デボラの怒り
デボラは悠々と大地を闊歩していた。
人間達を蹴散らした彼 ― 雄かどうかは不明だが ― は、散歩をするようにゆっくりと地上を練り歩く。時折ビルをハサミで突いて破壊したり、小学校を踏み潰したり、一軒家を尾っぽで吹っ飛ばしたり……何も考えていないような、自由な移動を繰り返すばかり。警戒心も何もない。
そんな彼の前に、彼からするととても小さなものが落ちてきた。
彼は小さなものに対し、何もしなかった。いや、何かする暇もなかったというのが正しいだろう。
落ちてきたものの名前はB83……アメリカが保有する水素爆弾の一つ。その出力はTNT換算で約千二百キロトン。広島に落とされたものの八十倍に達する代物だ。
超音速のミサイルと共にアメリカから飛んできた水爆は、なんの問題もなくその機能を発揮した。内部に設置された『原爆』が起動し、そのエネルギーが本命である重水素を圧縮。核融合反応を生じさせ、膨大な熱エネルギーを生み出す。
生成された熱は爆風となって辺りに吹き荒れる。中心部は四億度にも到達し、あらゆるものをプラズマ化させていった。
デボラは、その直撃を受けた。
【ギイイイイイイイイイイイッ!?】
デボラは悲鳴染みた叫びを上げた。されど核兵器の爆風が奏でる破滅の音色の方が、デボラの叫びよりも遙かに大きい。打ち付けられる熱波に、デボラの甲殻は溶けていく。
しかしデボラの身が完全に砕ける事は、なかった。
熱波を浴びたデボラの身体は、激しく機能を増幅させた。溶けて剥がれていく甲殻は剥がれる側から再生し、身を守る新たな盾となる。砕けた目も、折れた触覚も、瞬く間もなく元に戻った。吹き飛んだ足だって即座に生えてくるため、バランスを崩して倒れ伏す事すらない。
熱波は一秒と経たずにピークを越え、減衰する。数秒後には周辺には爆風が吹き荒れ、コンクリート製の建物を藁の家かの如く破壊していった。人間にとっては死を招く嵐は、ミサイルの直撃にもビクともしないデボラにとってはそよ風。甲殻をも溶かす熱は一瞬で下がり、
核の炎が晴れた時、デボラは攻撃前と変わらぬ姿を人間達に見せた。
存分に熱を受けた身体に傷はない。神の炎を受けてなお、その身は現世に留まり続ける。人智を嘲笑うかのように。
されどデボラは人を嘲笑わない。
代わりに、怒る。
デボラは激しく怒った。如何に再生しようとも、目が抉られ、殻を剥がされたのだ。とても痛かったに違いない。
人は理性で怒りを抑える。されど甲殻類である彼は理性を有するのか? 有していたところで、ちっぽけな虫けらの命にどれだけの関心を向けるのか?
デボラは答えを示した。
頭部の先より放たれる、瞬間的に加熱され、膨張した空気の波動。鋼鉄の塊さえも打ち砕く爆風は、周辺の大地を吹き飛ばす。自分を痛め付けてきた虫けらを、一匹残らず吹き飛ばすために。
照射される空気の波動は、途切れる事を知らない。今のデボラの身体には、デボラの身体さえも吹き飛ばさんとした熱エネルギーが溜まっているのだ。どれだけ撃とうと、どれだけ怖そうと、デボラの力は止まらない。
自分の周りを更地にしても、デボラの怒りは収まらなかった。デボラは周りに壊せるものがなくなった事を理解すると、そのまま北上を開始。市街地を破壊しながら、どんどん北上していく。
日本と米国は、勿論彼の進行を黙して受け入れはしなかった。総力戦ではあったが、面積的に運び込めない分、時間的に間に合わなかった分の戦力はまだ残っている。核兵器が直撃したのだ。耐えてはいるが辛うじての筈であり、このまま攻め込めば倒せるに違いない……そんな想いもあっただろう。
しかしデボラは弱るどころか、活力に満ちていた。溢れるパワーを持て余し、沸き立つ怒りに突き動かされていた。
人類とて奮闘はした。二度目の核兵器が発射されなかったのは、日本の『科学者』がデボラの生態を解明したお陰である。熱攻撃は効果が薄いため、戦車砲と地中貫通弾による攻撃を主体とした。
されど人類の攻撃は、デボラの怒りを買っただけだった。デボラは人類の抵抗を一息で吹き飛ばすと四国の海を渡り、関西に上陸。大阪を焦土に変え、京都を薙ぎ払い、滋賀を踏み潰していく。四国から遠く離れていた関西圏の人々は、自動車よりも遙かに速い速度で接近するデボラからの避難が間に合わなかった。何十万、何百万という命が、加熱された大気の暴風により吹き飛ばされていった。
関西を越えれば、いよいよ関東である。デボラの進行は止まらず、大都市を巨体が突き進む。都市が抱える莫大な人口は、急速に接近する驚異など想定していない。逃げる人々で交通網は麻痺し、混乱から暴動が生じた。暴動は自分達が逃げるのに必要な交通機関を破壊し、自らその逃げ道を塞いでしまう。
都市は棺桶となり、デボラはその上を移動した。暴れ回り、何もかも破壊していった。関東の大都市を踏み潰したデボラは、やがて東北へと到達。そこでも町を幾つか踏み潰し……四日ほど暴れた後、ようやく怒りが収まったのだろう。不意に動きを止めると、そそくさと太平洋に戻っていった。それは誰もが祈り、待ち望んでいた瞬間だったが、日本の何処からも歓声は上がらなかった。
東京より避難した『政府』は、ただちにデボラ被害の大きさを調べた。大凡の規模が判明するまでではあるが、あまり時間は掛からなかった。調べる場所全てが、破壊されていたのだから。
三度目の上陸後、デボラが横断した距離は約九百キロ。
デボラは、その道中にあるものを手当たり次第に破壊した。例外などなく、躊躇いなどなく、あらゆるものを灰燼へと変えた。もう世界の最先端を進む都市もなければ、世界最高品質の製品を作り出した工場もない。全てが瓦礫の山となり失われた。
日本は、デボラという生命体に破壊された。何百万という命が失われ、何千万といえ人々が悲しみと不安に襲われた。
だが、これは始まりに過ぎない。
日本の崩壊。
アメリカの敗北。
世界経済への波及。
世界の警察の威信低下。
大国の覇権争い。
そしてデボラ。
複雑に絡み合う因子が、世界を変えていく。
それは誰が望んだ事なのか、
望み通りになったのか、
何が起きるのか。
……誰一人として知らぬまま。
後に『終末の始まり』と称される年の、最初の一月はこれにて終わり。
次は、『智慧の失墜』とされる十年後の話である。
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