第16話 くれないの朝顔

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「着いたぞ、菜月」

 掛けられた声にハッとする。気付ば人込みから少し離れた所に出ていた。

 二人だけの夜空に万華鏡のごとき光の花が咲く。

 右隣を見上げる見ると、そこには嬉しそうに花火を見つめる浅田さんの笑顔があった。

 まるで、子供のようね、と刹那の合間、花火に照らされる彼の横顔を見ていた。すると、弾かれるように繋ぐ手が解かれた。浅田さんは、私の視線に気付くことで我に返り、手をつないでいたことに驚いて手を放してしまったようだ。

「ご、ごめん、菜月、俺、はぐれちゃダメだって思って、つい……」

 浅田さんが苦笑いを浮かべた。

 ――おい、浅田竜矢、そこは謝るところではないし、言い訳もなしだ! と心の中でツッコミを入れる。

「全然大丈夫ですよ、謝らないでください」

 私は性悪を隠しつつ笑みを返した。

 花火は続く。

「すごく綺麗……」

「ああ、そうだな」

 美しい光景に酔いしれながら安堵した。どうやら、イエローカードはもう出ないようだ。

 この時ふと考えた。私は彼のことが好きなのだろうか。

 勿論、好きだと思う。でも、それは恋なのだろうか。

 彼は私のことを……好意は感じている。だけど、それは恋なのだろうか。

 浅田さんは今、何を思いながらこの花火を見ているのだろうか。

 空を見上げながらぼんやりと考えるものの、結論は直ぐに出る。

 顔を見れば分かる。きっと彼は無も考えていないだろう。純粋に花火を楽しんでいるに違いない。今は、それだけでいいじゃないか。

 こうして浅田さんと私は、ほとんど何も語ることなく、時を忘れるようにして夜空を眺めた。色とりどりの鮮やかな光に続く大きな音と空気の震え。次々に打ち上がる花火は、ほんの数秒の間だけ艶やかな姿を見せては消えていく。炎の消える間際の余韻と、打ち上がる度に終わりに近づいていく名残惜しい気持ちが切なさをもたらせた。

 そうして遂に、花火大会はフィナーレを迎える。私は、洗われて軽くなった心に満足感と幸福感を詰め込んだ。

「終わったな」

「うん、終わったね」

 終わってしまったということに、どこか後を引くような物悲しさあった。

「喉が渇いたな、俺、ちょっと行って買ってくるわ、何がいい?」

「ああ、私も行きたい」

 なぜか一人になるのが嫌だった。

「そっか、じゃあ、一緒に行くか」

「うん」

 浅田さんがまた手をつないできた。今度もイエローカードは出なかった。

 夜店の電灯まではまだ少し距離がある。

 私は到着までの道沿いに立つ外灯を数えた。

 ゆっくりとした足取りが時を惜しんでいた。すっかりと流れに身を任せていた。

 なのに、何故……、 

 夜店のライトが辺りを明るくしているところまで辿り着いた時のこと、私達は車椅子を押している健太君と出くわせてしまう。

 健太君と私は、ほぼ同時にお互いのことに気が付いた。

 反射的に動いていた。目が合った瞬間に私は浅田さんの手を放してしまう。

 浅田さんの戸惑う様子が横目にも解る。

 違うの、と思えば、何が? と考える。弁解を、と考えると、何を? と思う。

 なぜこんなにも動揺しているのか、私は為す術もなく立ちすくんでしまった。

「――佐藤菜月さんですよね?」

 混乱する状況下で名前を呼ばれた。私は慌てて声のする方を見た。

「え、ええ、そうです」

「吉田詩織です。以前、病院でお会いしたことがありますが、覚えていらっしゃいますか?」

「ええ、はい、分かります」

 どこか険のある口調。責められているように感じて身を竦めた。

「あんた、確か高木先生のとこの」

 あたふたする私を助けるように、浅田さんが会話に割って入ってきた。

「高木健太です。御社で顧問をさせて頂いている高木の息子です。あなたの会社にも何度かお伺いしています」

「知ってるよ、俺は浅田竜矢だ。あの会社の工場で働いている」

「存じております」

「た、高木君も、花火大会に来てたんだね。私達もね、私達もねって、あれ?」

「失礼ですけど、浅田さんは、佐藤さんの恋人なのですか?」

「えっ?」

 彼女の視線と言葉が胸に刺さった。その時、浅田さんが再び私の手を取った。

「まだ、そんなんじゃねえ、でも、俺は菜月のことが好きだ」

「えっ?」

 浅田さんは真っすぐに健太君の目を見ていた。健太君も応じて見返している。 

「そうですか、まぁでも、お揃いの浴衣を着ているところを見れば、満更でもないといったところでしょうか?」

 詩織さんが口を挟んだ。あたふたする私を蔑むような目で見ていた。

「これは、会社のもんに押し付けられたもので、借りもんだよ。菜月も別に着たくて着てるんじゃねえ」

 浅田さんが視線を移して詩織さんに訳を話す。

 この様な状況でもちゃんと話の筋を通す人柄に感心もしたが、その正直さには少し呆れた。

 ――ん? いやいや、ちょっと待て、待て待て。

 うっかり聞き流してしまいそうになったが、バカ正直云々と考えている場合ではない。今はもっと重大な事があったぞ。確かに今、言ったぞ。浅田さんは私の事を好きだと言った。

 ――しかし何だこのシチュエーションは。

 この緊迫した状況下で、私は詩織さんに敵愾心を向けられている。浅田さんは詩織さんと目を合わせたまま動かない。

 ――何だこの空気は。

 ピリピリとした空気が痛かった。

 どうしたらいいのか。今、私は何をすればいいのか。

「ちょ、ちょっと、浅田さん」

 ともかくと仕切り直す。浅田さんの腕を引いた。

 取りあえずでもここは、自分の事よりもこの場を何とかしなくてはならない。

 ――ああ、告白が……。大切な言葉が、霞んで火事場の中に消えていく……。

 が、その様なことを考えている場合でも無い。

 浅田さんは詩織さんから目を離さなかった。それで仕方なく健太君を見る。彼は黙って下を向いていた。

 少しだけイライラした。なので、なぜ何も言わないのかと強く目で問いかける。

 私の視線に勘づいて彼は顔を上げた。だが、深夜の木々のように静まった彼は何の反応も示さなかった。池上夫妻に見せた凛々しい姿はここには無い。私は意思を見せない健太君に不満を募らせた。

「先生、行きましょう。どうやら私達、お邪魔をしちゃったみたいだし」

 その場の空気に耐えきれなくなったのか、詩織さんがフンと顔を背ける。

 ――先生か……やはり恋人ではないのか。

 彼女を見て、健太君を見る。伏せる瞳はどこか寂しげに曇っていた。

 私は、その瞳を真っすぐに見た。しかし逃げられた。彼は地面を見つめるようにして視線を逸らしてしまった。

 詩織さんに促され彼は車椅子のハンドルを操作した。詩織さんに向けて笑顔を作る健太君は、私には一言も語らずに去ってしまった。見送る背中は何も訴えてはこなかった。


 釈然としない気持ちをその場に残して皆の待つ会社に向かう。帰り道に私は浅田さんに尋ねた。

「もう、なんだって、若い女の子に対して、あんなキツイ眼をむけるのかな」

「……」

「聞いてる? 浅田さん」

「ムカついたんだ。どうしようもなく、あの子、いや、あの子と高木君を見ていたら……」

「え?」

「あれはダメだ。上手く言えないけど俺には分かる」

「そう、なの、かな?」

「高木健太、か……。あいつも近頃少し変わってきたように見えていたんだがな。以前はもっと、何かこう、何もかもを諦めているような目をしてたんだ。それがちっとはマシになってきたのかと思ってたら元に戻ってやがる。でも、それはきっとあの子のせいなんだろう……」

「そうなの?」

「そうだな、勘だがな、きっとそうだ」

「そう、なんだ。それにしても、浅田さんは人の事をよく見てますね」

「目についちまうんだ。俺もそうだったからな」

「え?」

「あ、ああ、なんでもない。俺の事はいいんだ」

「う、うん」

「菜月はさ、前を向いていただろ。あ、ごめん。前の会社を辞めたときの事情ってやつを、その、谷本のおばちゃんから、ちょこっとだけ聞いてた」

「大丈夫よ、隠しても仕方ないことだし、事実だし、それに、もう終わった事だもん」

「それだよ」

「え? 何が?」

「終わらせなきゃダメなんだ。人はいつまでも不幸の中に浸ってちゃダメなんだ」

「……浅田さん」

「不幸なんてもんは大なり小なり誰にでも降りかかる。追い詰められることもあるだろう。でも、私は不幸なんですって顔をしていれば誰かが救ってくれるとか、そんなことはないんだ。もちろん手助けをしてくれる人はいるよ、だけど結局のところ、自分を救えるのは自分だけなんだよ。己で、一人で立ち上がらないと」

 静かに語るその声には説得力があった。

「人生を幸福に導けるのは自分自身、か……確か前にも……」

 誰の言葉だったのか思い出そうとして、思いさせない。私は、そうかもしれないね、と曖昧に相槌を返していた。 

 竹を割ったよう性格で、仲間からも信頼されて一目置かれている浅田さん。少しやんちゃ坊主ではあるが、それも彼の持っている純粋さの一面である。

 普段から底抜けに明るい彼にも暗い影が見えた。人は皆、何かを抱えて生きているのかもしれない。不幸に見えないのは、その人が見せないようにしているからなのだろう。人が人に優しいのも、他者を気遣ったり思いやったり出来るのも、その人が同じような苦しみを乗り越えてきたからこそ出来る事なのかもしれない。


 会社に近づくと外まで賑やかな声が聞こえてきた。

 この日も考えさせられるような事が色々と起こった。

 高木健太の仄暗い瞳の色を思い出す。あのとき彼は何を考えていたのだろうか。車椅子から睨み上げる吉田詩織の怒り目は――あれは嫉妬? なんで?

 そもそも私は彼女の恋敵ではない。それに、あの場での私と浅田さんは恋人のように見えていたはず……。なのになぜ、彼女は、浅田さんに恋人なのかと訪ねたのか。

 詩織さんが健太君に好意を抱いていることは確かだが、彼女の敵意を孕んだ態度にはそれ以上の、何か別の思いが込められていたようにも感じた。……どうして……解らない。

 そう言えば、あの二人はダメだと浅田さんは話した。二人度共々に不幸に浸っていると、彼らの本質を見抜いていた。

 不幸を脱する為の手助けは出来るが、本質的に救う事は出来ないという。しかし、現に私は周囲の人々によって救われていた。私の帰るところにはこのようにちゃんと温かい明かりが灯されている。

 ――私にも何か出来る事はあるだろうか。彼らの為に何か。

 あの二人が抱える苦悩とは何だろう。……もしかすると、彼らの不幸とは、以前に奈々実さんから聞かされた健太君の過去に関係するのだろうか。

 あの事件とは、いったい……彼らに何が。

 手を差し伸べてくれた健太君の為に、私は何が出来るのだろうか。

 心に思い浮かべる様々な考え事に没頭しながら歩いていた。そうして、何気に運ぶ足が皆が待つ明かりの方へ向かおうとしたその時。

「危ない! 菜月!」

 急に肩の辺りに強い衝撃を感じると、私は横へ飛ばされた。

 目の前を強い光が通り過ぎていく。

 衝突音を耳が捉えたのは、傾く視線の先で宙に飛ばされた浅田さんの姿を見た直後だった。

「浅田さん!」急ぎ浅田さんの元に駆け寄る。「浅田さん! 浅田さん! しっかりして! なんで! どうして! 浅田さん」

「よ、良かった。菜月、怪我は、ないみたいだな……」

「なんで! どうして!」

 騒然とする現場――闇夜に回る赤色の回転灯が時々に人々の悲壮を浮かび上がらせる。救急車のサイレンはどこか別の世界で鳴っているように私の耳に届いていた。

 ありえない。こんなことは、あってはならない。

 呆然としてうつむく私が見ていたもの、それは浴衣に描かれた朝顔だった。

 本来は濃紺の生地に白く映えていたはずの純白の朝顔が浅田さんの血によって赤く染め上げられていた。


 残り時間  234日と22時間23分49秒

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