第28話 すぎゆく倖せ

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 十二月二十二日


 池上葵と闘わねばならない。あの日、健太君に言われた事を、私は未だ実感できずにいた。

 僅かの不安も無い。然したる被害も被っていない。私の日常は池上葵と交差すること無く平穏に過ぎている。やはり、彼の危惧は取り越し苦労というものだろう。

 年の暮れ、クリスマスに年越しの準備と、巷の人々はどこか気忙しさを身に纏っている。

 下半期に突如として起きた受注不振は相変わらず謎のまま続いていたが、会社は新規の開拓と培ってきた自力で急場を凌いだ。見通しは、まだまだ明るいとまでは言えないが、この様な時こそ、立ち直らせてくれた人達に恩返しがしたい。微力ではあるが、私も何とか業績の回復に貢献したいと思っている。

 閑散とした事務所に一人残って細々とした残務を整理する。私は早々に年内の仕事を片付けた。

 ふと、パソコンのキーを叩く手が止まる。不意に現れた日付の表示を見て肩を落とす。私は身に起きた出来事に思いを巡らせた。

 不祥事、失業、破談から、再就職と新たな出会い、本当に目が回るような一年であった。来年こそは落ち着いた良い一年にしたいものだ。――などと思いながら……再び恨めしく右斜め上に目を向ける。

「何とかならないかなぁ、もう」

 今も急かすように頭上に表示されている残り時間。漠然と来年の抱負を思い浮かべたものの、実のところは、余所事のように目をつむり逃避している場合ではない。

 恋愛ミッションの期限が残り百日に近付いた頃から、残り時間の表示が度々表示されるようになっていた。これには、ほとほと嫌気が差していたのだが、残酷なミッションは、私の事情に構うことなどなかった。この眉唾ものの出来事をいかに片付けるべきか。これはまさに難題である。 

「早く恋せよ、と言われてもね……」

 呟きながらデスクに肘をつき頭を抱える。

 恋愛の完全喪失という人生における一大事を告げられているにも拘らず、私の腰は重く、状態はもはや投げやりといっても過言ではない。

 だからといって完全に諦めているわけではない。花も実も無い人生は、やはり空しいものだろう。何とかせねばなるまいとは思っている。それでも、何をどうすればいいのか皆目見当もつかない。

 出会いの通知音は、五月に健太君の父親に対して鳴った後は、沈黙を守り続けていた。ならば、現時点では、通知音が示した人達の中に最良の人がいるということになるのだが……。

 提示された人達の中には恋愛対象者がいなかった。相手が見つからない、これは決定的なことである。やはりもう詰みだと言わざるをえないのか。

 いやしかし、僅かだがまだ時間は残されている。

 だけど……その、残された期間にドラマチックな出会いがあるとも思えない。

「ほんと、無理ゲーだよね」

 気分が萎えてしまった。切り替えよう、もう直にクリスマスイブだ。

 勿論のこと聖夜に浮かれることはない。楽しげな事を思い浮かべて気を紛らわせようとしただけだった。世の恋人達の一大イベントであろうクリスマスイブを目前にしても私のやる気は変わることが無いし、焦る気にもならなかった。

 そもそも恋人達の祭典は、既に恋愛関係になっている者達が愛を深める為のイベントである。何かが起こる予兆も無いならば、聖夜など、恋人がいない私には無関係のイベントである。そういうことで警告は無視。

 デスクを片付け、パソコンの電源を落とし書類をファイルに綴じる。私は、タイムカードを手にして、逃げるようにして事務所の出入り口へと向かった。

「おお、菜月、今帰りか?」

 元気な声が私を呼び止めた。この日珍しく、私と浅田さんは帰宅時に鉢合わせした。

「ええ、なんとか今片付いたわ。浅田さんは? 今日は早いのね」

「まぁな、年の瀬ってのはラインを止めるメーカーも多いからな。俺達だけやってもしょうがないってところがあって正直やることがない。後は忘年会を残すのみだ」

「年の瀬だね、飲み会で今年も一区切りか」

「だな。それで年内の行事ごとは全て終わりだ」

「忘年会かぁ」

「なんだ菜月、嫌なのか?」

「あ、いやいや、そうじゃなくて。実は私、会社の忘年会って初めてなんだ」

「そうなのか? 前の会社では無かったのか」

「まぁね、いい意味でプライベートは個々でって感じだったから」

「ほう」

「あ、でも、チームでの飲み会はあったわよ。やっぱり腹を割って話すことは大事だもん」

「まぁな。酒の力を借りて無礼講で物を言うってのも時には必要だからな」

「そうね。でも、お酒の力を借りるっていうのも、喜ばしいこととは思えないけど。ホントは誰かさんみたいに素面しらふでもズケズケ物を言う方が分かりやすいんだけどねぇ」

「そうだよなぁ、そのとおりだよなぁ。言いたい事はハッキリと言う。俺も早く酒の力なんぞ借りなくても、その誰かさんのように物が言えるようになりたいものだよ」

 しれっとして浅田さんが答える。

 最近の浅田さんは私の皮肉や揶揄をいとも簡単にあしらう術を身に付けていた。その事は私と浅田さんが気の置けない関係になっているということを示唆していた。

「さてと、今日も頑張ったぞって思ったら急にお腹が空いてきちゃったわ。今日は何にしようかな……」

「違うだろう菜月、明日はもう休みだから浴びるほど飲みたい、だろ」

 ジョッキを持つ手を真似ながら、浅田さんが悪い顔をして私を揶揄する。

 ちょっぴり悔しかったので睨んでやった。それでも浅田さんは笑って視線を受け流す。

「菜月、どこか寄ってくか?」

「いいわね、喜んでお供させて頂きましょう」

 度々の警告表示に少々気分も萎えていたので、景気づけに憂さを晴らしてやろうと思い快諾した。

「店は、あそこでいいか?」

「そうですね。あの店なら実家にも近いし、ふふふふ」

「おいおい、お手柔らかに頼むぞ」


 二人で事務所を出る。外はすっかり暗くなっていた。見上げれば空は晴れていたが冬の風は冷たかった。風が時折り強く吹いてコートの隙間から体温を奪う。それでも私と浅田さんの足取りは軽かった。

 ――私、浮かれてる?

 これは年の瀬の雰囲気のせいか、それとも浅田さんとの会食のせいか。

 浅田さんと並んで馴染みの赤提灯へと向かった。向かう先は勿論あの店だ。と思えばあの狸親父の悪い笑顔が思い浮かんできた。

 店に到着し、暖簾をくぐり入り口から顔を覗かせると、思った通り狸が満面の笑みで大きな声を掛けてきた。

「いらっしゃい! お、菜っちゃん、いま帰りかい? で、今日は竜也も一緒か」

「ども、毎度です、親っさん。俺、とりあえず生。で、こいつは酎ハイ、レモンで。後は適当になんか出してよ、あったかいもんがいいな」

 浅田さんがテキパキと注文すれば、狸が「おう」と短く応じる。

 呆れた。ちょっと待て浅田竜也、なんで私の分まで勝手に注文をするんだ。とはいえ、異存もないのだけれど……。

 早速、カウンターに飲み物が運ばれる。浅田さんはお決まりのように、お疲れ様、といってジョッキを合わせた。

 柑橘の香と冷えたジョッキ。口に近付けた時点でもう頭の中に冷たい喉越しと爽快感を思い浮かべていた。どれだけ飲むのが好きなんだ、私は。

 ジョッキを傾けゴクリと飲んで感嘆を漏らす。至福を感じていたその時だった。

 背中に視線を感じた。振り向くとそこには、

「ん? どうした、菜月」

 浅田さんが動きを止めた私を見る。彼も倣うように椅子を回し私の視線の先を向いた。

 そこには陸君と奈々実さんに加えて健太君がいた。

 皆が来ているなら教えてくれればいいのに。人が悪いな、と狸親父の粗相にツッコミを入れて見ると、大将が俄に苦笑を浮かべた。――なになに?


「こんばんは、みなさん」

 会釈を交え努めて明るく挨拶をした。この時、浅田さんと二人で飲みに来たことを、やましいところは何もないと、誰にとも無く言い訳していた。

 何の気なしに健太君へと視線が向かう。――ん? 私の覚束ない気持ちは直ぐに肩透かしを食らってしまった。見ている先、三人が作る空気が重苦しい。皆が揃って、こちらなど構ってはいられないという雰囲気を醸し出していた。

 私は、拍子抜けしながら再び冷たいジョッキに口を付けた。炭酸がシュワっと喉からお腹へと流れ込んだ。

「なんだ? あいつら何かあったのか?」

「そうね……」

 浅田さんも三人の異常に気が付いたようだ。私と浅田さんは三人へと向けた視線を戻す事も叶わず、その気まずさのまま、間を持たせるように揃ってもう一口を喉の奥へと流し込んだ。

 僅かの間を置いて陸君が声を掛けてきた。それを横にいた奈々実さんが戸惑いながらやんわりと制す。健太君は押し黙ったままであった。

 三人の小声でのやり取りに耳を傾ける。

「何かあってからでは」

「でも考え過ぎじゃないの?」

「いや、やはり」

 などとヒソヒソ声が聞こえて来た。そこには困惑が見て取れた。

 何のことだろう。何かあったのだろうかと思い首を傾げる。横を向くと浅田さんも一体どういうことだと訝しんで三人を見ていた。

 そうして、黙ったまましばらく様子を見ていると最後に健太君が口を開いた。

「やはり話すべきでしょう」

 その健太君の一言に眉根を寄せた奈々実さんは、その後少し考えてから同意するように頷いた。

 こうして私と浅田さんは訳も分からないまま三人と同席することになってしまった。

 店の一番奥のテーブルに向かう。片側に陸君と奈々実さんが並んで座り、健太君は彼らの対面に一人で座っていた。テーブルに着くと浅田さんが健太君の隣にスッと座る。そのせいで私は、向かい合う彼らを見渡す位置に座らされてしまった。

 なんか、この席、微妙なポジションだわ。

「それで、これは何の話し合いなんだ?」

 浅田さんがジョッキを片手に朗らかな顔で話しかけた。そのムードに乗っかるように陸君も持ち前の陽気な口調で受け応える。

「話し合い……うーん。それはその何だ。何から話せばいいのかなぁ」珍しく陸君が口ごもる。そうして、逡巡を見せた後に笑顔で続けた「実は、僕、病院をクビになっちゃって、ってところから話せばいいのかな?」

 思わず二度聞きをしてしまいそうになった。陸君は、失業という一大事に落ち込む様子も見せず、他人事でも話すようにサバサバとしながら語った。

 それにしても、何故このようなことになったのか。彼に落ち度などあろうはずもない。理解に苦しむところだ。それに話があまりに急であった。

 戸惑いながらジョッキに口を付ける。両サイドの四人を眺めながら耳を傾けた。

 陸君の話が終わると、続いて奈々実さんが自身の事情を話し始めた。

 彼女の話を聞いて驚いた。不幸な事態は陸君の失業の話だけでは済まなかった。

 これは、何か、嫌な事が起こり始めたのではないか、私は不穏を感じ取った。

 淡々と進んでいく話。健太君の眼差しと態度、目配せは語っていた。 

 徐々に、抱いた嫌な予感が実感へと変貌し始める。血の気が引いていく。

 奈々実さんが話を終える頃には、胸騒ぎが止められなくなってしまっていた。

 皆まで言われずとも分かった。

 私はこの時、一月ほど前に健太君から受けた警告を思い出していた。

 ――よもや。

 彼女のことを思い浮かべていた。

 彼女の嘲笑する顔が脳裏をよぎる。

 ――でもまさか、そんなことがあるはずないではないか。

 否定しながら首を振るが……どうやら逃げられそうもないようだ。

 奈々実さんが話し終えると、満を持したように健太君が厳しい顔つきになった。

「これは、今は僕達の話ではあります。だが――」

 冷えた声を聞いて、おのずと肩に力が入った。

 呼吸が速くなっていく。

 私は、だが、だが、だが、と健太君の言葉を頭の中で繰り返した。

 確信めいた予感。聞きたくない、これ以上はやめて、と健太君を見る。

 それは願いだった。そうであって欲しくないという願いだった。

 それでも、健太君の目つきとその場の雰囲気で何となく悟ってしまっている。

 ……いま胸に抱いているこの悪い推測はきっと当たる。

「このことは、きっと僕達のことだけでは済まない」

 やはりそうか。

 一気に重さを増した場の空気に押しつぶされそうになる。

「君たちの事だけでは済まないって、何がだ? 健太君、それは一体どういうことなんだ」

 浅田さんが、僅かばかりの沈黙を朗々とした声で破る。

 健太君は、問いをしっかりと受け止めてから浅田さんの顔を見た。

「これで終わりでは無いと言うことです。これらのことが全てある一人の人物の仕業だとしたら、まだ何かが起こる。いや、気付かぬうちにもう起こっているかもしれない。菜月さん、浅田さん、最近、身の回りでおかしなことは起こりませんでしたか?」

 健太君が答えをはぐらかせたまま私達に聞き返す。

 来た、やっぱり来た。しかしどうして、何でこんなことになるのだ。

 思うが、心の声を音にすることなど出来ない。私は思いついた推測を肯定したくなかった。

「おかしなこと? 俺に関しては、特に何もないけど」

「わ、私も、これといって何も無いんだけど……」

 思い当たる節は無いと言って浅田さんは首を傾げるが、私は緊張していた。 

「そうですか、お二人ともプライベートは無事ですか。良かった」

 健太君がホッとした様子を見せる。陸君と奈々実さんは顔の強張りを少しだけ解いた。だが私は、彼の言い回しに引っ掛かりを覚えていた。

 プライベートでは確かに何もなかった。しかしそれ以外でならば思い当たる節が無いわけではない。私が頭に浮かべていた禍、それは、突然起きた理由の無い受注不振のこと。――嫌だ。こんなことは間違いであって欲しい。

「健太君、えらくナーバスになっているが、一体何を危惧してるんだ? 君の言っている事を真に受けると、俺達にも悪い事が起きるかもしれないってことだが、何が言いたいんだ? 堀内先生が理由もなくクビになったことと、村山さんがクライアントの担当を外されたこと。それに、村山さんのお父さんの会社がどうのってことが、俺達にどう関係すると言うんだ」

 浅田さんは全く合点がいかないといった感じだったが、私は、ほとんど確信してしまっていた。悪いことは起きていると。

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