第10話 おとめの自爆

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 六月十日 

 水無月は、しとしと雨が景色を濡らす梅雨どきであるが、今年の六月はすっかり空梅雨が板に付いた様子であり、ここ連日の暑さと日差しはすでに真夏の様相を匂わせていた。

 休日の朝、目が覚めて見上げる実家の天井。

 寝ぼけ眼のまま枕元にあったはずのリモコンを弄り見つけてテレビを入れる。……ぼんやりと、お天気お姉さんの声が聞こえてきた。

 その弾むような声によると、この日の最低気温はすでに二十度を越えており、最高気温は真夏日にもなるという。どうりで暑苦しいわけだ……。

 うつらうつら、意識は未だ布団の中で夢の中、という具合だったが、お天気お姉さんのありがたいお告げに従い、今夜は飲みに出かけようと決めた。


 悪夢のゴールデンウイークから一ヶ月が過ぎていた。

 予期せぬ惨禍。不意を突くように起きた池上夫妻との出来事に少なからず……、

 いや、強がりはやめよう。

 私は痛恨の一撃を喰らってメンタルを崩壊させた。

 勿論のこと恋愛ミッションは棚上げ状態。恋に忌避感さえ抱くようになった私は、以降の一月を無駄に過ごしてしまっていた。――なので当然の如く恋愛ミッションに進展は無い。いや、無いどころか……恋なんかいらない、と、完全に放置していたのが実情であった。……いやいや、あれでよく引き籠もらなかったものだと、むしろ自分を褒めてやりたい。

 恋愛ミッションといえば、半ば自暴自棄になっていた毎日の中にも珍事があった。

 実はこの一ヶ月の間に、三人目の待ち人が現れていたのだ。とはいえ、それは完全なる誤報。新たな通知音にはほとほと呆れてしまった。

 バイブの解除を念じた後に久しぶりに聞いた通知音――『キンコーン♪ 第三待ち人発見しました』は、社長の友人である弁護士の先生が事務所を訪れた時に鳴った。

 はあ!? どういうことぉ?

 通知が知らせた相手は既婚者であり随分と年も離れていた。

 しかも、それが第一待ち人の父親だったものだから……おいおい、このお知らせは、もうどうしようもないな。

 通知といえば、池上夫妻に遭遇したあの時にも届いていたが。

 もっともあの時の通知はバイブの振動だったので、当然ながら音声のガイドもなく、意味は不明。

 あれはいったい何を知らせたのか。

 取説では失恋した相手は対象外だったはずだ。

 ならば何だ? あの場に居たのは池上夫妻と高木健太と私。

 恋愛対象者は高木君のみか……とすれば、あれは高木君に関してのものだったのか……、いや、それにしてはタイミングが妙だ。通知は池上夫妻を見つけたタイミングで届いている。

 と、このように出会いの通知音は信じられない程いい加減だった。 

 ある日突然押しつけられた私のミッションは、そうこうしてますますおかしなものになっていた。私はあんぐりと大いに呆れている。

 そういえばあいつは――いや、妖精さんは、出会った時以来一度も姿を見せていない。一方的に『神様のギフト』とやらをインストールし、強制的に起動させ、後は自力でなんとかしろとは、如何にもいい加減な運営である。もっとユーザー様を大事にしなくてはダメだ。

 不親切な神の使いよ、勝利条件さえ分からぬまま、攻略する術も知らぬままで何をどうしろと? 全く訳が分からない。バカバカしい。

 結論、私は何も考えずに仕事に打ち込むことにした。ミッションに失敗すれば一生恋が出来なくなるというが、それはそれで構わない。


 ところで……、

 もう、というか、遂にというか、私にも六月が巡ってきてしまったわけだが。

 これは私事であるが、実のところ仕事に没頭したい理由がもう一つあった。

 六月に刻まれていく日付は残酷。日めくりは私を蝕む。暦など絶対に意識したくなかったのだが、業務上、カレンダーを見ないわけにはいかなかったのでどうにも逃れられなかった。

 いくら忌避しても逃げられないこと、それは二週間後の六月二十四日の土曜日が、私と優斗との結婚式の予定日だったということ。

 今もこうして休日なのにどこにも行かず、実家でゴロゴロとしながら怠惰をむさぼっているのも一種の逃避である。ジューンブライドを匂わす季節に外出するのはやはり辛い。街を歩けばどうしても正装している人々が目についてしまう。ドレスアップした女性や礼服姿の男性を見ようものなら最悪な気分になる、であろう。

 人はどうしても意識していることに目が行ってしまうものなのだと最近になって気が付いた。人は、無自覚に行動していても無意識に判別してその画像を拾ってしまう。

 それが、好きな事や興味がある事ならば良いのだが、悲しい時、苦しい時にはそのさがは恨めしく思える。

 ぼんやりと、疲弊した心のまま窓辺を眺める。聞こえてくるのは平穏な生活音。

 私の心中を察してか、実家の家族たちは何も聞かず、何も言わずに受け入れてくれている。父も母も、弟も弟のお嫁さんと子供達も、皆が揃って普段通りで優しかった。


 夜の帳が下り始めたので今朝のお告げに従って外に出た。

 紺のジャージを戦闘服とし髪を後ろで一つに括る。

 ずぼらモード全開でいざ戦場へ向かう。

 とにかく飲もう。飲んで、飲んで、飲んで、吐くまで飲んで。

 今夜も実家に泊まるので帰りは心配ない。近所にある居酒屋は父が昔から馴染みにしている店だったので気兼ねも無い。目的の座標は勤務地から遠くはないのだが、土曜日ならば会社の誰かと会う心配もない。

 私は、ないない尽くしの解放感の中で、とにかく飲んでやると息巻いて暖簾のれんをくぐった。

「大将、こんばんはー、とりあえず生一杯! キンキンに冷えたのちょうだい!」

「おお、菜っちゃん、元気いいねー」

「…………え?」

 大将は景気よく迎えてくれたのだが、その笑顔の後方にエネミーを発見してしまう。私は入り口に突っ立ったまま身を固めてしまった。

「なんでだよ」ボソリと呟く。

 すぐさま居酒屋の奥の方に陣取る社長と高木健太の父親の視界から逃れ身を隠す。

「あ、あの……。大将、また今度……」

 小声で話す。事情を察して、と目配せをする。申し訳ないと拝むように手を合わせ及び腰でコソコソと出ていこうとしたのだが……、

 大将はフン! と息巻き、泡がモリモリのジョッキをカウンターにドンと置いて二ッと笑った。

「う、うう……このタヌキ親父め」

「はい、菜っちゃん、いつもの冷や奴と枝豆お待ち!」

「ちょっと、おじちゃん、声が大きいわよ」

「お、こんな時だけ、おじちゃんてなぁ聞いてられねえな、大将と呼びな大将と!」

 大将の大きな声に反応して、周囲に優しい笑い声が沸いた。

 それで観念をする。とりあえず、ずぼら姿のままの自分を、満面の笑みで武装し最大限に愛想を浮かべる。奥に座する社長と高木先生へ向かって頭を下げた。

「仕方ない、一杯だけ飲んで帰ろう……」

 だがしかし!

 間の悪い時には更に状況を悪化させる何かが起こるものだ。所謂あれだ。私は既にフラグを立ててしまっているということだ。

 背の方でガラガラ。入り口の戸が音を立てて開くと、そこに案の定、高木健太の出現。――やはり、こうなるのか。

 とっさに息を殺して知らぬ顔をする。正面で狸親父がニヤリと笑った。

 少し間を置いてからチラリと様子を窺うと父親の方へ向かっていく高木君の背が見えた。よし、気付かれてはいないようだ。

 高木君を伏し目に追って観察する。どうやら彼は何かの用事で社長と父親に呼ばれていたようではあるが、長居はしなさそうである。

 ――ああ、早く帰ってくれないかな……。

 三人の様子を何気なく窺っていたのだが、そこでハッとする。

 ――不味い。今の私は、まんまおっさんだ!

 自分の姿を思い浮かべて焦る。

 すぐに括った髪を解いて顔を隠し、カウンターに突っ伏して横を向き知らぬ顔をした。

 一瞬、口紅だけはとりあえずでも塗っておいてよかったと思ったが、ではそれに一体何の意味があるのかと思い至れば気が気ではなくなってくる。

 大将の後ろにある時計の秒針の音を耳が拾うと、そのカチカチという音が、時限爆弾のカウントダウンのように聞こえてきた。

 不覚にも装備を間違えてしまった。私はセーフティゾーンを見誤った。くっそー、馴染みの店ということで油断したわ。

「ほい! 菜っちゃん二杯目お待ちー!」

 頭上から容赦なく大将の声が降ってきた。

 ――ヤバっ! おい、親父、空気読めや!

「どうしたんだい、菜っちゃん、さっきまでの威勢は何処へ行っちまったんだい」

 容赦ない絨毯爆撃じゅうたんばくげき

 大将の大声が炸裂する。

 抱えていた時限爆弾が誘爆により為す術も無く弾け飛ぶ。

「ちょ、ちょっとおじちゃん、頼んでないわよ!」

 今更ながらも小声で抗議。なれど時既に遅し。私の陣地はもう丸裸である。

 背に視線を集めていることを肌で感じ取る。

 詰んでいる? やっぱり詰みなの? 万事休す? ……だよね、そうだよね。

 まな板の上の鯉になったならば、もう、覚悟を決めねばなるまい。

 私は、ゆっくりと探るように後ろを向いて情況を伺った。

 こちらを見て微笑んでいる高木君が……。

 私は彼と視線を合わせたまま動けなくなった。

 どうする! 取り合えず笑顔を作る! それで何とか!

 ひくひくと顔が引きつっているのが分かった。

「いいじゃねえか、飲んでいきな」

 大将の抑揚のある声を耳にする。見れば大将が歯を見せ悪い笑みを浮かべていた。

 ……まさに傍若無人の振る舞い。

 私は、一気にジョッキを空け、早々の撤退を決めた。

 ――だがしかし、

 させまいと、腹黒の狸親父が本領を発揮して更なる追撃を放つ。

「おい、先生の息子さん! こっちにべっぴんさんがいるから、あんたもここに来て飲んでいきな!」


 それは私がデッドラインを越えた瞬間だった。


 ――くっそー! やられた! この狸親父め!

 窮地に追い込まれ前後にも左右にも動けないというその状況が空転する。

 高木君が近づいてくる気配を感じると居ても立っても居られなくなった。

 彼が至近距離に。

 彼の瞳が私をロックオン。

 そうして、ついに身動きも許されずに干物女は撃墜される。

 む、無念じゃ。さようなら、私のイメージ。

「こんばんは、佐藤さん」

「あ、あ、あ、こんばんは、高木君、き、き、奇遇ですね、あは、あはははは」

 カウンターを独占する女は体裁を取り繕うように背を丸める。自分を出来るだけ小さく見せようとした。

 相対峙する二人。微笑む高木健太と、必死に微笑む佐藤菜月。

 どうする? これ、どうする? 逃げたい、逃げたい、逃げたい。何処かに……泳いでいた目がカウンターの上で止まる。

 私はそこで更に心を凍りつかせるものを見付けた。

 視線の先には猛スピードで空いたジョッキと新しく注がれたジョッキが並んでいた。

 途端に顔が火照る。気持ちがぐるぐると空回りし始めるともう訳が分からくなった。

「若いもんが、何を他人行儀なことやってんだい! そんなのは、うちの店に似合わねえ! お互いに名前で呼びな、名前で! こう、熱ぅく呼び合っちゃいな!」


 トドメの一撃。


「ちょ、おじちゃん、何言ってんのよ!」

 慌てて否定するがしかし。

「はい、わかりました。では、改めまして菜月さん、こんばんは」

 高木君の軽いノリに驚いた。

「あ、あ、あ……。駄目だこの人。もう何が何だか……」

 アップテンポで進む状況に振り回されて放心。

 白旗を揚げ、観念したところでようやく肩から力を抜いて、目の前にいる青年の人柄をあれやこれやと考え合わせる。

 あの大樹の下で見た、静かで透明な空気を纏った青年。

 池上葵に向かって凛とした振る舞いを見せた青年。

 そして、今のように人懐こい笑顔でジョークに応える青年。

 ――何なんだ、この、不思議な人は……。

「大将、僕も生ビールで、それと、菜月さんと同じものに加えて、焼き鳥盛り合わせを」

「おお、いいねぇ、それじゃ俺ぁちょっと支度するからあとは若いもんだけでよろしく!」

 そそくさと場を離れる大将の背中に向けて「狸親父め、覚えていろよ」と悪態をつく。勿論、心の中で。

「菜月さんは、飲める方だったんですね」

「あ、いや、ま、まぁまぁです。あ、い、いや、ほんの少しだけですぅ……」

 嘘だった。嘘をついた。嘘つきになった。

 少し前に飲めない女が可愛いとかなんとか言っていたことを思い出し、今の自分を省みれば余計に恥ずかしくなる。と、同時に、リカバリー不能を悟る。

 私は化粧もせず、ぼさぼさ頭まま、お一人様で居酒屋のカウンターに陣取る女。

 ウエストゴムのパンツにTシャツを着ているだけの如何にもずぼらな女がジョッキを並べて一人で座る姿はまさに……、

 見れば分かる。それはおっさんに最終進化した三十路女のなれの果て。

 気持ちの半分はもう折れていた。矜持など心の中のどこを探しても見つかりはしない。しかし、完全に諦めるしかないと思っているのにどこか諦めきれなかった。

 私は、そんなどん底気分で、探るように高木君の顔色を窺った。

「どうかされましたか?」

 そこに優しい笑顔があった。何故か、また動けなくなった。

 高木君に顔を向けられ目と目を合わせてから長尺の数秒が過ぎる。

「あ、い、いえ……」

 ――ハッ!

 再び、自分がスッピンであったことを思い出し狼狽える。思わず隠すようにして下を向いてしまった。 

 高木君の目の前に醜態をさらしている。何もかもをさらけ出している。終わった。

 私は、落胆していた。

「ん?」

「あ、い、いえ、今日はお化粧もしてなくて……その……不調法をお見せしてしまいまして大変失礼を」

「なんだ、そんなことか、そんなこと気にしないでください。僕はてっきり」

「ん? てっきり?」

「あ、いやいや、なんでもありません」

 高木君が、はにかんだ。

 間髪を入れずキラースマイルが飛んで来る。

 瞬発的に「それは反則だ!」と心の中で叫ぶ、が、全弾が着弾。

 それでも、私は負けじと反骨心を立ち上げた。

 渦巻く爆炎と爆風を堪え、勝ち気を奮い立たせ……立たせた……が、目にする彼の笑顔が、たちまちにその士気をくじく。

 ダメよ、ダメ、負けるな! 負けてなるものか! と 、何故か言い訳をしながら最後の抵抗を試みるも、全身から力が抜けていく。

 ……顔が、熱い。

 終いには、戦線を維持できなくなり、気持ちの収拾が付かなくなってしまっていた。私の心はもう完全に真っ白になった。佐藤菜月三十二歳(まだとりあえず三十一歳だけど)は壊れた。

 ――嫌だ、もう……。

 こうなれば開き直って堂々と好きなだけ飲んでしまおう。

 そもそも何で、こんなにも、自身を良く見せようとしているのか。

 私は鼻息を荒くし、勢いよくジョッキを傾けた。口の中にホップの苦みが広がり、炭酸が喉を爽快に通過する。惨敗を喫した私が思い浮かべていたのは健太君の笑顔であった。

 今、隣を見れば、そこにはきっと健太君の柔和な顔があるのだろう。

 どうせ微笑んでいるのだろう、こんなずぼらな女の醜態を気にも留めず。

 寛容というか……大雑把というか……素朴な……。

 朧気に、くるくると変化する彼の姿を思い浮かべていた。

 ――だから? なんだって言うのよ。

 首を振る。私は負けた。でもそれがどうしたというのだ。

 健太君は、ただの待ち人第一号なだけ。それだけであるし、それ以上はない。

 彼はこれから私の恋人になるわけではない。

 それにだ、私はもう……恋なんて面倒だと思っているではないか。

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