第29話 きえていく居場所
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「大丈夫? 菜っちゃん、顔色が悪いよ」
陸君が心配そうに顔を覗き込んできた。
「あ、ううん、なんでもないよ」
その場を取り繕うように間に合わせで応じる。私は言い知れぬ焦燥感を抱きながら起きた事柄を見つめていた。
――やはり、そうなのか。だけど、信じられない。
心が肯定と否定を行き来する。思い過ごしならばと願う一方で、胸に迫る不安。万が一にも健太君の危惧が現実であれば、もう取り返しがつかない。
迷ったあげく、私は忌避する事実をきちんと確かめなければならないという結論に至った。
「奈々実さん、お父様の仕事の話なんだけど……」
場が固唾をのむ。皆が私を見ていた。
「何か、思うところがあるのか? 菜月」
ジョッキを宙に浮かせたまま浅田さんが目を丸くする。
私は、あ、ええ、ちょっとね、と口淀み、次の言葉を探した。
「あ、あの、奈々実さん、その……お父様の会社の事情を詳しく聞いても良いかしら」
意を決して訊ねた。すると彼女は、スッと息を吐いて仕切り直してから話し始めた。
「私の父は印刷関係の会社を経営しているのですが、どうも取引先の何軒かに圧力がかけられているみたいなんですよ。干されているといったところでしょうか。今は大した影響もないようですが、これは何かあれば潰すぞという警告であると私は受け取っています」
淡々と話し奈々実さんは私を見た。
「奈々実さん、それはもしかして……私のせいでしょうか」
私の問いに、陸君は俯き、浅田さんは眉根を寄せた。健太君は口を引き結んだ。彼女は、そんな息が詰まるような場を見渡して言った。
「多分、そういう事になるのだと私達は推察しています」
「……やっぱり」
「あ、誤解しないでくださいね。この話は、原因がどこかっていうのを端的に言ってしまえば、ということです」
「なんだ? どういうことなんだ村山さん」
「現状、私は先輩に協力していません。これまでも先輩の言い付けどおり接触を控えていました。なので、よもや彼女が、私達にまで手を回すことなんて予想もしていませんでした。それでも、このような事態が起きた。これは、彼女の用心深さ故かと」
「用心、ですか……」
「そうですね。人質にされた父のことは、念には念を入れてということでしょう」
「事実から考察すると見えてくる。やはり彼女は一筋縄ではいかない相手だ」
「おいおい、二人ともちょっと待ってくれ。菜月は分かっているようだが、俺には君らが何を言っているのか要領を得ない。人質とか、相手とかって、何のことだ? それに、皆に降りかかった不幸が菜月のせいってどういうことなんだ。圧力とか、干されるとか、訳が分からん。何だよそれ」
「ちなみに、僕があの病院を解雇されたのも、同じところからの圧力なんだよ、浅田さん」
「堀内先生まで……」
冷静に事情を話す陸君と奈々実さんの顔を見て、浅田さんは唖然としていた。
「これは不当解雇だけど。あの病院の大口の出資者であり大物の理事でもある人物の指示ならば、それも可能なことさ」
「しかし分からん。強権を使って一人の職員を退職させることに何か意味があるのか? 堀内先生はあの病院には無くてはならない人だよ。それが何で――」
「それは勿論、僕が、菜っちゃんの味方だからだよ」
「先生が菜月と友達だからって何で」
「浅田さん、ちなみに私はそんな陸と交際している。その上に菜月さんの為に動いていた先輩とつながりもある」
「おいおい、ちょっと待ってくれ。みんな菜月と関わっているからやられたってことなのか? ったく何だよそれは。くそっ、なんだよ。もうちょっと分かりやすくなんねえのか」
浅田さんがお手上げだという仕草を見せた。そこで健太君が、改めてこれまでの経緯と池上葵に対して行った宣戦布告の件、名誉回復の為の訴訟の件を併せて説明した。
私は一番の当事者であったのだが、この時はただ黙って俯いている事しか出来なかった。
「これでようやく話は分かった。なるほどな、あいつの仕業だったのか」
「浅田さん、池上葵を知っていたのですか?」
堀内陸が目敏いですね、と感心しながら尋ねた。
「ああ知ってる。病院で会ったことがある。たまたま菜月が見舞いに来てくれた時に鉢合わせして、それで一度だけ話した。一目見てヤバイ奴だなとは思ったけど、まさかこんなことになるとはな」
「いやぁ、僕達も実は驚いているんですよ。健太君から注意するように言われてたんだけど、でも、だからといって彼女にこんなことが出来る力があるなんて思いもしなかった」
「うーん……しかしなぁ」
「何です? 浅田さん」
腑に落ちないと言って顔をしかめる浅田さんに健太君が訳を尋ねた。
「いやさ、今回の事が全て池上葵の仕業だって言われてもな。力があるって言われても、あんな普通の娘にこんな大そうな事が出来るのか?」
言われてみれば浅田さんの言う通りだ。健太君や陸君達は確信しているようだが、これが全て彼女の仕業だというには少々無理がある気もする。
本当にこんな事を女性が一人でやりきれるのだろうか。これだけ方々に手を出すことを容易に行える力とは何なのか。一連のことは軽々に成し得ることではない。それに……私の事が気に入らないとして、私に嫌がらせをするにしても、このような事態はあまりに大仰なことだ。普通にはありえない。
「池上葵の旧姓は加藤といいます」
健太君が説明に入る。彼に確認してくるような視線を向けられ頷きを返す。
「彼女はあの大企業、Kグループの力を私的に行使している。彼女は加藤会長のたった一人の孫であり、現社長の一人娘です」
「そうか、カトウだったのか……って、おい!」
加藤の名を反芻するように唱えた浅田さんがいきなり大きな声を上げた。
その声が店中に響くと店内の視線が一斉に私達に向かってきた。
浅田さんがハッとしてバツの悪い顔をする。我に返った浅田さんは立ち上がり「どうもすみません」と破顔しながら頭を掻いて他の客に頭を下げた。
ザワツキを治めると直ぐに浅田さんは着座し思いついたことを話す。
「なぁ健太君、これはちょっと言いにくいことなんだが、実はその池上葵の圧力ってやつ? それ、どうやらうちの会社の取引先にも掛かってるんだわ」
「やはりそうでしたか。それで浅田さん、根拠は」
「い、いや、これは俺も直接聞いた話ではないんだ。でも、方々から聞こえてくる噂によると、ここ最近、うちの取引先に対してKグループからやんわりと圧力が掛かっているってことだ」
これで私の推測は確定した。
追い詰められていく心。私は彼等の話を上の空で聞きながら自分の事を責め始めていた。皆が次々と不幸になっていく。そんなことには耐えられない。
「――この話の確証は未だ得てはいないのですが……」
健太君が「実はもう一つ、前から気になっていたことがあるのですが」と別件の話を切り出した。
言いにくそうに話す声は低く重苦しい。彼の態度は、否が応にも悪い事態を想起させた。……まだ、終わりでは無いのか。
私は既に打ちひしがれていた。だからこれ以上の事は何も聞きたくなかった。
「あの交通事故の話なのですが……」
事故と聞いて直ぐに血の色に染まった朝顔を思い出す。回る赤色灯とサイレンの音が脳裏に浮かぶ。途端に呼吸が加速した。胸が締め付けられる。苦しい。
場が凍り付いていた。皆も私と同じことを考えたのだろう。ある種の予感に息を飲んでいた。
健太君の声が更なる悪夢を見せようとする。――嫌だ、止めて! それだけは、その話だけは私のせいであってほしくない。
私は、救いを求めるように健太君の顔を見た。
「あの花火大会の夜のひき逃げ事件、あれも、もしかしたら……」
奈落へと突き落とすような台詞だった。それは、殊更に看過出来ない決定的な話。逃れようのない悪夢。これではもう、救われようもない。私の心はここで折れた。
「お、おい、ちょっと待て、それはいくらなんでも飛躍し過ぎではないのか。それに、俺に怪我を負わせて池上葵に何のメリットがあるというんだ?」
浅田さんが驚きの声と共に戸惑いを見せた。すると健太君は一度黙って下を向き、迷いを見せながら次の言葉を絞り出した。
「浅田さんは菜月さんを助けて事故にあった」
「健太君、浅田さんの事故は、元々は菜っちゃんを狙って起こされたっていうのかい?」
「そう考えても差し支えはないのだと、僕は考えています。ただし、犯人が捕まっていない上に、証拠も見つけられていないので断定は出来ません」
一同が水を打ったように静まる。
「池上葵、許せないわ」
「こんなことってあるのかよ! 菜っちゃんが彼女に何をしたというんだ! もう我慢がならない! 何とかならないのかい、健太君」
「そうよ、先輩!」
場が一斉に怒気をはらんで憤った。
浅田さんは眉間に皺を寄せて唸っていた。陸君と奈々実さんが揃って健太君を見つめると、その気勢に押された健太君が苦笑を浮かべた。
呆然としながら空になった心でその光景を見ていた。驚愕の事実を突きつけられ、もう何をどうして良いのか分からない。
「でも、さっきも言った通り証拠なんて無いんだ。だから慌てないで」
「それでも、健太君は池上葵の仕業だって考えてるんだろう?」
「確かに僕はそう考えています。あの事故にまで池上葵が絡んでいたとすればこれはもう放っておいてはいけない。このまま放置しておけば次に何をされるか分からない。逃げることなども出来ない。彼女はとことんまで追ってくるでしょう。ならば迎え撃って完全に打ち負かせるしかない」
全員が揃って頷いた。その場の空気が臨戦態勢になった。
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