第9話 かたられた真相
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優斗の妻と目が合った。
婚約者を奪った女の顔など見たくなかったのだが、こうなってしまえばもう是非も無い。諦めた。この遭遇は憂鬱な出来事ではあるが通り過ぎてしまえばそれまでである。やり過ごそう。
私は四肢に力を込め態勢を整えようとした。
――だが、
優斗の横でニヤリと笑った妻の顔を見て愕然とする。
それは見知った女。優斗の妻は私が辞めた会社にいた女子社員だった。
心を激しく揺さぶられ思考が空回りを始める。なんとかせねばと考えるものの、バランスを失った心と体のどちらを優先的に立て直せばよいのかが分からない。
いやだ、この様な状況には負けたくない。
私は歯を食いしばる。振動によって揺れた余韻を押さえながら虚ろに池上夫妻を見た。
「あら、佐藤元取締役、お久しぶりです」
加藤葵がニコリと笑った。
「ど、どうも、こんにちは、加藤さん、お久しぶりですね」
胸を打つ鼓動は速い。今にも口から心臓が飛び出しそうだった。
「あら、ご存じなくて? それともワザとかしら? 私、今は池上ですのよ」
分かっている。わざと言ったのではない。この場所は産婦人科の前であり二人は一見して夫婦なのだ、見れば分かる。しかし私は優斗の妻がまさか加藤葵だとは思わなかったので動揺してしまっていた。
「佐藤さん? お知り合いですか」
不意に言葉が割り込む。先程までずっと無口だった高木君が何故か絶妙なタイミングでオウンゴールを蹴り込んできた。
高木君を見て池上葵がほくそ笑む瞬間を目にする。
「あら、そちらの方は元取締役さんの新しい恋人ですか? すごい、主人に捨てられたのにもう新しい恋人がいるなんて流石です。本当にステキで下品なことですね」
「お、おい、やめろよ、葵」
「こんなところで会うなんて元取締役も、もしかしておめでたですか?」
「も」という言葉と仕草で、彼女のお腹の中に優斗の子供がいることを知った。
「い、いえ、私はただ、ここを通りかかっただけで……」
「そうでしょうね、もう赤ちゃんがいるなんて、それこそ節操の無いことですもの。それでも、取締役の立場を利用して会社から身内にお金を流用し、借りたままで知らぬ顔をする図々しいあなたのことですから、手あたり次第でついやっちゃったってことはあるのかも? って思ってしまいましたわ」
「……」
私の黒歴史を横にいる高木君に知らしめるように明け透けに語る相手に何も反論できなかった。
私は故意に不正を行った訳では無い。それに、行いに対してはきちんと精算も済ませた。会社には損害を与えていないので、そこまで悪く言われる筋合いは無いはずだが、言い返そうにも、彼女の妊娠を目の当たりにして想像以上にダメージを受けてしまっていた。敗北感が頭の上から重くのしかかる。
「それとも何かしら? 私がここにいることを聞きつけて、もしかしたら夫に会えるかも? とでも思ったのかしら? それってなんて言ったかな……。あ、そうそう恋着、そうね恋着。悪く言えばストーカーさんかしら。アハハハ」
「……」
「お、おい、葵、もういいだろ」
「私、知っていますのよ。元取締役が何度もここに来ていたことを」
「だって、それは――」
「優斗から、貸し付けの話を聞いて、そのことで上手くあなたを始末することが出来てスッキリしていたのに、また嫌がらせのように私たちの前に現れるなんて。まったくあなたって、なんて性根の腐ったしつこい女なのかしら」
「――え、始末?」
耳を疑うような言葉を聞いてしまった。何かが頭をよぎる。
咄嗟に優斗を見ると、彼は視線を逸らせて下を向いた。
「ええそうよ。あなたが邪魔だから父に頼んで追い出してもらったのよ。もっとも、優斗はあなたとは別れたがっていたのだから、そこは勘違いしないでちょうだいね! 結婚させられそうだって泣きついてきたから私がお片付けしただけ」
「そ、そんな、そんなことって!」
「あら、今更なに? 自分は可哀そうって顔をしないでよ。業務上横領、背任行為ってことにならなかっただけ良かったじゃない。あなたは罪に問われるところだったんだから、それを私が助けてあげたのよ」
次々と口から吐き出される言葉は辛辣で散々なものであった。衝撃は大きかった。発せられる一言ごとに心を抉られてしまった。
一方的に
私は揺れる事も許されないサンドバッグのようにパンチが止むまでをひたすらに耐える事しか出来なかった。
――もうダメだ。
受け止めきれずに朦朧とし、いよいよ床に崩れそうになった時だった。思わぬところから援軍が飛び出してきて驚いた。
耳にしたものは想像だにしなかった高木君の声。それは覇気を纏った勇ましい声だった。
「今の話はおかしい! そんなことを佐藤さんは絶対にしない! ありえない!」
私の肩を支えていた高木君の手に力がこもった。その力の強さに更に驚いた。
身を預けたまま振り返り高木君の顔を見ると、彼は別人のように凛々しい表情を見せていた。
――何これ。
や、やばい、これってギャップ萌え? あ、いやいや、今はそんな状況ではなかった。
深い闇へと急降下していた私の心に明かりが差す。私の罪を全力で否定する高木君の言葉によって心はどこか軽くなり、急上昇を開始した。
「あら、いきなり何かしら。やだ、笑っちゃう。ムキになって。正義の味方にでもなったつもり? 気持ち悪い」
「お、おい、もういいだろ、葵、病室に戻ろう」
「放して! 放してよ! 何? なんなの? 私が悪いっていうの。この期に及んで優斗までこの女の味方をするの!」
「ち、違うよ、そんなことない。葵がそんなになっちゃお腹の子供にもよくないから――」
妻の身を案じながら優斗がチラリと私に視線を向けた。
何故か胸が締め付けられるように痛んだ。
「何? なんでそんな目で佐藤菜月を見るの? 佐藤菜月が可哀そうだとでも思ったの? まだ未練でもあるの? 父に会社を助けてもらっておきながら!」
「違うよ、そんなんじゃないよ」
池上夫妻が言い争うのを横目に、高木君が大丈夫ですか、と声を掛けてきた。
彼はいつの間にか守るようにして私の前に立っていた。私はヒステリックに当たり散らす妻の様子を高木君の肩越しに見ていた。
束の間、高木君と葵さんの視線が激しく交錯する。
高木君は一歩も引かなかった。
「まぁ、いいわ、これ以上下品な女と関わるのもお腹の赤ちゃんにも良くないし」
葵さんは私に一瞥をくれた後、下を向いて嫌な感じのする笑みを浮かべながら去っていった。
この時、子供を授かって幸福に満たされているはずの妻の背中から彼女の抱える不安と寂しさを感じ取った。私は、妻の後ろ姿を見送りながら、彼女が自宅から遠くにあるこの病院に入院してきた理由をなんとなく悟った。
そうだ、きっと彼女は私に見せたかったのだ。夫と自分の子供との幸せな姿を。
自然と溜め息が零れる。
わざわざそのようなことをしなくても良いのに。私は敗者であり、あなたは勝者なのだから。
――その日の夜。
熱いシャワーが私を強く叩く。
私は、別れた後もずっと優斗を信じていたことに気付かされた。
私の恋は、どこまでが本当でどこまでが嘘だったのか。
私の身に起きたことは、いったい何だったのか。
分からない。
もう、何も分からない。
「何がいけなかったっていうの……」
若い頃、想うままに恋愛をした。恋人と一緒に会社を作り、二人の居場所で頑張って働いた。そうして結婚の約束をした。
二人の間ではもう決まり事のような結婚ではあったが、それでも優斗からのプロポーズは嬉しかった。二人の幸せは遠い昔から約束された事のように思えていた。
ゴールに思い描いた絵は、純愛を実らせた上での穏やかな景色のはずであった。
だけど、その約束が私だけの思い込みであったことを知った。
「騙してまで、遠ざけたかったの?」
葵さんは言った。優斗は別れたがっていたと。その言葉は何故か嘘には聞こえなかった。
嘘と言えば、この日、もう一つ事実が判明した。
もう終わってしまっていた事ではあるが真実はとても重い。
父が優斗から個人的に借りていたお金が、いつの間にか会社からの借入金になっていたこと。そして、臨時取締役会議の議決が優斗を含めた満場一致で決まったこと。その二つのことの真相が明かされた。
すべては、私の存在を始末するために行われた事だったのだ。
「ダメだ、また人を信じられなくなりそうだ」
ギュッと唇を噛む。
涙は熱いシャワーの中に流されていくが嗚咽までは止められなかった。
これまで、振り返らない、未練もない、負けないという思いが心を支えてきた。
よく耐えてきたと思う。でももう無理だ。気付いてしまった。私は自身に起こった不幸を他人事のように思うことで誤魔化してきただけだったのだ。
今更ながら、こんなにも自分が深く傷ついていたことを知った。
私の恋は本当に死んだ。
「もう男の人のことを信じるなんて出来ないかもしれない……」
失意の底に落ち、消えて無くなりたいと脱力ししゃがみ込んだその時だった。何故だか高木君の姿が脳裏に浮かんだ。
木漏れ日の下で見た儚げな笑顔。それとは真逆の芯の強さを伺わせる凛々しい顔。
彼は、葵さんに向かって強く言い放った。
『そんなことを佐藤さんは絶対にしない! ありえない!』と。
「高木君、あなた、なんでそんなこと強く言えちゃうのよ。私のこと何にも知らないくせに……、私のことを見ていたって言ったけど、こんな私のどこを見て……」
私は再び熱いシャワーに打たれた。
打ち付ける水音は、あの時の葉擦れの音のように苦しみを流してはくれなかった。
残り時間 332日と19時間55分40秒
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