第15話 じゅんぱくの朝顔
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八月十二日
立秋は過ぎていたが、まだまだ暑い日は続いていた。
昼過ぎに降り出した小雨は直ぐに止み、この後は晴れるという。ならば今夜の花火大会も予定どおり開催されるだろう。
うーん……。
夕暮れ時、雨上がりの空が僅かに薄紫を帯びていた。私は窓の外に黄昏を見て結婚予定日の出来事を思い出した。
――思ったより冷めてたよねぇ、私。
確かに、優斗が結婚予定日に思い出の場所に現れたことには驚いた。でも驚いただけ。その時の私の中には何もなかった。
ほんの一瞬、焼け木杭に何とかという言葉を思い浮かべてしまったのだが、それもどこか他人事のように心に言葉が浮かんだだけのことである。
あのとき彼は、私に近づき、私の名前を呼び、私のことを引き寄せ腕の中に収めた。それでも心は凪いだまま、私は、彼の腕の中で首を傾げていた。
「あなた、身重の奥さんを放って、こんなところで何をしているの?」
諭す語調には何の色気も含まれていなかった。
少しは未練めいた感情が湧いてもよい場面なのに、熱も無く、わだかまりも無い。
あんなに好きだったのに……どうして……。
「いけない、遅れちゃう!」
ハッと思い出す。実際問題が逃避から引き戻した。私は急ぎ風呂敷包みを抱え玄関を出た。
「これ、ほんとに着なきゃいけないのかな……」
実家へと向かう電車の中、膝の上に抱えた風呂敷包みを見ては溜め息を溢した。
視線を落として肩を落とす。それでも、と己を奮起させる。私は幾度もその行為を繰り返した。
今夜は会社の皆と一緒に花火を見に行くのだが……。
私は、谷本さんから半ば無理やり浴衣を押し付けられていた。
浴衣などというものは、高校時代に親にせがんで着せてもらって以来、着た記憶がない。あの頃は和装に憧れもあり、大人びた装いに高揚感も持てた。
しかし今はもう子供ではない。大人っぽいという言葉は子供の専売であり、大人過ぎる私にはもう関係がない。むしろ近頃は、出来ることなら若返ってみたいものだとさえ思う。そう、私は押しも押されもせぬ三十路女。
夫や子供と共に、とか、恋人と、とか、そういうシチュエーションがあれば考えられない訳でも無いが……、それも生憎のことである。今の私は見紛うことのない一人前の独身貴族である。
また溜め息が出た。悩ましい。あの時点でなぜ断らなかったのか。
後悔の言葉ばかりが頭を巡る。だけど、どうしてもこの浴衣を着て参加して欲しいと谷本さんに懇願され、衣装一式を胸に押し込まれれば断れない。
「良く似合ってるわよ」
実家で身支度を済ませた私を見て母が嬉しそうに声をかけてきた。
「いい歳をして浴衣なんか着てって思われないかな。やっぱり断ればよかった」
「あら、何? 昔はあんなにはしゃいでたのに」
「母さん、私もう三十過ぎてるのよ、そんな歳じゃないわ」
「あら、歳なんて関係ないわよ、それにあんたの着ているそれ、柄も良いし、生地もとっても良いものよ。貸して下さった方に感謝しなきゃバチがあたるってもんよ」
母に言われて、紺色の浴衣に描かれた美しい純白の花に目を落とす。
――感謝かぁ……。
谷本さんにも、歳なんか関係ないと言われていたが、やはりどうにも落ち着かない。鏡に映った自分の姿を見て、呆れるような、気恥ずかしさのような何とも言えないむず痒さを感じていた。
「大丈夫、綺麗よ。せっかくなんだから楽しんでらっしゃい」
母の声が明るい。せっかく、とか、楽しんで、とかいう言葉にも含みがある。父が勘違いしていることが、おそらくは母にも伝わっているのだろう。顔を上げると、鏡越しに見る母の顔はどこか嬉しそうだった。口に出さずとも伝わってくる真心。こうして私の背中を押すように触れる母の手から温もりを感じる。何だかんだと気を掛けてくれているのだろう。応援してくれているのだ。
待ち合わせ場所に着くと既に皆が集まり終えていた。
「すみません、お待たせしちゃって」
「おう、菜月ちゃん、来たか!」
山本さんがいつものように張りのある声で迎えてくれた。
「いやぁ、いいわねぇ、やっぱり私の見立てた通りだわ、似合ってるよ菜月ちゃん」
谷本さんが上機嫌でぐるりと回りながら私を見た。
あれ? そういうことだったの? 皆の姿を見て、気恥ずかしい気持ちと不安は払拭された。山本さんも、娘夫婦と子供達も、谷本さんの家族も、社長と奥様までもが皆揃って浴衣姿だった。その情況は私の気持ちを一気に和ませた。
――それと、
「こんばんは、浅田さん」
私は揚々と声を掛けた。心を弾ませたものがそこにはあった。
それは、一同の後ろの方で仏頂面をしている浴衣姿の浅田さん。
「お、おう」
「すごく似合ってるよ浴衣。やっぱり作業着とは雰囲気が違うわね」
「お、おう」
「ん? どうしたんですか?」
「あーあ、こりゃダメだわ。菜月ちゃん、竜矢はね菜月ちゃんの浴衣姿に見惚れてネジが何本も飛んじゃってんだよ」
「おい、しっかりしろよ竜矢ぁ、だらしがねぇなぁ」
山本さんも谷本さんに調子を合わせて浅田さんを揶揄った。
「ちょ、山本さんまで、勘弁してくださいよ、もお」
むくれた後に苦笑を浮かべる。浅田さんは困り果てていた。
「そいじゃ、皆さんお揃いのようだし、ぼちぼち会場へ向かうとするかね」
山本さんが号令をかける。
「あんたも、しっかりやるんだよ!」
谷本さんが浅田さんの背中をポンと叩くと笑い声が湧く。賑やかに川沿いを進む一行、私も皆の背を追って歩き始めた。
行列の最後尾、連れられるように浅田さんと二人並んで歩いていたのだが、その時、ふと彼の着ている浴衣の図柄に目が留まった。
私達の浴衣って、もしかしてお揃い?
男物は少し控えめな柄で一見して解りづらいのだが、紺の生地に白い朝顔の図柄は同じ。これは間違いなく二枚一対で誂えてある。
と、気付けば同時に白朝顔の花言葉を思い出す。……どうやら私は、まんまと谷本さんの策略に嵌められてしまったようだ。抜かりないお膳立てに感心する。並々ならぬ心意気を感じた。
揃いの浴衣を着せた意図は、野暮な者でも容易に想像がつく。それに、このように上等な対の浴衣は、どこにでもあるものではないだろう。おそらく特別に仕立てた大切な一品ではなかろうか。谷本さんは貴重な浴衣を惜しげもなく私と浅田さんのサイズに仕立て直していた。なんと上品で粋な計らいであろうか。ここまでされて悪い気持ちになる者などいないだろう。
谷本さん、あっぱれ。
少し歩くうちに日は暮れ辺りは暗くなった。
向こうまでずっと続く人波。会場までいま少し歩かねばならぬがそれもまたよし。
期待を胸に賑わう人々の中を流される。普段は窮屈に感じる人込みも今夜は違う光景に見えるから不思議だ。
――そういえば、昔はよく行ってたのになぁ。
高校の頃は毎年のように友人達と花火を見に来ていたことを思い出した。
「私、久しぶりなんだよね花火、浅田さんは?」
高揚していたのだろうか。発した声が弾んでいた。
「ああ、俺は毎年来てるよ」
「へえ、そうなんだ」
「花見と一緒だよ、これも会社のレクリエーションみたいなもんだ」
浅田さんが屈託のない笑顔を見せた。
家族のような付き合いをする社員たち。毎年の恒例行事を当たり前のように楽しんできた関係性が少し羨ましくもあり、そこに加われたことが嬉しくもある。
「しかしよう、今年にかぎってなんで浴衣なんだ。落ち着かねえったらねえよ」
浅田さんの愚痴により、谷本さんの計画に参加者全員が協力していたことを知る。
いやはや何とも微笑ましく、可愛らしい大人達である。
と、そこで私は、物はついでと浅田さんに言葉を投げた。
「気付いてました? 私達の浴衣だけお揃いなんですよ」
言うと浅田さんが鳩が豆鉄砲を食ったようになった。
「マジ?」
「はい、マジです」
「あっちゃあ、もう、なにやってくれてんだよ、おばちゃん。俺もなんか変だと思ったんだよ。いきなり浴衣なんか押し付けられて、そんでもってちゃんと着て来いって念を押されて。そうか、そういうことだったのか……」
「大丈夫ですよ、見る人が見ないと一見しては分からないですからね。そこは
「そうなの? んんん……なら、まぁ良いか」
「まぁいい?」
「あ、いやいや、そうじゃなくて、ほら、菜月が嫌じゃないなら俺は構わない、って」
「構わない?」
「あ、や、いや」
「冗談です。私も嫌じゃないですよ。谷本さんの気っ風も何か気持ちいいし」
「ああ、まぁそうだな」
浅田さんも笑顔で私の言葉に賛同した。
ちょうどその時、一発目の花火が打ち上がる。
二人して同時に空を見上げると漆黒の空に鮮やかな光の大輪が咲く。
「おい、竜矢ぁ!」
一つ目の花火が燃え尽きると前の方から声が掛けられた。
「なんですか? 山本さん」
「俺たちは、孫やら何やらいるからさぁ、もうここで見ていくことにするよ、若いもんは動けるだろ、あっちに行けば、夜店やなんやら賑やかなもんもあるし、俺らに気ぃ遣う事ぁないから向こうへ行ってきな!」
山本さんの声は、どうやら谷本さんの作戦の第二弾のようだ。
「え、でも」
「いいから、いいから!」
山本さんは、戸惑いを見せる浅田さんに不器用なウィンクを投げた。その後、屈託の無い笑顔で犬を追い払うように手を振り私達を遠ざけた。
「どうする? 菜月」
「わたしは、どちらでも」
曖昧に返す。心の中では、おい浅田竜也、ここは女に尋ねる場面ではないぞ! とツッコミを入れる。
「わかった、じゃあ、あっちにもっと綺麗に見える場所があるから、そこまで行くか。飲み物やら食い物もあるし、どうせなら賑やかなところへ行こう」
いつになく積極的な台詞を聞いた。
お、どうしたんだ今日は、浅田さんにしては、などと考えていたら、私の右手が急に宙に浮く。予期せず浅田さんが手を繋いできたことに、心の準備が出来ていなくて驚いてしまった。
浅田さんが私の手を強く握りしめて歩く。人を掻き分け前へ前へと進む。
黒い雑踏の中を歩く最中にも花火は上がり続ける。光に照らされる度に凜々しい顔が浮かび上がった。
繋がれた男の人の分厚い手の感触。安心感に包まれながら引かれていく。私は目の前の男にその身を委ねていた。
と、ここで不意にイエローカードのことを思い出す。これも不幸にならされたからであろうか。落ち着かなくなった。カードはいつ出るのか、どこで出るのかと考えると気が気でない。求める安心と抱える不安のちょうど真ん中で私の心はフワフワと寄る辺を失う。
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