第26話 おもいの幻影

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 部屋に着くと、健太君は借りてきた猫のように大人しくなった。彫像のように動かなくなった彼を見て、もどかしさを感じた私は、空気を変えるために夕餉の提供を申し出た。

 話を聞いた途端に彼の声が上ずる。

「て、手料理!」

 反応がおかしかった。

「そんな大したものではないわ。パスタは茹でるだけ、ソースはレンジでチンよ」

「あ、いえ、はい」

「それじゃ、私は支度しますね」

 いって健太君にリビングで待つように促す。

「あ、あ、あ、はい」

 健太君の生真面目さを受け取る。迂闊にも敵陣に踏み込んでしまった彼は、すっかりと委縮してしまっているようだった。

 手にする明確なアドバンテージ。私は彼に背を向け食材を手に取りながら、取って食べたりしないわ、と呟きニヤリと笑った。

 自分の顔を見てみたい。きっと私は悪い笑みを浮かべているに違いない。くくく。

 パスタを出し、次にレトルトのミートソースを棚から二つ取り出す。

 買い置きが間に合ったことにホッとしながら大きな鍋をコンロに掛けようとした時、健太君が後ろから、あの……、と声を掛けてきた。

 様子を窺うと、どうにも落ち着かないようだ。そんな彼の手持ち無沙汰の様子を見かねて手伝う事を促すと健太君の顔がパッと明るくなった。

「それでは、まずは手を洗ってきて」

「はい!」

「良い返事です」

「はい!」

「次は、冷蔵庫から適当に野菜を出してくれる? 付け合わせにサラダを作りましょう」

「はい!」

 私の手伝いをしながら健太君は嬉しそうだった。生き生きとして子供みたいに目を輝かせていた。こんな無邪気な顔にもなるんだ、と、これまでとはまた違った一面を発見してしまった。

「菜月さん?」

 急に私の手を止めるように声が掛かった。

「なに? 健太君」

「そんなに塩を入れて大丈夫なんですか?」

「塩? ああ」

 健太君は、私がパスタを茹でるのにじゃんじゃんと塩を鍋にぶち込んでいることに驚いていた。

「パスタはね、こうやって適度に塩を入れて麺に下味をつけるの、これくらいなら大丈夫よ」

「は、はぁ、そうでしたか」

 おいおい、メモしそうな勢いだな。こんなことはあなたの仕事には何の役にもたたないでしょうに。本当に真面目だよね……。

「さてと、これでよし! 健太君、麺は硬め? それとも」

「はい! 何でも、何でもいいです。大丈夫です!」

「……」

 健太君に野菜を洗うように指示して、私はソースの準備に取り掛かる。

 ふと見ると、少しだけ捲り上げられたシャツの袖が濡れていることに気が付いた。

「もう、健太君、袖が濡れちゃってるよ、もう少し上げないと」

 しょうがないわね、といってから、私は徐に健太君のシャツの袖をまくったのだが、

「ご、ごめんなさい! 私……」

 シャツを捲ったそこに大きな傷跡を見つける。

 思わず言葉を失ってしまう。

 聞かなくても分かった。それは詩織さんの母親が亡くなったあの事件の時の傷である。

 

「菜月さんが謝る必要などありませんよ。今のこれは僕が悪い」

 動揺を隠せず沈黙する私に健太君が優しい眼差しを向けてくる。

「で、でも……」

「別に隠していたわけではないんですよ。見た目があれですからね、驚かせちゃってもどうかと思って」

 そういってニコリと笑うと、彼は大きく袖をまくった。

 傷が露わになる。

 目を閉じたくなるような痛々しい傷跡。

 事件の様子が頭に浮かぶ。

 私は詩織さんのことに思い至った。

 あの事件以来、健太君はずっと詩織さんに寄り添っている。

 彼女の気持ちを考えると居た堪れなくなった。

 落ち着きを取り戻していた彼とは違い、私の心は居場所を失った。

 空気が重い。

 胸が締め付けられるような罪悪感に襲われていた。

 困惑していた。詩織さんの知らない所で私は何をしているのだろう。

「ピピピピ……」

 キッチンタイマーに救われる。電子音の無神経さに感謝した。

 けたたましい音に紛れて動く。私は自分の気持ちを次の作業で誤魔化した。

 パスタがゆで上がったその後、二人の口数が無駄に増える事は無かった。

 ささやかに盛り付けられたサラダ。

 柄の違う皿にパスタを載せソースを落とす。

 グラス置いてお茶を注ぐ。

 ――こんなこと、……嬉しそうに、部屋に男を招いて、キッチンに並んで……私はなんて浅はかなのだろう。

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