第22話 もうひとつの大樹

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 十月十七日

 四季は巡る。

 また、秋を迎えた。あの日からもう何度目の秋になるのか。 

 六年前に止まったまま停滞し続ける暮らし。時は全ての人に平等に与えられていると、どこかで聞いたことがあるが、

「……だけど、そんなのは嘘よ」

 身を包む倦怠の中で重い気持ちを吐き出す。心の中に壊れた時計を抱きながら無為に過ぎ去った時間を思った。

 詩織は、この日も一人で病院を訪れていた。

 横目に通り過ぎていくワゴンの中で、カチカチと金属器具が音を立てる。行き交う人々の「おかげんは」と話す声が煩わしい。

 確かにここは人を癒やす場所ではあるが、その活気がいつも鬱陶しくて落ち着かなかった。

 騒々しい空間の中を車椅子は進む。

 ゆっくりと目的の場所まで向かう。

 経過した年月の分だけ知った顔が増えていた。

 知人から掛けられる声はいつもと同じ。相も変わらず労りや気遣いの言葉である。だが、それがどうにも非難されているように聞こえてきて居心地が悪い。

 リハビリ施設の手前で何気なく車椅子を止め窓の外を眺める。真昼であるのに取り巻く世界は薄暗かった。見上げれば日差しを遮っている分厚い雲は重く、曇天は脅迫するように圧迫を与えてくる。

 逃げるように目を逸らし、目的の場所、ガラス張りの壁の向こう側を見る。

 こちらに向かってくる人間を見て溜め息をついた。

 ほどなく、詩織を見付けた作業療法士がリハビリ室から出てきて笑顔を見せた。

「こんにちは、詩織ちゃん」

 いつも明るい堀内の顔を見て、安心が半分、煩わしさ半分のどっち付かずの気分になった。

 卑屈になるのは良くないことだと分かっている。

 ここに来た以上は、やる気だけでも見せなければならない。

 だけど、どうにも気持ちを作ることが出来なかった。

 だから、仕方なく、ありのままに笑顔を作った。

「詩織ちゃん、そんな顔をしないでよ」

 わざとらしく微笑む堀内。内心の暗い部分を見透かされていることに気が付いた。

「ちゃんとしようと思ってたのに……」

 小さく呟き、逃げた心に閉じこもった。

「今日は、健太君は一緒じゃないのかい?」

 あけすけな言葉に詩織は溜め息を返す。

 堀内と菜月の関係は健太に聞いて知っている。堀内の恋人である村山奈々実が、健太の後輩であり弁護士であることも聞いていた。健太がいない理由を堀内が知らないはずはない。

「先生は、司法修習中で忙しいんです。でもそのことは恋人さんに聞いてるんじゃないですか?」

「そうだね、実は知っていました」

 詩織の少し強まった語気を軽く受け止め、堀内は悪戯顔で微笑んだ。

「さぁ、入って、ここに来たからには頑張ってもらわないとね」

「……」

 自動ドアが開く。押される車椅子が滑らかに動いてリハビリ室に入る。前へ前へと車椅子を操作され無理強いされている。

 部屋の空気に圧迫を感じ取ると、詩織の心は嫌々をした。自然と視線が落ちる。無抵抗で進んでいく車椅子とは真逆の感情が湧いてきた。

 これは、自分で決めた事だから逃げたくない。でも……。

 車椅子ではなく部屋の方が動いているように錯覚する。リノリウムの床が流れる様だけを見つめ、詩織はいつもの平行棒のあるスペースへと到着した。そこは詩織の定位置だった。

 やはり、独りのリハビリは、どこか味気なくやる気が起こらない。

 通院は、健太と他愛のない会話をしながら、決められた時間が来るまでを過ごす安らぎの機会だった。でも、今は違う。健太が司法試験に合格したことで、憩いの時間はめっきりと減ってしまった。

 寂しかった。孤独を感じた。動けない自分だけが、ポツリと一人、無機質なこの牢獄に閉じ込められたままで……。

 上の空で目の前にある二本の白い棒を見る。

 また、途轍もなく長い無駄な時間を過ごすのかと思えば気が滅入った。

 無言で俯く詩織に対して堀内は強要しない。ときおり声を掛ける程度に留めて見守ってくれていた。――本当に、退屈な時間だ。

 どうやれば、このやるせない時間を消化出来るのだろう、手持ち無沙汰のまま指遊びしていると、不意に全身が黒い影で覆われた。頭上から太い声が降ってくる。

「こんにちは、吉田詩織さん、だよね?」

 聞き慣れない声に慌てた。見上げると、天井のLED照明が眩しく目に差し込んできた。

 ――誰?

 覆いかぶさる影には大木のような存在感があった。

 思わず細めた目でその大木を睨む。目に入ってきたのは花火大会の夜に菜月の横にいた男だった。

「――あなたは、確か……」

「久しぶり、浅田竜也だよ」

 端的に返ってきた言葉。その男のあまりに堂々した態度に気後れしてしまう。

 詩織は首を振って気を持ち直そうとした。この男は、あの佐藤菜月の男。健太の恋路に待ったを掛けた人物。こんな奴に負けるものかと強い眼差しを向けた。

 けれど浅田は、詩織の敵意など全く意に介さない。

「リハビリに来たんだろ?」

 ぶっきら棒な台詞が耳に届く。

「……」

 心の中で、あなたには関係のない事だと言いながら詩織は返事をしなかった。

「悪い、お前のことは聞いている。その……色々と、あちこちから」

「お、お前!」

 事情を知られているということよりも、気安く呼ばれたことにイラついた。

「あ、ああ、悪い、根がこんななんだ。だから上手く言えない」

 悪びれもせず笑顔を向ける浅田の顔に、気遣いの色は見えていたが、その言葉遣いは始まりと変わらず乱暴で飾りもなかった。

「……」

「口が利けないって訳でもないよな?」

 今度は、声色が少し優しくなったように感じた。

「……」

「あの夜は、あんなに饒舌だったのに、やっぱり高木君がいないとダメなのか?」

 浅田のサラリと乾いたセリフが心に刺さる。痛いところに触れられた気がした。だから反発する。

 睨み上げた。わざわざこの様な所に喧嘩を売るためにやって来たのかと。

 それでも、強い視線を向けるものの、浅田の表情は変わらず穏やかであり、詩織を見つめる眼差しは柔らかかった。

「先生は、今忙しいんです」

「ん? 知ってるよ、司法修習中だろ」

 詩織はハッとした。

 浅田の質問に対する答えがズレていたことに気付くといたたまれなくなった。

 ――何をやってるんだろう、わたし……。

 膝の上で拳を強く握り締める。

 このような事ではダメだと強く思い始めると、詩織の思考が目の前の男を置き去りにして勝手に回り始めた。

 詩織は健太の将来の為に出来ることをすると決めていた。もう健太の重荷にはなりたくないと思っていた。

 一人でも大丈夫なところを健太に見せなくてはいけない。その証明として一人でこのリハビリ室に通っているのだと言い聞かせていた。

 でも……もう無理かも知れない。独りで、こんなところで、と心が折れかける。

 詩織は葛藤を繰り返した。

「先生……」

 声が漏れ出ていた。弱い心が健太を求めていた。そうして為すがまま、健太を焦がれるままに心の内にこもる。

 だけど……、

 心地よき内なる世界をぶち壊すように再び野太い声がノックする。

「やらないのか?」

 男の声の圧力によって現実に引き戻され喪失感を抱く。

 恨みがましく男を見た。そこには場を選ばず空気も読まない浅田の微笑みがあった。嘲笑しているのか、この男は。なんと腹立たしいことだろう。

「やりますよ、その為に来てるんだから!」

 詩織は大きな声で答えた。胸の中に反抗心が芽生えていた。

 それでも、怒気を含んだ詩織の声は浅田を通り抜けていくようであり、まるで手応えがなかった。

「お、やっと声が出てきたな!」

 成す術もない。そんな気分になった。

 浅田が投げかけてくる言葉は装飾も無く短い。なのに、彼の言葉には不思議なリズムがありストレートに詩織の心に入り込んでくる。

 怒りを露わにして反抗しても、相手は向けられた感情を平然と受け止めて、次の言葉を投げてくる。混乱したまま相手の調子に乗せられて主導権を握ることが出来ない。意のままにならない無意味な会話が続いた。

 本当に、なんて煩わしい男なのだろうか。

 健太と詩織の神聖な場所へ唐突に踏み込んで来た男。何故この男は、無神経に私の前をうろついているのか。

「浅田さんは何でこんなところにいるんですか?」

 辛辣な態度。目の前から消えろという意思を込めて浅田に問うた。

「ああ、それな、俺もリハビリなんだ」

 すぐさま答えが返る。浅田が破顔する。底抜けに明るい笑顔を見てますます腹が立った。

「バ、バカにしているんですか!」

「ん? してないよ、別に」

「してるじゃないですか! そんなに元気そうなのに、どこも悪くないのに、どこをどうリハビリするのですか!」

「ああ、元気といえば元気だな。もうほとんど良くなったからな」

 また肩透かしを食らった。いい加減に馬鹿らしくなる。

「……」

「また、黙るのか?」

「放っておいてくれませんか、邪魔なんです」

「そうなのか?」

「はい」

 感情が揺れていた。嫌悪感と怒りがごちゃ混ぜになり、どうして良いのか分からなくなっている。

 今すぐにでも、この場から逃げ出したい。でも行き場はない。詩織は辟易としながら車椅子を操作し浅田に背を向けた。健太との心地よい時間が殊更に恋しい。詩織は健太を求め思い出の中に逃げた。――先生。

 と、そこで再び、図々しい男が言葉を投げかけてきた。

「まだ、やらないのか?」

 逃避しようとして描いた空想が、浅田の言葉によってパチンとはじけ飛んだ。

「なんなんですか! あなたには関係ないでしょう!」

「そうだな」

「歩くことが出来ない私をからかってそんなに楽しいですか?」

「歩けないのか?」

 またデリカシーのない言葉を浴びせられた。

 この様な不毛な事を何度繰り返せばよいのだろうか。

「本当に歩けないのか?」

「うるさい! うるさい! うるさい! うるさい! 何なのよ! 放っておいてよ!」

 ついに怒りが頂点に達する。

 かぶりを振って大きな声で叫ぶと、リハビリ室の空気がザワザワしだした。

 周囲の視線が次々と詩織の元に集まってくる。

 居た堪れなくなり思わず下を向いた。どこかに隠れてしまいたい気分になった。

 ――何なの、何なのよこれ!

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