第13話 かなしい雨
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七月三日
午後から降り出した雨が一気に湿度を上げる。しっとりと夜まで降り続いた雨は気温を下げるどころか不快指数を上げた。
地雨が庭園を濡らす。
ガラス越しに見つめる景色は今の心境を映したように重々しかった。
その場に溜め息を一つ残し、
雨模様に漂う既視感。窓辺からの離れぎわ、そういえば六年前の七月も同じようだった、とあの日の記憶を蘇らせてしまう。今年の空梅雨はどこか似ていた。このにわか雨にしてもそうだ。あの事件が起こった夜も同じように蒸し蒸しとした息苦しさがあった。
「お嬢さま、何かお飲み物でもお入れしましょうか?」
詩織の様子を見守っていた家政婦が柔和な笑みを浮かべる。
「うん」
語らずとも伝わってくる心遣い。老いた彼女に余計な心配をかけたくない。彼女の優しい声に応えねばらない。
「大丈夫ですか? どこかご気分でも」
「いいえ、大丈夫ですよ。よく降るなぁって見てただけですから」
詩織は眉根を少し持ち上げ微笑みを返した。
この家政婦との付き合いは長い。家族のように寄り添ってくれる彼女は、十五歳の時に母親を失った詩織にとって最も頼りにできる女性だった。
程なくして湯気だつカップが運ばれてくる。
少し熱めに入れられたカフェオレは、エアコンを効かせた部屋で飲むのにはちょうど良さそう。カップを口元に寄せると、仄かにコーヒーの香りが漂ってきた。
ふう、と一口。ミルク多めに甘みも多め。彼女の入れるカフェオレはいつもと同じ優しい味。――もう子供ではないのだがと自然に笑みが零れていた。
詩織は気持ちが落ち着いていることを確かめた。
先日のこと、照りつける太陽と騒ぐ蝉時雨の中で母の七回忌の法要が執り行われた。六年前に起こったあの事件の記憶は辛くて苦々しい。時を経てどうにか堪えられるようにはなったが、PTSD(心的外傷後ストレス障害)は今も詩織を苦しめている。それでも泣いて日々を過ごしているわけではない。もう……一応の区切りが付けられているといって良いだろう。
だけど彼は……、
命日に母の墓前に花を手向けてくれた健太の顔には影が差しているように見えた。きっと健太は今もまだ暗闇から脱していないのだ。
元より健太に一切の
健太は、未だ己を責め続けている。詩織には解る。
たとえ口に出さずとも、おくびに出さずとも醸し出す空気は語っていた。
彼は決して自分を許さない。あの事件を己の罪として生涯背負ってゆくつもりなのだ。
六年前、詩織と健太の目の前で殺傷事件が起きた。
それは俗にいうストーカー殺人というものだった。
被害者は詩織と詩織の母、そして家庭教師として滞在していた健太だった。
犯人の女は、恋慕の情を募らせていた彼の後輩。
取り調べで彼女は、健太を惑わしている女をこの世から消してしまいたかったと供述していた。
事件の際に詩織は重傷を負い、詩織を庇った健太も右腕を負傷する。
母は殺された。
詩織を庇って傷ついた健太を見た犯人は更に激昂して飛びかかった。その時、母親は詩織を守るように凶刃の前に出て致命傷を負った。
今となれば、昔々の出来事のよう。
詩織は身を切り刻む記憶に封をするようにして生きてきた。この土地に移り、住居も庭も以前とはまるで違うように整えられて当時と同じ景色を見ることもない。そのせいだろうか、近頃は事件を思い出して取り乱すことは少なくなってきていた。
それどころか、近頃は、憤りや、悲しみさえも薄らいできているような気がしている。それが幸せなことなのか不幸なことなのかはまだ解らない。ただ、少しは前向きに生きる事が出来るようになったとは思えている。
――先生、ありがとう。
詩織はそっと目を閉じ、健太の姿を思い浮かべて感謝した。
心の傷も肌に残された傷跡も消えることなど無いが、詩織には傷を癒やしてくれる大きな心の支えがある。詩織の傍にはあの日からずっと健太がいた。彼は何よりも第一にして詩織に寄り添ってくれていた。
愛する彼がいつも側にいてくれる。それは詩織にとって幸福なことだった。
だからといって詩織は健太の行いを愛情であると勘違いしてはいない。
むしろ同情だと解っているし、度々会いに来くることが詩織の為だけでなく、健太が自身に課している何かの為なのだということも理解していた。
それでも詩織は、健太が会いに来てくれている事を申し訳なく思いながら、もう来なくても大丈夫だよ、といって彼を開放してしまうことが出来なかった。卑怯だと思いながらも、どうしても彼を手放せなかった。
――健太は詩織にとって初恋の人だった。
出会いは詩織が中三に進級した春。
二人の関係は家庭教師と生徒。
当時、中学生の詩織にとって大学院生の健太は別世界にいる人間に見えた。健太との間に距離を感じたというのではない。初対面でも父の親友の息子ということで直ぐに親しみを覚えた。何というか……健太は女子中学生の周囲では馴染みのない大人の男性だった、という方が表現としては分かりやすいだろうか。
ともかく、詩織は健太を好意的に迎え、学習の日々をスタートさせた。
今まで接したことのない素敵な男性が目の前に現れた。少女は男性を意識して自然と背伸びをした。
生徒を子供扱いせず、一人の人間として、大人として接してくれた先生。健太の側に居ると、なんだか自分も大人の女性に変身した気分になれた。
健太の授業は分かりやすく、教えの合間に話してくれることも面白かった。褒めてもらえることが嬉しくて一生懸命に勉強した。成績はぐんぐんと伸びていく。詩織は健太の家庭教師の日を心待ちにするようになっていた。
いつしか、高木健太は詩織の目標になり憧れになる。少女の淡い気持ちが恋心に変わることは必然だった。もちろん、あの頃の詩織の恋心は、同年代の女子と一様なもので、それは思春期に拗らせる病のようなものであり胡乱な感情であったかもしれない。
――先生、でもね、私はね。
詩織と健太は、悲劇が起きてから以降、あの頃とは全く別物の時間を二人三脚で重ねていくこととなった。何の皮肉か、あの事件は受験を最後に途切れるはずであった二人の時間を繋ぎ留めた。結果、詩織の想いも時の経過と共に大人になる。少女の想いは、今ではもう熱情を抱く恋心へと成熟していた。
健太のことを心から愛していると断言できる。それでも想いを伝えていないのは恐れたからだ。詩織には分かっていた。抱く思いが独り善がりであることを。長い月日を共に過ごしてきた間柄である。否応なく相手の気心は知れてしまう。自分は未だ健太に愛されてはいない。負い目もあり自信も持てない。だから告白できない。
ある日のこと、詩織は彼の微細な変化に気が付いた。
それは今年の二月のことだった。
健太が身に纏う空気の色がどこか変わったように感じた。以降、彼は日増しに水を与えた樹木のように心に張を取り戻していく。嬉しそうに仕事の話をするようにさえなった。活力を取り戻した健太は、四月に入ると、ずっと放置していた司法試験を受けると言いだした。
受験の話を聞かされたときには、健太が昔の面影を取り戻したように感じられて嬉しくなった。だが……。詩織は、その頃から自身の中に芽生えた相矛盾する感情の間で苦しむこととなる。詩織の心中で葛藤が起こった。――このまま重荷になっていてはいけないのではないか。でも、離れるのは寂しい。
……先生、私はどうすれば。
迷う毎日を過ごす。それでも、日に日に以前の姿を取り戻していく様子を見ることは詩織にとってこの上ない喜びとなっていた。健太が前向きになっていることが自分のことのように嬉しかった。
――ところが、詩織は突如として奈落に落とされる。
詩織は、健太が突然の復活を遂げた理由を知った。
あの日、病院の中庭で見てしまった。
普段ならそこには行かない。リハビリが終える時間を見越して迎えが来るからだ。だが、この日は、予定よりも早くリハビリを切り上げてしまい、時間を持て余してしまった。あげく、その場所に向かってしまった。
詩織は、リハビリが終わるまで健太が中庭で過ごしていることを知っていた。
車椅子は逸る。また呆れられちゃうだろうな、とサボったことを自戒しながら心を弾ませる。リハビリから逃げるのはいつものことで、些末事。詩織は、あれやこれやと言い訳を考えながらもご機嫌で廊下を進んだ。
……だが、
詩織が中庭に着いた時、そこにはすでに先客がいた。
相手が先程リハビリ室の前で会った佐藤菜月だと分かったとき、詩織は反射的に車椅子のハンドリムを動かす手を止めてしまった。
健太の口からは、父親の友人の会社に勤めている女性としか聞かされなかったので、別に気にすることなく声を掛けて近付けばよかったのだが出て行けない。二人が作る空気の中に入っていくのがどうにも怖くて動けなくなってしまった。
この時、詩織の直感は瞬時に感じ取った。この女性が、詩織との
欅の下に零れ落ちる光の中。
彼女に向かって微笑む健太の姿が心に強い痛みをもたらせる。
詩織は、恋の終焉が近づいてきたことを悟った。
一途に健太だけを見てきたのに……。
これだけ長い時を重ねてきたのに、神様は応えてはくれなかった。
――なんでこんな仕打ちを受けねばならないのか。
母を失い、体の自由を失い、大切な時間を失い……こんなにも大きな代償を払ってなお、幸せを掴めないとは……詩織はいっかな地獄から抜け出せない人生を嘆く。
それでも、詩織は抱いていた愛情を憎悪に変えてしまうことを良しとしなかった。
様々な思いが胸の奥からこみ上げる。潤む瞳にハッとする。詩織は堪らず天井を見上げた。そうして、大きくかぶりを振ったあとに、無理やりに感情を抑えつけ祝福の言葉を声にした。
「――よかったね、先生」
詩織は、どうかその恋が実りますように、と天に祈った。
柱の陰で静かに車椅子を反転させた。理屈で心を説き伏せようとしても、心は嫌だと訴える。健太への想いは軽くない。簡単に何も無かったことに出来るわけもない。
詩織は濡れた顔を袖で拭うと、俯き嗚咽を堪えた。膝の上では拳に力が籠もる。
――屋根を打つ雨音、部屋に流れるBGM、受ける手に伝わるカップの温もり、そのような些細なことにも過敏に反応してしまうほど詩織の心は揺れていた。
離れよう、諦めようと、考えれば考えるほど、締め付けられるように胸が痛んだ。
分かっている。これは悩みなどではない、結論は出ている。選べないのは己の執着心の為である。
「お嬢さま、大丈夫でございますか? どこかお具合でも――」
「ううん、大丈夫よ、ありがとう」
幸せになって欲しいと心から願っている。彼にはもう十分に与えてもらった。
もう、独り立ちしなければならない。自分の足で歩かなければいけない。
――これ以上の嘘は、ダメよね。
事実、詩織は医師より独歩が可能であることを聞かされている。
リハビリが進まないのは、車椅子が二人を繋いでくれる絆であるからだ。
詩織には手放すことが出来ない。車椅子が枷になっていることは理解している。
この先もずっと今のような関係が続いていくとは思っていない。
だけど、
いつかは、こうなることが分かっていた。
いや、分かっていなかった。
今、そうしなければいけないことが分かっている。
いや、分かっていない。
そうすることを分からねばならない。
嫌だ、分かりたくない。
心は堂々巡りを繰り返す。
詩織はカップから逃げていく温もりを惜しむように両手で包み込んだ。
「――先生ごめんなさい、わたし、分かってるの。でも、好きなんです……」
一筋の涙が頬を伝った。
雫が冷めたカップを包む手の上に落ちた。
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