第37話 かわらぬ日常

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 四月五日、午前六時三十分、 

 ミッション終了まで残り十三時間三十分、

 いつもと同じように目が覚めた。夢は見なかったようだ。

 春の日差しが柔らかく部屋に差し込んでいた。見えている世界は明るかった。

 頭上に浮かぶデジタル数字に目を向ける。今ではもう、当たり前のようになっていた期限の表示だが、そこにはもう日付を示すものは無かった。見えていたのは、カウントダウンをするように時を数える時計のような表記だけとなっていた。

 恋愛ミッションの最終日の朝を迎えた。

 とうとうその日がやってきた。

 思うところは何もない、と言いたかったが過ぎ去る時間の早さに、少しだけ恨めしい気持ちもあった。

 至って平穏な日常の始まりだった。

 この朝も、テレビの音声を惰性のままに耳にしていた。聞こえてくる溌溂とした声は、毎朝お馴染みとなっていたお天気お姉さんの声。その朗らかな語り口に引かれるように立ち止まりテレビ画面を見る。

 苦笑いを浮かべていた。見つめる絵面の中で、元気よく笑顔を見せる女の子の様子が少しだけ羨ましく思えていた。

 あの一件により私は失業を免れていた。だから普段と同じように朝の支度をしている。

 鏡に映っている顔も、いつも通りで変わりはないと安心するが、それでも両手でパチンと頬を叩いて気合いを入れた。鏡面に向かって口を引き結ぶ。大丈夫、シャキッとしなさい、と鼓舞するように語りかけた。

 再びテレビの音声が耳に入ってきた。それは季節の便りだった。

 振り向いた先で、ニコニコ笑顔のお天気お姉さんが話す「寒気の影響もあって、今年の桜の開花は平年より遅れましたが、その分だけ長く花が見られましたね」

 今年も桜の季節が終わろうとしている――私のミッションは、昨年の散る桜と共に始まった。長かったようで、あっという間に駆け抜けていった一年だった。あれからもう三百六十五日が過ぎた。思えば、色々な出来事があった、と今更ながら感慨を覚える。

 ここ数日、少しだけ早く家を出るようにしていた。それは訪れた春を肌に感じたかったからだ。

 一つ花が咲き開花。

 一日経てば一分咲きになり、数日を経て五分咲きと開花は進む。そこから先は春風に誘われるようにして一気に満開になった。

 そんな僅か数日間の、流れるような時の移ろいを目にしながら思う。

 桜の開花は、春の到来を思わせ気分を高揚させるものだが、実際のところは、開花が進むにつれ希望が散っていくというありさまだった。私は、薄い桃色を見つめながら、淡々と日々を過ごすだけとなっていた。

 ミッションの期日を、なるべく意識しないように努めていた。あの日から数えるのを止めてしまっていたのだが、確定されている期限日を頭の中から消し去ることは難しかった。 

 だからといって、後悔はしていない。こうと決めた以上は何をどうするまでもない。それに、――今宵に訪れる期限は時間や季節の移り変わりのように止める事が出来ないものだ。


 柔らかい春の日差しが降り注ぐ。風は未だ少し冷たかった。

 一駅手前で降りて、思い出深い川沿いの桜並木の下を歩く。

 揚々とした心持ちで様々な人の様子を眼に映している。

 他者から見れば、私も景色の一つとなっているのだが、彼らに、今の私の姿はどのように映っているのであろうか。

 人は己の置かれた状況で景色を見る。

 楽しい時は周囲も幸福に包まれて見え、苦しい時は周囲に羨望の眼差しを向ける。悲しい時には周囲が見えなくなる。

 主観は自己中心的であり、その時々に景色を変えて見せる。世界を自分に都合の良いように変えてしまう。

 今の私は、仲睦まじく登校する高校生や散歩する壮年の夫婦を見ながら微笑んでいる。すれ違う彼らの朗らかな笑顔に幸せ色の空気を感じる。暖められた心が、春の陽気と相まって口元をほころばせていた。

「うん、これでいい」

 被った不利益が他人の利益であることがある。得た利益が他人の不利益になることがある。

 一年前のあの雨の日、私は妖精に出会い、それが世の常だと教えられた。

 しかし、彼女の言い分は、真に正しいことなのだろうか。

 私には、幸福を利益と不利益で量ることが正しい事であるとは思えない。 

 却下だ。そんな捉え方は間違っている。そういう考え方はしたくない。今度会ったら、文句の一つも言ってやろう。

 神様は不幸な結果の先にも、幸せになる為の機会を与えているというが、

 もしもそれが真実ならば、人生は、いくらでもリカバリー出来るということになる。たとえ不利益に見舞われたとしても、次の選択さえ間違わなければ人はちゃんと幸せになれる。ならば、不幸など、心の持ちようで何とでも出来る一時的な事象に過ぎない。悲観しなくていいのだ。

 ――幸せって何だろう。

 私は、自分にとっての不利益を選択した。「最高の恋」など要らないといった。だからもう、今後の私の人生に恋は訪れない。しかし結果は決して不幸ではない。現に私は不利益など被ってはいないし、不幸も感じていない。

 私は自らの意思で最善の未来を選んだ。私の幸福は、私が決める。

 今日という日が過ぎてしまえば、いよいよ、あの妖精の下世話なミッションともお別れになる。よくやったと、自分を褒めてやりたい。

 胸を張ろう。愛する人々の幸せの為に精一杯のエールを送ろう。

「お幸せにね」

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