第8話 やさしい音
-8-
父に勘違いをさせてしまった。浅田さんは恋人では無いが親しい友人には違いない。ミッションのことなど気にせず彼を紹介すればよかった。
二人のことを欺いてしまったように感じていた。どこか心苦しい。このまま直ぐに浅田さんの元に戻るのも何だか気が引ける。
エントランスに向かう途中で大樹の枝振りに目が留まる。
あれは、
私は足を止めた。
向こう側の通路を行けば中庭に出る。遠回りになるが、さて……。
私は、少しだけだから、と心の中で謝罪してから大樹の元に向かった。
中庭に着くと一人で大樹を見上げる高木君の姿があった。
キラキラと降り注ぐ木漏れ日を一身に受ける青年。
萌え立つ緑の中で、ポツンと、大きな欅を見上げる透明な存在。
遠くを見るようなその眼差しがどこか物悲しくて儚げだった。
今にも消えて無くなりそうなその立ち姿から、何故か、目が離せなかった。
「ああ、佐藤さん、先程はどうも」
高木君の方から先に声を掛けられてハッとした。
「あ、あ、いえ、こちらこそどうもです」
返した言葉の語尾がおかしくなった。
「あ、あの……、何をしていたのですか?」
訊ねると高木君は「ああ」と言って遠くを見るように上を向いた。
「これが好きなんです」
一呼吸置いて向き直った彼が、私に向けてふんわりと言葉を投げてくる。
見せる微笑みに一瞬ドキリと胸が鳴った。
意図せぬ事に慌ててしまい、……私は、だから、どうすることも出来ずに上を向く。逃げた先には優しさを降らせるようにして濃い緑が広がっていた。
「このサラサラサラっていう葉擦れの音が昔から好きなんです。それに大きな木も大好きで。可笑しいでしょ?」
「い、いえ、そんなことは」
その場しのぎで応えた。
「気を使わなくても大丈夫ですよ」
返ってきた言葉の、物静かで優しいトーンがジワリと心に染みてくるようだ。
悲しみ、淋しさ、嬉しさ、想いを
「い、いえ、今まで葉擦れの音なんて気にしたことがなかったもので。根ががさつなんです」
「そんなことないですよ、あなたは思いやりがあって優しい人だ」
「いやいや、そんなぁ」
「分かります、いつも見てましたから」
「え?」
「あ、ああ、すみません。特に意味はありません! この病院に来られているのをたまにお見掛けしてただけです!」
両手で小さく手を振って狼狽える彼の様子が少しおかしかった。
「大丈夫ですよ、わたしは真に受けて勘違いはしませんから」
彼女のいる彼に安心してもらおうと思ってキッパリと言った。
私は、聞き心地の良い言葉を受けて安易に勘違いするほど若くはない。それに、鈍い方でもないと思っている。
私はもう大人なのだ。相手に気があるかどうかはちゃんと判別できるのだ。
再び茂る緑を見上げる。気が付けば、気持ちが穏やかになっていた。
この感じは何なのだろうと思いながら首を傾げる。
この木から溢れる癒やしの空気のせいであろうか……。
この時ふと思った。葉擦れの音とは、一体どういったものなのだろうか。
私は、大樹の根本まで近づき、彼と同じように上を向き、目を閉じて耳を澄ませた。
――サラサラサラ……
頬を撫でる柔らかな風を受けながらその音を聞いた。
私は
それは心の奥の尖ったモノをなだらかにしてくれるような優しい音だった。
「ほんとだ、気持ちいいですね……」
思わず零れた言葉に、彼は「良かった」と小さな呟きで応えた。
この欅に似た感じだと、なんとなく思った。
なんとも言えぬ穏やかな時間。私は感じ入る。
なのに、次に口から出た言葉はあまり上品なものでは無かった。
「いいんですか、あんな可愛らしい彼女を放っておいてこんなところで」
口をついて出てきた言葉は、先程リハビリ室の前で見た女性と高木君との関係を確かめるようなものだった。何故そのような下世話なことを不用意に話してしまったのかは自分でも理解出来ない。これでも、ちゃんと空気は読める方なのに。
発した言葉を取り消すことも出来ず後悔した。場違いも甚だしい。せっかくの穏やかな雰囲気を私は台無しにしてしまった。
「ああ、彼女は恋人ではありませんよ」
「え?」と溢しながら自分の肩からスッと力が抜けた事が分かった。
「名は、
二人の関係を聞いてホッとしたのだが、すぐさま反応してしまう己の浅はかさに嫌悪感も抱いた。
それでも、無節操にも程があることは承知しているのだが、吉田さんが恋人では無いというのならば確認をせねばと思ってしまう。万が一にも略奪恋愛はごめんだから。
だけどどうしよう。やはり戸惑いがある。
聞くべきか、聞かぬべきかと心は揺れた。
これは恋愛ミッションを抱えている自分だけの都合でしかない。ただの候補者である彼には何の関係も無いことだし、問うたところでどうなるものでもない。
やっぱりやめようか……。
「そ、そうでしたか、じゃ、じゃあ他に恋人がいらっしゃるんですね」
結局は尋ねてしまった。
「え?」
「あ、いえいえ、弁護士さんならそりゃもう寄ってくる女の人って多いのじゃないかなって」
「僕はまだ弁護士じゃありませんから。まだ司法試験に通っていないんですよ。恋人どころではありません」
「は、はぁ、そうでしたか……」
――やべぇ、やってしまった!
「それはそうと、お父さんのお加減はいかがですか?」
「え? ああ、それはもう大丈夫です。来週退院ですから」
引きつる頬を無理に上げ、縋るように彼の言葉に乗った。
「そうですか、それは良かったです。お大事になさってください」
「ありがとうございます」
不味い事をした。凄くデリケートな部分に触れてしまった。思わぬことで要らぬことまで話させてしまった。
顔の強張りが取れない。取り付く島もなかった。ぎこちなく笑顔を作って返事をすることで精一杯であった。
ミッションを気にし過ぎて、自分勝手に探りを入れてしまったことを反省する。私はなんて愚か者なのだろうか。
だがそれでも、私は救われていた。
高木君は、まるで気にすることもなく余裕を見せ、そのまま会話を続けてくれた。
「では、僕はこれで、そろそろ失礼いたします」
高木君が微笑む。
「あ、あたしもちょうど今、帰るところなんです。まぁ方向も同じだし、とりあえず一緒に向かいましょうか」
高木君とともに病院のエントランスへと向かった。
不思議な人だ。帰り道、彼は一言も話さなかったが、息苦しさは感じさせなかった。
一つ目の角を曲がると、産婦人科の病棟に入ってしまった。
こうして二人並んで歩いていると周囲からは夫婦にでも見えるのだろうか。
私もいつか赤ちゃんを産むときが来るのだろうか……。
ぼんやりと自分の未来を想像しているとそこで一組の夫婦と鉢合わせをする。
思わず、「え?」と驚き言葉が零れた。
視線の先に見つけてしまった二人連れ、見紛うことはないそれは、優斗とその妻らしき人物だった。
――なんて日だ。なんでこう何もかもギュッと凝縮されなければいけないの――と、その時。
『ブーーン、ブーーン、ブーーン』
突然、頭の中でバイブが鳴った。
「ひゃ!」堪えきれず声が出た。
これはいけない! バイブの通知は無しだ! 振動は絶対に駄目だ!
思い起こせば確かにあの時、通知音よりバイブの方が音がしなくていいと思ったのだが、いざ震えてみればこれは絶対ダメだと思った。頭の中がブルブルしてこそばゆい。しかも景色まで小刻みに揺れる。
立ち止まり歯を食いしばる。膝から力が抜ける。私は倒れかけた。
――もう、無理です。
だが、私の挙動に驚いた高木君がすかさず後ろに回り体を支えてくれたおかげで踏ん張ることが出来た。
「だ、大丈夫ですか、佐藤さん!」
そのちょっとした騒ぎが優斗に私の存在を知らせ、彼の横にいた妻をも振り向かせてしまう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます