第19話 あめに打たれて

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 十月十五日

 朝からずっと降り続く雨。

 秋入梅あきついりは世界から熱を奪って晩秋の到来を予告するようだった。

 あれから二月が過ぎた。浅田さんに怪我を負わせた車の行方は未だ分からないままで、あの不可解な交通事故は、現在、ひき逃げ事件として捜査されているとう。

 持ち前の優れた運動神経のおかげか、それともただの幸運か。

 事故は彼の今後に大きな不利益をもたらせなかった。それでも、あれは私の不注意が引き起こした出来事。結果は、紙一重で良い方向に振れた巡り合わせでしかない。取り返しのつかない事態になっていた可能性は十二分にある。誰一人として責める者はいなかったが、私は自身を許すことが出来なかった。

 どうして浅田さんなのだろう、私ではなく。

 彼の病室で花を差し替えながら、リハビリの時間で空になったベッドを見つめる。自責と後悔で胸が張り裂けそうだった。

 ――ボツボツと打ち付けるような雨音を聞く。

 横殴りに降りつける雨が激しく窓を叩いていた。

 窓ガラスに映った顔の上を幾筋も流れていく水滴がまるで涙のように見えた。

 私は自らに問うた。それは誰の為の、何の為の涙なのかと。

 愚かね、と空っぽの言葉を吐き出す。

 巻き戻せない時間がもどかしい。悔しかった。何故、あの時ヘッドライトに気付けなかったのか……。

 分かっている。被害者は彼であり私ではない。不運を嘆くのは彼であり私ではない。それでも……勘ぐってしまう。私が、不幸を引き寄せているのではないのかと。

 ふと、合わぬ焦点の向こうにぼんやりと浮かぶシルエットに目が留まる。

 あれは、あの……。

 そよ風をうたって私を包み込んでくれた大樹が俯きながら耐えていた。大樹は、風雨にさらされてもなお、無言で耐え傘を広げていた。今は、誰を守っているのだろうか。

 無意識に差し出された手が窓ガラスに阻まれる。ハッと我に返り首を振る。失笑が口から零れた。時は戻せない、今さら誰かに助けを求めるなど虫が良すぎる話である。これは私がしでかしたことである。だから今は、出来る事を精一杯しなくてはならない。

「また来てたのかぁ」

 背中から聞こえた張りのある声は呆れていた。

「あ、うん」

 ガラス面で笑顔を確認してから振り向くと浅田さんが苦笑を浮かべていた。

「毎日のように、来なくってもいいんだよ。看護師さんもよくやってくれるし、谷本のおばちゃんも来てくれてんだからさぁ」

「あ、でもほら、浅田さんはお家が……」

「ったくもう、おばちゃんにも困ったもんだ」

 余計な事を聞かせやがって、といって笑う。そこにあったのは、からりと晴れた笑顔だった。浅田さんが眩しく見えた。

 どうしてこの人は、あのような辛い過去を背負いながら、何事も無かったように振る舞えるのだろうか。 

 私は、谷本さんから過去の話を聞かされるまで、浅田さんについて何も知らないことに気付いてもいなかった。一人暮らしであることは何となく分かっていたのだが、彼の故郷や家族のことなど、プライベートを一切知らなかった。

 知る機会が無かったといえばそうなのかもしれない。けれど、それだけではない。それは浅田さんが意図して昔話をしなかったせいでもある。

「別に余計な事じゃないですよ」

 どこか取り繕うように話していた。困ったときはお互いさま、と続けたのも誤魔化しだった。その証拠に作り笑いを浮かべている。

 勿論、彼の役に立ちたいという思いは偽りのない自然な気持ちだ。だけど、今はもう一つ別の気持ちが確としてある。

「お互い様、か」

 小さく溢して浅田さんが私を見た。

「そうですよ、お互い様です。それに谷本さんの話は余計な話ばかりでもなかったわ、浅田さんが有名大学の経済学部を卒業していることとか、昔はとっても可愛いらしい男の子だったとか、そういうことも聞けたもの」

「そ・れ・が、余計なことだっつうの」

 いって浅田さんがむくれる。

 彼はいつもと同じように陽気だった。しかしその笑顔は、私に余計な気を遣わせない為だということを既に知ってしまっていた。

「おい菜月、話ついでに言っとくけど、俺の昔話を聞いても可哀そうだとか思わなくていいからな」

「え?」

「ほら、やっぱり思ってた」

「あ、え、いや」

 見透かされて言葉に詰まる。

「あのな菜月、同情してて気持ちいいのは自分だけなんだぞ」

「はぁ……」

「ああ、もういい、もういいよ。それより菜月、せっかく来てくれたんだ。それならこき使ってやる。ちょっと腹が減ったから喫茶室に行ってなんか食おう、手伝え」

 浅田さんはニッと笑った。

「はぁ?」

 思わず言い返してしまった。このとき私は、不意の命令口調だった、とか、珍しく上からの物言いでしかも強引だったから、とか、そんなことを心の中で言い訳にしていた。浅田さんと話をしていると、売り言葉に買い言葉といった具合でいつもの調子に戻ってしまう。 

「……」

「じゃ、行こうか」

 顔を上げるとそこに優しい眼差しがあった。ほら、と肩を叩かれ号令を掛けられてもまだ戸惑っていた。

「ちょと、ちょっと待ってください」

「なんだ?」

「……」

 気持ちが浮ついて次の言葉が出ない。

 ここには償いの為に来ているのだからこんな風に普段通りに振る舞ってはいけない。

「菜月?」

「……い、行くならあれで、あれで行きましょう」

 左右に揺れる視界の中に車椅子を見付け、咄嗟に思いついたことを口に出した。

「はぁ? いらねえよ。これで歩けるんだからさ」

 浅田さんは松葉杖で床をトントンと叩いた。

「せっかく来たのだから使われてあげます」

 ものには言い方がある。でも、自然と口をつく台詞が減らず口になってしまう。ダメだと思っていても浅田さんの前ではこうなってしまう。

 ――違うな。私にそうさせているのは浅田さんの大きな心だ。

「いらねえったらいらねえ、俺は歩ける」

「でも、私もなんだかお腹が減ってきちゃいましたし。松葉杖よりもあっちの方が早いですからね。ささ、早く早く」

 無理強いをした。それ以外の台詞を今は思いつかない。

「ったく、仕方ねえな」

 不満を口にしたが浅田さんは笑顔だった。

 彼につられるようにして私も笑う。笑ったのは、流れに身を任せる事しか出来なかったからだ。

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