第21話 なみだの訳

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 喫茶室の入り口で立ち止まり耳をすませる。

 カウンターの奥に置かれた古びたレコード盤が、ピアノの協奏曲を奏でていた。木目調で整えられた内装とアンティークを匂わせる什器。室内には病院の機能の一つとは思えないほどの趣があった。 

 穏やかな音色の中で慎ましやかに話す人の声が、どことなく私を落ち着かせる。中程の席について一息つくと、波乱を脱し静まった心が先程の会話を咀嚼し始めた。

 ……見つめるグラスの中で氷が浮いたり沈んだり。

 私は、なぜ、なぜ、と辿り着く宛ても無い問答を繰り返していた。

「菜月! 菜月!」

「……あ、ああ、はい何でしょう」

「ったくもう。考え事にしてはちょっと深刻すぎるんじゃないか? まだ引きずってんのか元カレのこと」

「え? 元カレ? ああ」

「なんだ、違うのか?」

「え、あ、違いますよ。彼のことはもう全く……ってなんで浅田さんが?」

「あ、悪い。実は知ってんだ俺。その……婚約者との経緯も」

 おしゃべりめ、と文句を言いたくもなるが、これも思いやりのなせることだと思えば怒る気にもなれない。それに、私のことを面白おかしく話したわけでもないだろう。

「さっきの会話で、何か気になることでもあったのか? 高木君のことか?」

「浅田さんは、彼らが殺傷事件の当事者と知っていたんですか?」

「いや、知らなかった。事件は知ってたよ。母親が娘を庇って死んで、娘も大怪我をしたって、ニュースじゃえらい騒ぎだったからな。でもまさかあれが高木さんの息子さんの話だったとは」

「そう、ですね。私も驚きました」

「ん? その割には驚いてないな。何だ? 他に何か気になったのか?」

「あ、ええ、まぁ、気になると言えば気になる、かな」

「なんだよ、煮え切らねえな」

「あ、浅田さんこそ、さっきのあれは何ですか!」

「あん? さっきのって?」

「申しますだの、おりますだの、やたらとかしこまってへりくだって、全然いつもの浅田さんじゃなかったですよね」

「いや、いつもの俺だけど?」

 キョトンとした顔でぬけぬけと言いのける。

「違いますぅ、全く違いますぅ!」

 思わずムキになると、受けた浅田さんが大きな声で笑った。

「で、菜月、何が気になったんだ?」

「あ、いえ、それが……」

 私は、父の見舞いの時に池上葵と鉢合わせしたことや、その時の情況、感じたことを包み隠さず全て話した。

「なるほどな、知らないはずの名を、何故か彼女が知っていた、と」

「あ、いえ、でも、健太君は吉田詩織さんの付き添いで、頻繁にここを訪れているようだから、知る機会があるといえばあるんですけどね……」

「そっかぁ、うーん」

 暫くの間、浅田さんは腕組みしたまま何かを考えるようにして天井を見上げた。

「そうだな、やっぱり危ない女だな、あれは」

「危ない?」

「分からないのか? だからお前はバカなんだよ」

「バ、バカって!」

「ああ、ごめんごめん。ともかく菜月はさ、人を信じすぎるんだよ。もっと人をよく見ないとダメだってことさ。あれは危ない奴だ。そんなもん少し話せば分かるじゃないか」

「それで? それでなんですか? 彼女に対してあんな丁寧な接し方をしたのは」

「そうだよ。直ぐにピンときたね。こいつは、この世わが世で育ってきた人間だなって。こりゃ、触らぬ神に祟りなしだなって」

 当たり前じゃないかというような顔をして浅田さんは鼻を鳴らした。

「なぁ菜月、何でか分からないけどさ、お前、敵視されてる気がするんだけど、どうなの? 恨まれることに何か心当たりはないのか?」

「恨まれるって、そんな、なんで私が」

「婚約者を盗られた被害者なのにってか」

「……」

「ごめん、言い方が悪かったな。じゃさ、逆恨みってやつかもな」

「そんなぁ……」

「あの女、頭を下げてはいたけど、そこにはどこか含みがあった様に思う。それに菜月が困った顔になると口元が緩むんだよ。目は笑っていないのに口元だけが笑うんだ。マジに不気味だったよ。あれは、危ないな」

「そんな、大袈裟だよ。それに恨みを買った覚えもないし」

「気を付けた方がいい。自宅から遠いこの病院に、わざわざ入院してくるなんざ、お前に対する当てつけ以外のなにものでもないよ。ここには飛び抜けた名医がいるわけじゃない。切迫した感じも受けなかった。顔色も良かった。あれなら何処ででも産めるさ」

 浅田さんは本当に凄い人だ。初対面の人の様子からそこまで読み取れてしまうものなのかと彼の観察眼には感服した。

「菜月、お前、もうここには来るな」

「え?」

「え、じゃねよ、あの女の思うつぼじゃねぇか」

「でも……」

「あのな菜月、さっきも話したけど、同情って、していて気持ちいいのは自分だけなんだぞ」

「そんな、同情だなんて」

「違うのか? それじゃ菜月は俺の事が好きだからここに来ているのか?」

「え?」

「冗談だよ、分かってるよそんなこと。あのな、贖罪の気持ちか何かわからんけどな、その気持ちが俺を惨めにしているってこと、分かってるか?」

「……」

「だってそうだろ? それでは飛び出した俺は、俺の気持ちはどうなるんだ? 俺は何の為にお前を庇った?」

「それは……」

「お前のことが好きだからか? 違うぞ、俺はあれが菜月でなくても飛び出してる。お前もそういう場面に出くわせば同じことをするだろう? 同じことなんだよ」

「……」

「いいか菜月、自分のせいで誰かが傷ついたとか考えるな。償おうと考えるのも違う。そもそも、悪いのは犯人であってお前じゃない。責任を感じたり、罪の意識を背負ったりって全部、お前の独り善がりなんだ」

「そんな……それじゃ、私はどうしたら」

「俺は、そんな菜月に来てもらっても、ちっとも嬉しくなんかない。俺にもっと胸を張らせてくれよ。お前は自分のことより他人のことを気にするやつだ。だけど分かるよな菜月、何が本当に相手の為になるのか。感傷に浸って償いをしている気分になって、それで相手を傷つけている事だってあるんだ。よく考えてみろ」

「……」

「そういう意味ではあいつもそうだ」

「あいつ?」

「高木健太だよ」

「……健太君」


 ――その日の帰り。

 降りしきる雨の中でバスを待つ。

 もう気にするな、と浅田さんは言った。

 無理やりに納得させられていたが、全て消化出来ていたわけでは無い。それでも私は浅田さんの言う通り、意識を切り替えねばならないように感じていた。

 何が出来るのか。

 今やるべき事は何なのか。

 もう間違えたくはない。少しずつで良いから私は前を向かねばならないのだろう。

 悪いのはひき逃げ犯であって私では無い。確かに一理はある。

 しかし、健太君の場合はどうだろうか。

 あの殺傷事件で、母親は命を落としている。詩織さんは重傷を負い車椅子の生活を余儀なくされた。二人の人生を奪った凶悪事件において、悪いのは当然犯人である。

 言うまでも無い。――だけど、健太君は、きっと。

 浅田さんの言葉によって救われた私とは、明らかに違う。彼の心を解放する者はもうこの世にはいない。

 彼の抱えるものは遥かに重い。私とは比べるべくもない。

 もしも自分が彼と同じ立場なら今と同じ気持ちになれるのだろうか。

 自分は悪くないと思えるのだろうか……。

 雨に打たれる大樹。

 大きく張り出した枝で全ての雨水を受け止める欅。

 重い重いと項垂れながらも必死で雨を受ける大樹は、苦しみながら弱いものを守っている。

 不意に頬を涙が伝う。

 この涙は誰の為の涙なのだろうか。


 残り時間  173日と4時間41分20秒

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