第23話 こもれびの温もり

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 ただひたすらに、室内の静まりを待った。

 そうして……どのくらいの時間が過ぎたのだろうか。

 徐々に羞恥心から解放され、心が落ち着きを取り戻し始めた。

 俯いたまま、それとなく辺りの様子を窺うと、周囲は既に平静を取り戻していた。それでも、室内の意識は詩織を異物と認識したままで、誰もが腫れ物を無いものとして見ているかのように思えた。

 取り囲む冷淡な空気には憐れみや同情の念が混ざり込んでいる。

 ――私のことなど放っておいてよ。

 どうせ私は、と自己否定するのは習慣になっている。好奇の目にさらされることにも慣れている。詩織は無表情のまま顔を上げ、落ちた髪を掻き上げた。

 もういい、もう止めよう、ここには居たくない。

 手を車椅子のハンドリムに掛け、入り口の方を向こうとした。

 直後、浅田の手が逃亡を阻害する。なんだこいつは、と初めは意を図りかねた。目を合わせると彼は無言で首を横に振る。詩織は意地を張って車を操作しようとした。だが男の強い力をどうすることも出来ない。

 そんな二人のやり取りが再び周囲の目を集めた。

 情況が元の木阿弥になってしまった。辟易としながら眉根を寄せて見上げる。彼は真剣な眼差しでこちらを見ていた。

 再び周囲がザワつき始める。詩織は唇を噛む。邪魔しないで、と相手を睨んだ。

 浅田は動かなかった。痛々しい状況を物ともせず、詩織の目の前にある大木は微動だにしない。彼はジッとこちらを見ていた。

 何となく分かった。きっと彼はこちらが何か話すのを待っているのだ。そうして揚げ足を取ってやり込めるつもりなのだ。

 その手には乗るものか。詩織は固く口を結んだ。

 気遣いもなく、知ったふうな顔をして、ズケズケと物を言って怒らせる。こちらがいくら反発しても、侮蔑を含めて睨んでみても、どこ吹く風で受け止めてサラリと流してしまう。相手は屁理屈の天才だ。こんな下らないことに付き合わされるのはゴメンだ。詩織はプイと横を向いた。

「回りのことは気にすんな、お前は、お前がやるべき事をやれば良い」

 無神経な言葉が飛んできた。

 これが限界だった。

 この男には、足が不自由な者への労りも、事件に巻き込まれた者に対する憐れみも、同情もない。今度はもう耐えられないと、詩織の頭の中で何かが弾けた。

「なんなの! なんなのよ! あなたなんて嫌いよ! あっちへ行ってよ!」

 詩織は感情を剥き出しにして怒りをぶちまけた。

 なんで、なんで、なんで、この男は。

 このように無神経な態度を取られたのは初めてだった。

 浅田は詩織を特異な存在として認めない。詩織の境遇に一切の配慮をしなかった。

 ある日突然、可哀そうな人になった。被害者とは聞こえの良い言葉だ。事実、あの事件の日からずっと世間の白い目に晒されて生きてきた。それは耐えがたきことだった。だから逃げた。逃げなければ世界を許容出来ずに心が壊れていただろう。

 押し並べて可哀想な体裁を装う、それが詩織の選んだ人生だった。憐れみや同情、励ましや非難まで、向けられた感情は全て受け流してきた。

 受ける事には慣れていた。それなのに……。

 何で、何で――怒りながら困惑していた。

 為すがまま、ありったけの感情を爆発させている。こんなことは今まで一度も無かった。しかも、幼児のように相手を叩いている。

 浅田は、詩織を嫌がるわけでも見下げるでもなく、ただジッと見つめていた。その顔を見れば、心なしか口元に微笑みさえ浮かべているようにも見える。

 優しい目だった。その目に吸い込まれていく。詩織の怒りが、暴発が全て吸収されていく。

 心から一気に血の気が引いていった。詩織は、自身を俯瞰して見ている錯覚に陥った。――怒っている。私はこんなにも怒っている。……だけど私は、いったい誰に対して、何に対して怒っているのだろうか。

 思えば、浅田から投げかけられる言葉は辛辣なものでも意地悪なものでもなかった。それは、ただの問いかけだった。それを敵意として受け取っていたのは。

 そうか、そうだったのか……。

 詩織は、被害者意識に塗れて卑屈になり殻に閉じこもっていたことに気付く。――貶めていたのは私自身だったのか。

 相手に向けていた敵意が反転する。雪崩を打つように一気に自壊していく心。視界が揺れる。胸が苦しい。

 刹那に支えを失った感覚。体と心がバランスを失う。

 詩織は車椅子の上で崩れた。

「大丈夫か?」

 不意に大きな手に包まれた両肩。

 暗闇の中で、耳に届いた声は温かく優しかった。

 これまで、好奇の目に晒され続けてきた。詩織は目と耳を閉じて生きてきた。

 しかしこの日、意図せず感情を揺さぶられ、心は、大時化おおしけのうねりのように大きな起伏を起こす。悲痛と怒りとの間で心は行き場を失い難破して、そのあげく、漂着した場所で倒れた。だが、そこで最後に降ってきたのは木漏れ日だった。

 この身を受け止め包み込む大樹。

 暖かな日差しが伏していた地を照らす。

 わだかまりを無くした心は白に染まっていた。

 まるで心が軽くなったような……。

 詩織の目から心に溜まったものが溢れるようにして流れ始めた。

「大丈夫だ」

 ――大丈夫? 何言っているの? 大丈夫って? なにが? ……私が?

 浅田が頷く。戸惑う詩織の目の前に大きな手が降ってきた。

「よし」

「……」

 詩織は無意識に浅田竜也の手を取っていた。

 岩のようにゴツゴツした手は大きかった。力強かった。

 乱暴にも思える力を感じるが、そこには確かな温度があった。 

 握られた手に包み込むような圧力を感じた時だった。詩織の身体がふわりと宙に浮いた。初めは、何が起こったのか分からなかった。

 詩織は驚いていた。

 一瞬だけ、ほんの一瞬だけ前方に引っ張られたように感じただけで後は自然に体が動いていた。

 瞬間、時間が止まったように感じてから景色が動き出す。

「立っている。私、立っている」

 その場で大木を見上げる。大木の笑顔は、立ち上がった詩織の目線よりも高かった。それでも以前よりも随分と近付いていた。

「な、大丈夫だろ?」 

 言って浅田が破顔した。

 声を聞いて詩織はハッとする。屈託のない浅田の笑顔を覗き込むようにして見ていた。彼の顔が近くにある事が不思議だった。

 ――この人、こんなに日焼けして黒い顔だったんだ。

 浅田はそのまま詩織の両手を引き、ゆっくりと平行棒へと向かった。

 そっと握らされた平行棒のバーは、ひんやりとしていて心地よかった。

 熱を帯びた体が心地よい場所を探るように平行棒のバーを手繰る。

「じゃあな! しっかりやれよ!」

 背後から柔らかな声が掛かる。

 バーを握ったまま振り向くと、手を振ってリハビリ室から出ていく浅田の背中が見えた。

「あ、あの……」

 何かを言おうとしたのだが、浅田の足は速く引き留めることは出来なかった。

 お礼が言えなかったことを少し残念に思ったが、それでも心の中は妙にスッキリとしていた。

 詩織は平行棒の前で足元を見つめ一度大きく息を吐いた。溜め息ではない。確かに今の目線に違和感はあるが、嫌な気分ではなかった。

 浅田を見送ったあと、リハビリ室のガラス面に残されていたのは微笑む自分の姿だった。世界が変わって見えた。つい先程まで眩しいだけのLEDの光に色を感じた。白い光、こんな色だったのか、と感慨が口から零れたことも不思議だった。

「いやぁ、驚いたねぇ。患者さんを強引に引っ張って立ち上がらせるなんて」

 堀内の弾んだ声が聞こえてきた。おお怖い怖い、と戯けながら、あれがもし自分ならばハラスメントとして訴えられても逆らえないと軽口を言う。

「い、いえ、無理やりとかじゃ――」

 詩織は慌てて否定した。

「へへ、分かってるよ、ずっと見てたからね」

「え?」

「彼がやったのは、君が体を前に浮かせた時に、手を取ってちょこっと引っ張っただけだもん。君は今、自分の意思と力で立ったんだよ」

「私が、自分の力で……」

 自力で立ったんだよ、と説明を受けても実感は出来なかった。

「いやはや、これでは誰が患者で、誰が職員なのか分からなくなるじゃないか、まったく。こっちは一応、患者さんの心理やなんかも勉強してきているプロなんだけどねぇ」

 堀内の言葉は相変わらず軽い調子ではあったが、その言葉には敬服の念が込められているように聞こえていた。

「あ、あの……」

「ん? なんだい詩織ちゃん」

「い、いえ……」

「浅田さんのことかい?」

「え?」

「聞きたいのは、浅田さんがここに来た理由だろ? でもそれは、さっき本人から聞いてたでしょ」

「で、でも、あの人は」

「彼がここにリハビリに来てたのは本当だよ」

「え?」

「もうすぐ二ヶ月になるかな? 交通事故にあって大怪我をしてここに担ぎ込まれてから」

「大怪我って!」

 詩織が驚くと、堀内は浅田の事故の状況を話し始めた。

「本当はいけないんだよ。これは守秘義務違反ってやつなんだからね。でもどうせ詩織ちゃんの耳には入ってしまうだろうからね。って僕が言ってるのか、あははは」

 堀内は大きく口を開けて笑った。

 浅田が話したことは全て本当だった。

 彼は、行動にも言葉にも嘘が無い真っ直ぐな人間。

 詩織は、何故かあの花火の夜に向けられた浅田の厳しい視線と、自分達の前で堂々と菜月のことを好きだと話した彼の顔を思い出した。

「詩織ちゃん?」

「……あ、はい」

「せっかくだ、ちょっと歩いてみようよ」

 堀内の笑顔がそれほど嫌なものではなくなっていた。それでもその日は歩行訓練までは行わずに、決められたリハビリの時間の全てを堀内との会話で過ごしてしまった。

「帰りはどうするんだい? お家に連絡しようか? それともタクシーを呼ぶかい?」

「家の者が、もう迎えに来ていると思います」

「そう、今回はそんなに動いてはいないけど、それでも汗をかいて冷えやすくなっているから体は冷やさないようにね。風邪をひかないように気を付けるんだよ、熱いお風呂に入って、筋肉をゆっくり――」

「堀内さん、私はもう子供ではありません。ですから、後はちゃんと自分で出来ます」

「はいはい、じゃあさ、エントランスまでお連れしますよ。患者様」

 詩織と堀内は顔を合わせて笑った。こんなふうに笑ったのはいつ以来だろうか。

 この嬉しい出来事を一刻も早く健太に知らせたい。たとえ健太との別れを早めることに繋がるとしても構わない。結果は望むところである。

 遂に一歩を踏み出した。詩織は大きく胸を張り顔を上げる。

「忘れ物はないかい?」

「はい、大丈夫です」

 堀内が後ろに回って車椅子を押し出す。鼻歌でも歌うように揚々と部屋から出ようとしたときこと、ふと、壁ガラス越しからこちらを窺うような視線に気付く。目が合うと綺麗な女性が微笑んだ。

 詩織は首を傾げる。すると直ぐに女性は上品な会釈を残して背を向けた。去りゆく姿を見つめながら、誰だっただろうか、と思い出そうとするが一向に思い浮かばない。

「じゃ、行こうか」

「あ、はい」

 帰り道、心なしかいつもとは景色が違って見えた。

 車椅子を走らせながら、迎えの車の到着時間を確認する。詩織はエントランスに掲げられている時計を見た。秒針を目で追う。時間は確かに動いていた。



 残り時間  171日 これは佐藤菜月には関係のない吉田詩織の時計の話である。

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