第2話 ゆうぐれ時
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四月五日
まだ肌寒さを残す春の夕暮れ。
霧雨に湿る歩道を進む。
ガードレールの向こう側では薄暮を感じた車のライトが濡れた路面をキラキラ輝かせていた。
そう言えば、この様なありきたりな雨の風景を美しいと感じたこともあったな。
私はその場に立ち尽くし憂鬱な気分で路面を見つめた。
現状認識と同時に零れた白い溜め息。
心境が変わると目に映る景色も変わる。
気分は沈む一方だった。
本日は直帰の為に、帰宅の時間はいつもより早く、
……だからいつも以上に時間を持て余してしまう。
悲しいかな、私の日常は仕事以外には特にやることがない。その上に天気も悪い。雨情が余計に心を鬱々とさせてくれる。
私は仕方なしに胸の中の空白を埋めようとして歩いた。
見知らぬ喫茶店に入る。
気の利いたジャズを耳にして。
店主自慢のアールグレイなるものを嗜んで。
だけど……そんな小さな冒険で心が晴れることは無かった。
無為に雑踏を歩いた後、乗客が減る時間を見越して乗った電車はまだ少し込んでいた。時は一向に進まない。
一人の部屋に帰るのがどうにも寂しかった。だから最寄りの駅に到着した後ももう少しだけどこかで時間を潰そうと考えたのだが、それも簡単なことではなかった。
そうこうしているうちに雨は本降りとなる。私はやむなく家路についた。
早足で家路を進む人々に置き去りにされながら雨の中を独り。
結局その日は、遠回りした末に世界から音を消すほどの雨の中を彷徨うことになってしまった。
もうどれくらい時が経っただろうか。
傘を打つ雨音を聞きながら、漫然と自宅マンションへ向かって歩いていると、行き交う車の一台が路肩に
何でこんなことになるんだ、これは何の罰なんだ、私がいったい何をしたというの。
泥と水で汚れた服を見て、気持ちを更に落下させて項垂れる。
と、そこで不運の上にまた悪いことが続く。
これぞまさに弱り目に祟り目。不意に起きたフラッシュバックを受けて身を固める。私は身の上に起きた不幸な出来事を脳裏で再生させてしまった。
――三か月前。
会社から帰宅すると届いていた一通の内容証明。
得てしてその書簡は受け取る側に不穏を思わし緊張をもたらせる。
だが、私にはこのような物を受け取ることに心当たりはないし、何の問題も抱えていなかった。むしろ、この時の私は順風満帆で日々を過ごしていた。
訳も分からずに封を切って中身を見ると、それは勤めている会社からの貸付金請求書だった。私は封書に目を落とし不審に眉を寄せた。
――内容証明の中身は。
『
借金のことについて実は身に覚えが無いわけではなかった。私には思い当たる節があったのだ。しかしそれは父が私の婚約者であった
理由が分からない。
私は、大学を卒業すると直ちに恋人の優斗と、彼の友人数名とで小さな会社を立ち上げた。その思い切った決断は、当時の就職難という時世のせいもあるが、概ね若気による無鉄砲によるものだった。
彼らは皆、持ち得るスキルに自信を持っていた。ただし、私は皆とは違い些か浅慮で、その動機はというと単純に大好きな彼の傍にいて何か手伝いが出来ればという安易なものだった。あの時はまだ子供だった。ダメになったら父の工場を継げばいいと、そんな軽い気持ちで流れに乗ったのだ。
会社設立当初は流石に困難を極めた。それでも職場には活気があり、挫ける者など誰もいなかった。皆が怖いもの知らずでイケイケであった。そして、そんな無謀とも言えた私達の挑戦は徐々に実を結び始める。私達の会社は徐々に軌道に乗り、私は取締役となった。とはいえ役席も名ばかりで、私の実績はというと会社が窮地のときに父から七百万円を借りて会社を救ったことくらいしかない。
借金と言えば、そのときのお金は既に返済されている。
返済時に父は、どんな会社にも苦しいときはあるさと笑って利息は受け取らなかった。
それから数年後ことだ。父の工場が一時的な窮地に立たされたときに、今度はそれを聞きつけた優斗が私財から一千万円の融資をしてくれた。
そのときに彼は確かこう言った。
「これは僕個人のお金だから心配はいらないよ、そしてあのとき、僕らの会社を救ってくれた恩人に恩を返すだけだから、何も気を遣うことはない。もちろんあるとき払いの無利息で構わない。本当は返さなくてもいいくらいだよ。でも、それではお義父さんは納得しないだろう、だから一応貸し付けという形にしておくよ。遠慮は無用さ、お父さんは、僕のお義父になる人なんだから」
優斗のそんな気持ちが嬉しかったことをよく覚えている。
それが何故このようなことになったのか……。
しかも私達は半年後に結婚を控えているというのに。
とにかく一人で考えていても分からない。私はリビングに入るとすぐに優斗へ電話をした。
「――あ、優斗。今日帰ったら、会社から内容証明が届いたんだけど……。これって何? どういうこと?」
「う、うん……。実は……」
受話器の向こう側にいる優斗の反応が、どこか鈍かった。
会話の端々で言葉の歯切れが悪く的を射ない。
何か嫌な感じがした。
「あのお金は優斗のお金なんだよね? そりゃ確かにまだ全然返せてないけど……」
「ごめん、菜月、ごめん。その話なんだけど、なんとかするから、ちょっと待って欲しい――」
結局、どのように問いかけても優斗の口からは何の説明も出ず、待ての一点張りでこのときの会話は終わる。
次の日はいつも通りに出社した。詳しい話は会社ですれば良いと思っていたのだがしかし、これが私の最後の出社となってしまった。
『臨時取締役会議の開催。佐藤菜月取締役への貸付金について……同取締役の相反行為並びに返済不履行について……』
出社直後にオフィスの入り口で目にした掲示板にはこう書かれていた。やはり、優斗から父への融資が私個人の借入金となっていた。
挙げ句に取締役会議で満場一致の決を受けて私は取締役を解任された。借入金についても個人の資産をもって返済することを承諾させられた。
こうして私は会社を去ることになるのだが……身に降りかかった不幸はこれで終わらなかった。
この日から婚約者の優斗との連絡も途絶えてしまい、その二か月後には、彼の結婚を共通の友人から教えられ私は完全な破局を知ることになった。
――雨の中、我が身の不遇を噛み締め悲嘆に暮れる。
今さら起きてしまったことについて嘆いてもどうにもならない。やり直すことなど出来やしない。そんなことはもう分かりきっているが。
……それでも、頭では分かっていたのだが、時折、こうして自傷するように記憶を反芻させてしまう自身のことをどうにかすることは出来なかった。
私は凍えながら息を吐いた。
傍らには手元を離れ地に落ちた傘。
激しく打ち付ける滝のような雨音。
巻き上がる水煙の中で項垂れる。
ずぶ濡れのうえに落ちてくる雨が髪や衣服をどんどんと重くしていった。私は降り注ぐ雨に溺れそうになっていた。
「まけたくない。負けるもんか……」
半ば強引に苦い記憶を強制終了させて言葉を吐き出す。
打ち付ける雨に抗い半歩開いた足に力を込めた。
水しぶきを飛ばしながら濡れた髪を搔き揚げる。
再び、拳を強く握りしめ唇を噛んだ。
と、そんなときだった。
ノイズをまき散らすような土砂降りの雨の中で、私は妙に明るい笑い声を聞いた。
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