「やれやれ、僕も舐められたものだ」

「はぁ? 何だよお前、何言ってんだよ! 逮捕だろ! 捕まったんじゃねえのか、おい!」

「だから舐めてると言っている。池上葵」

 池上葵は怒りの形相で健太君を睨みつけた。

 憤る彼女の視線を、健太君は涼しい顔で受け止めてなお見返す。

「あなたが僕を狙ってくることなど、とっくに予想出来ていました。後はどういうふうにその手を掴むかということだけだった。――それにしても、痴漢の冤罪を仕組んでくるとはね……。浅はかにも程がありますよ。幼稚だ。そんなものにむざむざと嵌まるほど僕は愚か者ではありませんよ」

 健太君が軽口を話すように言ってのけると、池上葵は眉をつり上げ肩を怒らせたまま身体を硬直させた。

 戸惑いを見せる女に向かって、彼は、これでも一応専門家なものでね、と話してニコリと笑った。 

「――くっ!」

「池上葵、もうこれ以上、菜月さんに手出しはさせない!」

 健太君はきっぱりと言い放った。

「……あは、あはははは、何言ってんのコイツ、馬鹿じゃないの? お前にそんなこと――」

「出来ますよ、というかもう出来ました」

「はぁ? お前、自分の立場が分かってんのか?」

「あなたこそ、自分の置かれている状況が見えていないようだ」

「はあ? いいよ、潰してやるよ。この会社も、お前も、佐藤菜月に関わる全てを壊してやるよ」

「出来ますか、あなたに?」

「出来るに決まってんだろ、ボケが!」

「堀内さんの不当解雇、村山さんの父親の会社や、この会社に対しての業務妨害、菜月さんの不正のでっち上げ、そして僕に対する痴漢の冤罪を画策してきたようにですか? それがことごとく徒労に終わったというのに?」

 挑発するような口ぶりで彼女の罪状を並べ立てる。颯爽とした振る舞いで立ち上がると、健太君は私を背中に庇う様にして池上葵と対峙した。

「フン! お前こそ舐めるなよ。これまでのことは遊びみたいなものだよ。高木健太、これから更に地獄を見せてやるよ!」

 眉を怒らせる。池上葵は凄い剣幕で吐き捨てた。

 気が気でない。私はハラハラしながら情況を見ていた。挑発するにも度が過ぎている。相手はまだ凶器を手放していないのに。

 ところが、健太君は、敵意を受けながらも飄々とし微動だにせず。それどころか微笑を浮かべながら、まるで相手にならない、と首を振る始末。

「なんだよ! 何がおかしいんだよ!」

 相手の余裕の態度を訝しんだ池上葵が問うた。

 すると彼は、得意げな顔をして徐に上着のポケットからICレコーダーを取り出した。

「今の言質は、全て記録させて頂きました」

 これでどうですか、と様子を窺う健太君。

 池上葵は、ハッとした後に苦々しく表情を歪めつつ素早く動いた。

 それはあっという間の出来事だった。

 彼女は健太君の手からICレコーダーを取り上げると、相手を小馬鹿にするように笑みをこぼした。

 せっかくの証拠の品を易々と奪われてしまった。肝心なところで詰めが甘いな、と少々呆れて見ると、何故か健太君はまるで動じていなかった。

「まったく、今更ですよ。それを取り上げたところでどうにもならないでしょう。事実は、今この場にいる皆に聞かれてしまっているのですよ」

 言って健太君は再び余裕を見せた。

「そんなものは、証拠にならないわ」

「そうですか、そこまで言うなら仕方ないですね、堀内さん、村山さん」

 健太君に名を呼ばれた陸君と奈々実さんがニヤリと笑った。次の瞬間、二人が揃って懐からICレコーダーを取り出した。

「さあ、これで終わりです」

 池上葵は歯ぎしりしながら健太君を睨みつけた。

「許さない、絶対に許さないわ。こんなことして、ただでは済まさないわ」

「あれ? 聞こえていなかったのですか? 僕はもう終わりだといったのですが。分かりますか? あなたにはもう力など無い。僕達に害をなすだけの力をあなたはもう持ち得ていないんです」

「ふふふ、なにを馬鹿な事を――」

「どうしても聞き分けては頂けないようですね。ならば教えて差し上げます。僕は、浅田竜也さんのひき逃げ事件を追っていた。そして、真実に辿り着いた」

 ひき逃げ事件、と聞いた途端に口を引き結ぶ。彼女は僅かに後退った。

福地ふくち幸司こうじさんを御存知ですね」

 名を告げられると、彼女の眉がピクリと動いた。

「あなたが閑職に追いやり弱みを握って利用していた方ですよ」

 核心を言い渡され頬を引きつらせる。彼女は黙ったまま眉根を寄せた。

「先程、その福地幸司さんが自首しました」

「……そ、その福地とかいう人間が自首したからといって、それが私に何の関係があるというのかしら?」

 池上葵が動揺を見せ始める。

「ここまで話してもまだしらを切りますか。僕は、あなたにも自首を勧めているのですよ」

「な、なんで私が、私とその人に関係など無いわ」

「福地さんは後悔し反省しています。随分と良心の呵責にも苛まれて苦しんでいたようだ」

「し、知らないわよ。そんな事――」

「あなたには、直に逮捕状が下りることになっています。あのひき逃げ事件の犯人は福地さんだった。そして、その傷害事件を指示していたのはあなただ、池上葵」

 池上葵が小刻みに身体を震わせる。

「真実を知った後、僕は彼の説得を続けていました。しかしなかなか首を縦に振ってはいただけなかった。罪は認めていたんですけどね。彼は、余程あなたを恐れていたのでしょう」

「だから知らないと言っているでしょう。なんだっていうの!」

「――みなまで言わせますか、証拠がなければ逮捕状なんて出ませんよ。傷害罪の教唆きょうさが十分に立証されるからこその逮捕です。福地さんはあなたとの会話を録音していた」

 池上葵の肩から力が抜ける。手に握りしめられていたナイフがポトリと床に落ちた。

「……可愛そうな人」

「な、何よ」

 池上葵の瞳が恨めしそうに私を見た。

「こんなことになって……。あなたは、ご主人のことを本当に愛しているのかしら?」

「なに? 今更負け惜しみ?」

「あなたは、ご主人を愛しているのでしょう? その気持ちに自信が持てないの? それとも私がご主人を奪い返しにくるとでも思ったの? あなた、ご主人を守りたいの? それとも自分を守りたいの?」

「な、何が言いたいのかしら」

「私は今、全てを知った。あなたは、私を陥れ、会社を追い出した。人を使って浅田さんに怪我をさせ、詩織さんの心を弄んだ。まだあるわ、陸君から職を奪い、村山さんのお父さんにプレッシャーをかけて村山さんを脅し、訴訟を止めさせようとした。そこまでやってあなたは何を手に入れたかったのかしら? あなたの欲しかったものは何?」

「わ、私の欲しかったもの?」

「私を破滅させたところで、あなたに何の利益があるというの? あなたは今、自らの行いにより、全てを失おうとしている。あなたは、身勝手極まりない理由で、つまらない自己満足を得るために他人に不利益を与えた。その事が、逆に自らの幸福を手放すことに繋がるということになぜ気が付かないの? 私のことなんて放っておけば、あなたは今頃、ご主人と、可愛い赤ちゃんと三人で幸せだったはずなのよ」

「……」

「あなたはやり過ぎた。こんな事さえしなければ、何も失わなかったのに」

「…………」

「結局、あなたは何がやりたかったのかしら?」

「……わ、私は」

「私は、婚約を破棄され、失業した。それでも私は何も失っていなかった。それに、私が婚約者と仕事を失ったのは、あなたのせいなんかじゃない、それは全部自分のせい」

「――何を、何を言っているのよ」

「私は、あなたとは違う。誰かを犠牲にしてまで利益を得ようとは思わない。誰かに不利益を与えて利益を得ることなどしない。だから決めた。いま決めた。私は訴訟なんて起こさないわ。それに今回のことも騒ぎにはしない」

「あ、あなた、それで私に貸しを作ったつもり? そ、そんなもので――」

「違うわ、私は、あなたにも幸せになって欲しいだけ」

「そ、そんなこと……」

「あなたは池上を愛した。池上もあなたを愛した。それだけが事実。私が誰かを好きになる事と、誰かが私を好きになってくれることは別のこと。愛し合える相手が見つかるかどうかは、神様と運命だけが知っている事。私は独り善がりに気持ちを押し通して得ようとは思わない。そんなのじゃダメなのよ。私はそんなものは要らない」

「……」

「あなたは、これから罪を償わなければならない。でも大丈夫。身に起こるのは不幸ばかりではないわ。神様は、その先にちゃんと幸せの機会を用意してくださっている。それにね、幸せは与えられるものではないのよ。奪うものでもない。与えるものよ。道を外さずに正しい選択をすればきっと幸せになれる。人は誰でも皆、幸せになれるのよ」

 池上葵は膝から崩れ落ちた。


 残り時間  5日と23時間57分53秒

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