第27話 ごまかしの残り香

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 健太君との食事は静かにゆっくりと進んだ。

 その場にはもう息苦しさはなかった。

 何もかもなし崩しというわけではない。大人だった、とそれだけのことである。二人とも直ぐに気持ちを切り替えられていた。

 分別をしっかりと心に刻みつつ、時折り笑顔を挟む会話は、インスタントにしては美味しいソースだね、とか、司法修習って何をやっているの、とか、他愛のないもので、使う言葉も終始お互いの心のどこにも踏み込まないものだった。

 そうして穏やかな食事が終わる。

 私は食器を片付ける合間に湯を沸かし珈琲豆を棚から取り出した。

「ここは僕が」

 健太君が笑顔で私を制してキッチンに立った。従うより他なかったというのは逃げである。私の心は意味不明のわだかまりに占領されたまま思考停止していた。だから、されるがまま相手に成り行きを委ねたのである。

 私は何も話さず、ただただ手慣れた彼の様子を見ていた。

 豆を挽き、フィルターに落とす。

 ケトルから蒸気が立ち沸騰を知らせるが直ぐには注がない。

 彼は火を止めた後、数えるように数秒を待ってから少量のお湯を柔らかく注いで豆を蒸らした。

 たちまち香りが立った。いつもと同じ珈琲が別物のように思える。

 豊かな香りが作り出す穏やかな一時。それは優しい時間だった。

 いつしか私は、頬杖をつきながら彼の仕草を眺めていた。

 部屋中に行き渡る珈琲の香り。

 心がなだらかになっていく。

 珈琲を一口含んで笑顔になる。

 カップの熱とかぐわしさが作り出す温和な二人だけの時間。

 しかしそれは、居心地の良さが半分、後ろめたさが半分の息苦しい時間でもあった。

 落ち着いたところで健太君が私の顔を見た。

 彼の目が意を伺う。私が頷きを返すと、彼はコーヒーカップをカチリと落とし、これまでのいきさつを話し出した。

 健太君は、陸君を交えて奈々実さんと話した事や、今、自分がやろうとしていることを次々と語っていった。目を伏したまま流れる声を耳にする。

「菜月さん」

 彼が私の名を呼ぶ。ハッとして見上げる。

 彼は問うた。私が前の会社から受けた処分や父の借金のこと、婚約のことまでも。

 それは、全てに於いてやんわりとしていながらも要点を踏まえた聞き取りだった。

 聞かれたことには全て答えた。話す内容は隠し立てする必要も無いことで、私の中ではもう終わった事であったから。だから全てを話す事に躊躇は無かった。

 話を真摯に受け止める健太君の顔は先程とはまた別の顔をしていた。

 健太君は、池上葵と対面したときのような凜々しい顔になっていた。

「僕は、菜月さんの名誉を回復させたいんです。このままではいけないと思っています」

 冗談半分でないことは聞き直すまでもない。彼の本気は目を見れば分かった。だから率直に思うところを言葉にした。

「その必要はないわ」

 きっぱりと言い切った。すると彼は私の言葉をニコリと笑みを浮かべて受け止めた。

「やはりそう言いますか」

「え?」

「いえ、菜月さんならそう言うかな、って思ってたんです。もちろん訴訟の件は本気ですよ。いつでも始められるくらいの準備はもう出来ています。証拠も揃っている」

「ありがとう、健太君。でももう十分よ。確かにこれまで色々な事があったけど、私は今の環境に満足しているの。それに過去の事はもう私の中では終わっている事なのよ」

「そうですか……、わかりました。菜月さんがそう思われているのなら訴訟の件はもう考えないでおきましょう」

 これで全てを話し終えたと思い、肩に入っていた力を抜いた。

 だが健太君の目にはまだ強さが残っていた。

 ――どうしたんだろう? まだ何か……。

 健太君の顔が先程より厳しくなっていた。

 気迫を帯びる顔を見て俄に緊張する。

 戸惑っていると、彼はこれからが本題だと言わぬばかりに次の話を切り出した。

「訴訟の件は了解しました。ただし、どうしても片付けなければならない問題があります。しかしこれは論理的な話ではない」

「……」

「訳が分からないって感じですね」

「あ、いえ……。うーん、そうですね」

「では、単刀直入に言いますね。解決を要する問題というのは、池上葵のことです」

「池上葵? ……彼女がどうかしましたか?」

「彼女は危険だ」

「え?」

「よく考えてみてください。可笑しいとは思いませんか?」

「可笑しい?」

「あの粘着体質ですよ。彼女は明らかに菜月さんを敵視している」

「敵視?」

 首を傾げると、健太君は間を一つ置いてから諭すように言った。

「菜月さんは人を信じ過ぎです」

 それは以前にも聞いたことがあった言葉だった。

「で、でも、理由がわかりません。私がなぜ葵さんに恨まれなければならないのでしょうか」

「確たる理由など無いかも知れません」

「え?」

「彼女は思い通りに結婚した。それなのに、未だ菜月さんを敵視している。そのこだわりが何なのかはわかりません。もしかすると始まりは些細な事だったのかも知れない。しかし彼女はあなたに抱いた悪感情を、憎悪へと膨らませて、後に引けなくなっているように見えます」

「で、でもさ、そんなことは健太君の想像で――」

「菜月さん、これは確かに僕の想像、いや、勘というしかないようなあやふやな考えです。だから最初に論理的ではないと話しました。でも確かに感じるんです。どうしても不安になるんです。あの時と同じように」

「あの時……?」

「そうです。僕が詩織ちゃんの母親を巻き込んで死なせてしまったあの時と、これは同じ匂いがするんです。だから感じる。あなたは危ない」

「で、でも、だからって私にはどうすることも……」

「それでもあなたは闘わなければならない。これは無視していれば通り過ぎていくような問題ではありません。きっと災いはあなたを追うようにしてやってきます。僕は、僕は全力であなたを守りたい。いや守って見せる」

 健太君は力説をした。それでも私には、話が他人事のように思えていてピンとこなかった。

「これまでに思い当たることは無かったですか?」

 問われて暫し考える。

 無理に考えれば思い当たることが無い訳でもないが……。

 例えば葵さんの入院の件がそうであろうか……だが、厳しくなじられた以外に被害はないし、他に何か、と考えても思い浮かぶことがない。

「これといって……」

「そうですか、それならば一先ず安心はしました。けれど、くれぐれも気をつけてくださいね」

 私が否定をしたところで彼は話を終わらせた。最後に加えて話したのは、今後とも十分に気を付けて欲しいということと、何かあったらすぐに知らせて欲しいということだったが、どうにも実感が持てなかった。

 全ての話を終えた健太君は、夜に女性の部屋に長居するのも何だからといって直ぐに席を立ち家路についた。玄関先までついて行くと、彼はここでいいです、といって笑顔を残す。ドアがパタンと小さな音を立てて閉まり、健太君の背中が消えた。

 私は、何の気なしにそこで数秒立ち尽くしてしまった。

 ――なんだろう、この感じ。

 突拍子もない話を聞いて困惑しているのか、危機を聞かされ不安を抱き始めたのか、それとも……。

 私はキッチンに戻り後片付けに取り掛かった。

 フィルターに残る珈琲豆から漂う残り香が再び私の心を温めた。

 目を閉じ鼻先を近づけると、残り香の向こう側に健太君の微笑む顔が思い浮かんだ。

 突としてトクンと心臓が鳴る。

 驚いた私は慌てて首を振った。

 ――何をやっているんだ私は。

「詩織さんには彼が必要なのにね……」

 小さく呟いて、私は自身に帯びた熱を冷ます。

 それにしても、同じことを二人の人物から言われるとは思ってもみなかった。

 彼らが言うに、私はどうも人を信じ過ぎている人間らしい。それから、私はどうやら葵さんから敵視されているらしい。

 健太君も浅田さんも池上葵という人物を同じように捉えていた。彼女に対して同じような危惧を抱いていた。

 それでも、彼女への対処に関しては浅田さんと健太君の意見は違っている。

 浅田さんは関わらずに無視しろと言った。

 健太君は無視しても追いかけてくるので闘うしかないと言った。

 健太君は私を守ると言った。何故に彼がこんな私の為に骨を折ってくれるのかが分からない。確かに彼は弁護士の卵で、人並み以上に正義感が強いところがあるのかもしれないし、目にした事態が許せないのかもしれない。だがそれでも、私にしてくれていることは過分である。

 彼のことが分からない。健太君には私の事、いや、他人のことより、もっと大切にしなければいけないことがある。私などに構っている場合ではない。彼の抱えている問題の方が私のことよりも大きいのだから。

 この日、健太君の心の傷を見た。

 彼の為に何か出来ることはないのだろうかと思うが、このようにバカな私だ。余計なお節介くらいしか思い浮かばないだろう。それに、彼の抱える問題は軽々に他人が口を挟めるようなものでもない。

「せめて、私のことは気にしなくてもいいのよと言ってあげれば良かった」

 ――いや、言うべきだった。

 初めてあの大樹の下で言葉を交わしてから、随分と健太君には救われてきた。それでもう十分だ。

 彼には、彼を心から愛している女の子がいる。そのことはもう誰が見ても瞭然で、だからこそ彼はちゃんと自分の愛情に気付かなくてはならない。

 同情と共感は違う、と浅田さんから教えられた。

 聞いた直後は意味が分からなかった。しかし、今ではもうちゃんと理解している。私の同情は自分本位だった。バカな私でさえ気付けたのだから、そのような心の機微に健太君が気付いていないはずはないだろう。ならば……、

 私は、それは君の愛情なのよ、と心の中に浮かぶ健太君に言った。

 この日の様子を見ていて何となく感じた。彼が恋に不器用であることがよく分かった。

 ――彼の為に私は何が出来るのだろうか……。

 と、再び考えた時、少し胸が苦しくなった。

 何故? 私は首を振る。大きな溜め息が出た。

 今日は疲れた。仕事も上手く行かなかった。健太君の話も重いものだった。

「取りあえず、気分を変えよう!」

 胸につかえた思いを吐き出すように声に出す。とりとめも無いことを深く思い悩んでいるのは性に合わない。何より、相手の感情のことなど私自身にはどうすることも出来ない。

 私は、自分の為に珈琲を入れ直す事にした。

「あの香りがあればきっと大丈夫だ」


 残り時間  134日と23時間21分20秒

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