第十七話

 明けて月曜日。

 オレと春森は咲子先生の病院に行った。



「アナタの前には壁があります。その壁を超えない限り、アナタは前に進むことができません――どうしますか?」

「進みます」

「どうやって?」

「ロープかなにかを使って、よじ登って進みます」

「じゃあ、こうしましょう。壁には無数のトゲと、壁のてっぺんにはネズミ返しのようなものが施されていてよじ登れません」

「…………」

「アナタはどうしますか?」



 いま行っているのは、催眠療法というヤツだ。

 春森はリクライニングチェアに座らされた状態で暗示を掛けられている。

 先生が曰く、『暗示療法』という特定の条件下での春森の行動から不安な感情などを取り除く治療を試しているらしい。


 ……とはいえ、こういうのはあまり気が進まないみたい。


 普段、咲子先生は内科と心療内科の二つを掛け持ちしている。

 それだけに患者さんとの対話を大切にしているそうで、無理矢理催眠術に掛けてなにかを引き出したり、安心させたりという施術はしたくないそうだ。

 でも、透明人間は話が違う――。

 病気なのか、体質なのか、はたまた魔法なのか、それすらもわからないまま治療を続けている。

 だから、春森の心がなんらかの影響を及ぼしているのならば、まずそれを取り除くことを優先するという話だった。



「終わったわよ」



 唐突に咲子先生に話しかけられた。

 気が付けば、いつのまにか暗示は解けていて、春森はいつもの春森に戻っていた。ただ、まだ意識が混沌としているみたいで、半身を起こしてボーッとしている。

 オレは、事務机でカルテを記録する咲子先生に様子を訊ねた。



「お疲れ様です。なにかわかりましたか?」

「……そうね。結論から言えば、いちずちゃんの精神にはなんらかの『不安』があるってことは間違いないわね。なんらかのストレスを加えた状態で壁を越えさせようとすると、反発してスゴく拒絶するの」

「つまり?」

「心身症に陥りやすいってことよ。そこから発展して、身体が透明化するようになっているのだとしたら、原因を突き止めることができるかもしれないわ」

「じゃあ、治るんですねっ!?」

「まだ原因も特定できていないのに、その結論は時期尚早よ。一応、原因とおぼしき不安については、本人に安心を与えることで緩和させてみたけれども」

「そうですか……」

「誠一君、アナタが焦ってどうするの? いちずちゃんをしっかり支えてあげないと、また透明人間になってしまうわよ」

「ですね……気をつけないと」



 などと話していると、春森が靴を履いて戻ってきた。

 そして、衣服を整えて右隣の席に座る。



「お待たせしました」

「お帰りなさい。さて、今日の診察はこれで終わりね」

「あの、私なにか変なこと言いました? 催眠術に掛かっていたせいもあって、よく覚えてなくて」

「心配しないで、いちずちゃん。今日はアナタが不安に思っていることを心を解きほぐして聞いてみようと思っただけだから、変なことは質問してないわ」

「そうですか。それならいいんです」



 うーん、さすがプロ……と言いたいところだけど、ひとつ疑問がある。それは、なんでこんなに真剣に見てくれるんだろうってことだ。

 やっぱり、その疑問はどうしても拭いきれない。他の病院じゃ冗談だと思われて追い返されたのに、そこだけは納得がいかないよ。

 オレは気になって、咲子先生に聞いてみることにした。



「あの、先生」

「なにかしら?」

「どうして、信じてくれるんです? こんな荒唐無稽な話」



 唐突な質問に咲子先生がイスを回して体勢を変える。

 向き直ったのは、事務机の方だ――。

 そこになにがあるのかと見ていると、突然隅にあった写真立てを手に持ち始めた。そして、その写真を俺たちの前に差し出してきたのだ。

 そこに映っていたもの――にこやかに笑う2人の女子高生。



 ……ひとりは咲子先生? いまより幼い感じがするけど、顔立ちや雰囲気はそのままだ。それなら、もう1人の女子は?



 その疑問は、すぐに咲子先生から明かされた。



「私ね、昔同じような体質になった親友がいたの」



 とっさに話された衝撃の事実――。

 まさか春森以外にも透明化できる人間がいたなんて……。

 しかも、咲子先生はその人の親友? ってことは、もしかしたらオレみたいな立場にいたんじゃ?



「え? じゃ、じゃあ先生も……」

「そうよ。いまのアナタと同じ立場にいたのよ」

「信じられません。まさか先生がオレと同じ立場だったなんて」

「驚いてもらって結構よ。そもそも透明化できる人間がいるだなんて誰が信じるの?」

「……そうですよね」



 そうか。

 先生は経験者だったから真面目に診察してくれたのか。そう考えると、咲子先生の最初の反応に納得がいく。



「彼女の名前は、ひのざきその――。中高と共に学生時代を過ごした友人だった。とても絵を描くことが好きで将来は画家を目指していたの」

「その日御碕さんが透明人間に……?」

「ええ、なったのよ。それは丁度いちずちゃんと同じくらいの年の頃だったかしら? あるときを境に園花が絵を描かなくなったことがあって」

「それで先生はどうしたんですか」

「もちろん、聞いたわよ。『なにがあったの?』って」

「…………」

「でも、園花はすぐには答えなかった。むしろ、意固地になって私に話そうともしなかったのよ」

「それから、どうなったんです?」

「どうにか和解にこぎ着けて、すべてを知ったときには手遅れだったわ。彼女は何かしら心が不安定な状態に陥ったときに透明化してしまう状態にあった」

「じゃあ、筆を握ることも……」

「――できなかったでしょうね。そのことが悔しかったんだと思う。どうして彼女がそうなったかはいまとなってはわからない。でも、彼女と同じように苦しんでいる人がいるなら助けたいと思って医者になったの」

「それが心療内科医になった理由ですか?」

「ええ、そうよ……。身体で異変が起きていないなら、心に異変が起きている――そう感じたからこそ心療内科になったの」

「そうだったんですか」



 先生も苦しい思いをしたんだな。

 そのことを考えると、オレもいまをガンバらなきゃいけない……って、そういえば園花さんはその後どうなったんだ?

 オレはそれが気になっちまった。



「あの、日御碕さんはその後……?」

「消えたわ」

「えっ!?」



 き、消えた……?

 いったいどういうことなんだ? もし、今後春森に何かあるとしたら、それは同じ運命をたどるってことじゃないか。



「消えたって、どういう意味ですか?」

「言葉通りよ。当時の私には治療方法も、治療する当てもなく、友人が声の1つも届かずに完全な透明人間と化してしまうのを見届けるしかなかったのよ」

「じゃあ、日御碕さんの行方は……?」

「わからない。もし、本当に消えてしまったんだとしたら、食事もなにもかもは取れなかったはず」

「ってことは、つまり――」



 あとは言うまでもなかった。

 事実上の死――。

 これをどう解釈すべきかは悩むところではあるけれど、完全な透明人間となった人間が行き着く先はこれしかないんじゃ無いだろうか。

 物質にも触れられない。

 誰かに声も掛けられない。

 こんなことが起こりうるなら、完全に透明人間と化した人は……。



「うっ……」



 刹那、急に隣でなにかが呻き声を上げる。

 その声は、もちろん春森のもので、オレが振り向いた時にはうつむいた状態で上気していた。



「春森!? どうしたの?」



 過呼吸だ。

 あきらかに春森は苦しそう……と思ったのも束の間、春森はフッとイスをひっくり返して、そのまま倒れてしまった。



「春森! 起きてよっ、春森!!」


 ……オレのせいだ。


 オレが先生の話を聞かなかったら、今頃春森は……そう思うと悔やみきれない。



「半井さん! すぐに救急車を呼んで」



 その後、春森がどうなったかは言うまでもない。咲子先生が救急車を呼んで、大きな病院で診てもらうこととなった。

 でも、その対応は従来通り――。

 透明人間になれるなんて、誰も信じてくれやしない。オレたちの前途多難な日常はまだまだ続きそうだ。

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