第24話 あくいの浸食

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 十一月二十一日

 初冬を迎えていた。

 暦が真冬に近付いていくと、日差しもそれなりに物静かになる。それでもこの日は冬の太陽が冷たい空気を暖めてくれていた。

 火曜日の午後のこと。私は、技術部の主任と社長を伴って取引先を訪れていた。開発担当者にお出まし願うのはままある。しかし、役席、ましてや社長を伴って会社訪問をするとなると、それは滅多に無いことである。

 力不足と言われればそれまでだが、私の抱える案件は、単独ではどうにも埒が明かなかった。だから仕方がなく、こうして面子を揃えて出向いてきている。厄介な問題が生じていた。この事態は我が社にとって余り宜しくない状況を示していた。

「いやぁ、うちとしましてもですね、今回のことは本当に申し訳ないと思っているのですよ」

 先方は顧客の立場でありながら頭を下げてきた。

「うちの品質はどこにも負けてない。それはお認めになっているのでしょう? それならばいったい何故、それもこんな急に――」

 浅田さんはここに来てから何度も理由を尋ねていた。彼にしても今回の事はどうにも腑に落ちないといった感じだ。私も同意見だった。

 相手は渋った。仕方がないんだよ、分かってよ、と言うだけで子細を話そうとしなかった。性能に関しては十分に分かっている、価格にも不満はないと話す。それでも、今回だけはどうすることも出来ないので許して欲しいといって困り顔を見せた。

 社長は、口を堅く真一文字にしたまま黙って話を聞いていた。その横で浅田さんの粘りは続く。出来る事は何でもするから、といって相手を説いていた。

 しばらくすると、社長が無言のまま浅田さんの肩にそっと手を置いた。浅田さんがハッとして社長の顔を見る。社長の意に気付いたのだろう、彼は必死の言葉を停止した。

 無理筋の話である。頭を下げて乞うこと以外にやりようがなかった。買えないと、一点張りでこられればもう手は無い。今回は断念せざるを得なかった。ただし先方としても、うちの製品を扱えなくなるのは困ると思っているようなので、今後の事を考えればまだ救いはあった。

 こうして直談判はあえなく終わり三人は帰路に就くことになった。気が付けばもう時は夕暮れ時に差し掛かろうとしていた。

「ほら、嘆いていても仕方ない。大事な事はこれからどうするかってことだ。だから菜月、頼むぞ。こうなったら営業には新規の顧客開拓にもっと力を入れてもらわないとな」

 浅田さんは落胆の色を少しも見せなかった。いつもと変わらない前向きな様子を見る。彼は完全に復調した。事故の影響は見えない。私は安堵しながら、落ち込んでなどいられないわね、と笑顔で相槌を打った。

「しかし何なんだ? 先月から続けて二件だぞ」

 言って浅田さんが首を傾げた。私もそこに同意をする。

 予期せぬ理由なき取り引きの停止。こちらには何の手落ちも無い。理由を伺えば、前の時も、この日も同じ、ともかくしばらくの間は、と、お茶を濁された。

 次々と起きた不可解な出来事。いったい何故こんなことが……。

 浅田さんは、次に頑張れば良いと落ち着いていたが、事はお気楽に容認できる状況ではない。たかが二件だとも言っていられない。損失を計算すれば安易に了承し得ない金額になる。

「ったく、今年もあと少しってところで何でこんな急にバタバタと。これじゃ会社が干上がって正月に餅も買えなくなるじゃねえか」

 浅田さんの冗談に社長が苦笑いを浮かべる。私は呆れていた。まだ十一月なのに何と気の早いことだ。正月の話をするのにはまだ少し早かろうに。しかも、餅も食えないって、その年寄りじみた台詞は何。あなた一体いつの時代の人間なのよ。

「菜月、おい、菜月!」

「あ、はいはい」

「ぼうっとしてんじゃねえぞ、まったくしっかりしてくれよな。あ、そうか分かった。やっぱりお前も――」

「私は、お餅のことなんか考えていませんよ」

 最後まで言われる前に答えてやった。浅田さんは歯を見せ大きな口を開けて笑った。これもまた、いつも通りの明るい笑顔だった。

 ――目の前に、浅田さんの笑顔があるだけで救われる。

 会社の業績は気になるが、浅田さんが、すっかりと元通りに戻ったことが嬉しい。彼が元気ならば大丈夫だ。これでもう、本当に何もかもが元通りになったみたいだ。

「それより菜月、これからどうすんだ?」

「え? どうするって?」

「俺と社長は会社に戻ってちょっと話をするんだけど、お前はもう社に帰ってもやることないんじゃないのか?」

「無い訳ではないわよ。いくらでも仕事はあるもの」

「それでも今日中にって訳でもなんだろ? なら今日はもう帰って良いぞ。ねぇ社長」

「え、でも……」

 思わぬ展開に少し戸惑った。

 浅田さんは一見すると大雑把でガサツに見える。しかしその実は、いつも自分より周囲の者に目を配り気遣いの出来る人であった。

 確認するように社長を見ると、構わないよと、柔らかく頷いた。二人とも私の住まいがここから近い事を知っている。気を使ってくれたのであろう。

 私は幸せ者だ。周囲の者は誰もが人に優しい。人々の温かい気持ちに囲まれ、荒んでいた心は救われた。本当に感謝してもし尽せない。出来る事は何でもしたい。私は少しずつでもいいから皆に恩を返したい。

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