2039年

及川蘭子の調査

「例のものは、あの建物の下にあるようです」

 一人の黒人男性が、遠くを指差した。

 男の名はアラン。細身で、優しい顔立ちをした青年だ。歳は二十五歳と自称している。

 そんな彼を『助手』として雇っている蘭子は、彼の指が示す先を見つめる。もうすぐ五十になる筈の身体は、まるで三十代の、熟れと若さを両立したような美貌を保っていた。とはいえ目や耳は流石に衰えており、昔なら簡単に見えたであろう距離のそれを、目を細めてじっくり凝視せねば分からなかった。

 アランが指差した先にあったのは、廃墟と化した住宅地の真ん中に建つ教会だった。宗教にはさして詳しくない蘭子であるが、見た目からして西洋風の代物だろうと推測する。

 遠目からだと少し分かり辛いが……どうやら教会はなんらかの攻撃を受けたようで、壁面などの崩落が確認出来た。柱は大きく欠けており、少し大きな地震が起きればそのまま崩れてしまいそうに見える。

 そうした傷跡はどれもあまり高くない、精々人の腕が届く程度の位置に出来ていた。空爆やロケットランチャーなどの兵器ではなく、人力により破壊が行われたものだと分かる。

 即ちこの教会は、大勢の一般人から襲撃を受けたのだ。

「随分思いっきりやられたわねぇ。偶々見付けただけなのに、同情するわ」

「いえ、実際には見付けてからもう何十年も経ってるそうです。教会の神父が、所謂原理主義者でして。聖書にこのような魔物を記した記述はない。だから『アレ』は悪魔の誘惑だって言って、上に教会をぶっ建てたそうです。悪魔を封じるために」

「前言撤回。万死に値するわ、その神父。いや、ほんとマジで取り返しの付かない事してくれちゃってるじゃない……」

 大きなため息を吐きながら、蘭子は項垂れた。

 蘭子はまだ、あの教会の下に眠るものの『実物』を見ていない。しかし送られた画像データと資料が正しければ……神父のした事が如何に愚かしいかが分かる。

 もしも神父が隠さず、壁画を公表していたなら、今の世界もほんの少しはマシになったかも知れないのに。

 とはいえ過ぎた事を気にしても仕方ない。万死に値する神父は、実際とある連中・・・・・が暴行を加えた結果、本当に死んだと聞く。死者に鞭を打つのは、蘭子の趣味ではないのだ。

「ま、今更批難しても無駄だし、気持ちを切り替えましょ。案内、お願いするわ」

「分かりました。こちらに来てください」

 先導するアランの後を追い、蘭子は目の前の教会に足を踏み入れる。

 中へと入れば、すぐに礼拝堂が蘭子達を出迎えた。しかしながら此処で神に祈るのは少々難しい。

 何しろ内部もまた、酷く破壊されていたからだ。椅子や壁が内側から破壊され、焦げ跡などもちらほら見られる。床には瓦礫やガラス……それと黒ずんで固まっているが、なんらかの『生物』の体液……などが散らばり、足の踏み場もない。

 尤も、足の踏み場云々は根性の問題だ。アランは瓦礫を踏み越え、蘭子も同じく瓦礫と体液の跡を踏んでいく。

 礼拝堂の奥まで進むと、そこには横倒しになった十字架が置かれていた。そして十字架の台座の側に、地下へと続く階段がある。階段の周りにはうっすらと残る四角い跡があり、長年台座によって隠されてきた事が窺い知れた。

 アランは懐から懐中電灯を取り出し、階段の奥を照らしながら下り始める。蘭子も自前の懐中電灯をズボンのポケットから取り出し、アランの後ろに続く。

 階段を下りた先には洞窟があった。幅も高さも人がやっと通れる程度。アランも蘭子も身を捩りながら、岩と岩の隙間を潜るように抜け、奥へと向かう。懐中電灯がないと明かりもないため、必然歩みはとても慎重なものとなった。

 歩き続けて、果たして何分経っただろうか。入口からそう遠く離れていない場所で、アランは立ち止まる。

「着きました。これが件の代物です」

 そういってアランは、懐中電灯で洞窟の壁を照らした。

 映し出されたのは、壁画だった。

 黒い壁に、茶色い線が描かれていた。蘭子は線に駆け寄り、間近でそれを観察する。どうやら染料を塗った訳ではなく、表面の岩を薄く削っただけの、極めて簡素な代物のようだ。

 線により描かれているものも、極めて簡易な『イラスト』だ。こう言うのも難だが芸術性はあまり感じられない。人間らしき絵は比較的分かり易いものの、他の動物らしき絵はかなり適当だ。シカなのか牛なのか、サイなのかゾウなのか、いまいちよく分からない。

 古代の壁画に対し、そこまで造詣が深い訳ではない蘭子だが……正直この『下手さ』は、技術が未発達だとか道具がないだとかではなく、描き手に絵心がないだけだと思えた。

 しかし蘭子は、だからといってこの絵を笑おうとは考えない。いや、むしろ下手だからこそ、この絵の描き手の気持ちに胸が痛んでくる。

 この絵を描いた誰かは、きっと絵が下手くそに違いない。下手くそだが、それでも描かねばならないと思ったのだ。

 後世に『アイツ』の存在を伝えるために。

「……これが、お送りしたデータの壁画です」

 アランはそう言うと、壁画の一部を懐中電灯で照らす。

 光に当てられ、浮かび上がるのは巨大な『怪物』の絵。

 それは途方もなく巨大な存在だった。周りに描かれたどんな獣達よりも大きい。人間は為す術もなく逃げ、怯えているのだろうか。怪物から遠く離れた場所に、何人もの人が寄せ集まっているのが描かれている。されど中には怪物の足先と重なるように描かれた……「ああ、踏み潰されているんだ」と分かる人物も存在していた。

 この絵を描いた者は、確かに絵心はなかったのだろう。だが、深々と刻まれた傷には当時の、古代人の感情が今も色濃く残っている。

 大人すら涙が出るほどの恐怖。

 抗えない力への絶望。

 家族や仲間を失った悲しみ。

 何時まで経っても助けに来ない神への呪い。

 未来に一欠片でも希望を残すために振り絞った、勇気。

 ……こんなにも色々な想いが感じられるのに。それを「自分の信じるものと違う」というだけで踏み躙った輩に、蘭子は一層の怒りを覚えた。正直、そいつが死んでしまった事が惜しい――――顔面を一発ぶん殴る事も出来ないのだから。

「……少し、感情的になったかしら」

 顔を横に振り、蘭子は熱い感情を吐息と共に外へと追い出す。壁画を描いた人の想いを汲むのは大事だが、囚われてはならない。それは真実を見落とすものだ。

 そう、蘭子は真実の探求をするためこの地を訪れた。故郷である日本を捨て、例えもう二度と故郷の土を踏めなくても構わないという覚悟を持って。

「アラン。念のため一つ確認させて……この壁画、描かれたのは何時?」

 蘭子は壁画を見つめたまま、アランを問う。

 アランは一呼吸置き、ゆっくりとした、けれどもハッキリとした言葉で答える。

「推定ですが、七万から七万五千年前とされています」

 告げられる途方もない年月。蘭子はその数字を頭の中で巡らせ、次いで肩を竦めた。

「時期的には正しく『どんぴしゃ』ね。アレそのものは人類のボトルネックの主要因ではないって研究が出ていたけど……コイツの仕業なら、そりゃ減るわよねぇ」

 そして壁画の一点を見つめながら独りごちる。

 大きく描かれた怪物。

 巨大な尾を持ち、無数の足を有し……触角を生やし、二本のハサミを持ち、胸部が大きく膨らんでいる。

 例え絵が下手でも、これだけは、コイツだけは伝えようとしたのだろう。他の絵より明らかに細かく描かれたそれは、誰が見ても正体は明らかだ。

 デボラ。

 七万年以上前の壁画に、デボラの姿が描かれていた――――

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