及川蘭子の命名

「……こーりゃまた随分とさっぱりしちゃって」

 呆れたような、感心したような、そんな呟きを蘭子は漏らした。

 彼女は今、真っ平らな大地の上に立っている……本当に、そうとしか呼びようがない。木どころか草一本すらなく、地平線まで平らな大地が続くだけ。建物や電柱だってない。街灯だって一本も立っておらず、空に広がる星空と月がなければ周囲は歩くのも困難な真っ暗闇だったろう。

 しかしこの場所は、元々こんな景色だった訳ではない。少なくとも三日前まではそれなりに大きな町があったのだ。

 巨大生物が津波を伴って上陸した、ほんの三日前までは。

「……犠牲者の数は、計り知れません。この町には三万人ほどの住人が居たのですが、その八割とは現在も連絡が取れていない状況です」

 蘭子の傍には、迷彩服を着込んだ若い女性自衛官 ― 若松という名前だ ― が付いていて、町の状況を報告する。まともな通信体制が確立されていなかった百年前なら兎も角、科学が発達した現代では発展途上国でも考えられないような大被害だ。

「なんとまぁ、酷い被害ねぇ」

「はい。まさか巨大生物上陸時に津波が発生するなんて……」

「推定体重百五十万トンの巨体よ。静止しているだけでも押し退ける水の量も恐らく同じぐらい。勢いよく上がれば、確かに津波が発生するでしょうね」

「我々がもっと早く予想していたなら……」

「してても、発見がそもそもギリギリまで分からないんじゃ意味ないわよ。あまり後悔ばかりしても仕方ないわ」

 落ち込みかける若松に、蘭子は励ますように言葉を掛ける。

 蘭子とて人間であり、そして日本人の一人だ。祖国がこのような目に遭い、大勢の人々が亡くなった事に思うところがない訳がない……されど同時に彼女は生物学者であり、また極めて自然寄りの考えの持ち主だった。人が死ぬ事は悲しい事だが、それを防ごうとして人間は自然を壊してきた。道理を無理に曲げようとすれば、より恐ろしい事が起きる事を蘭子は知っている。

 必要なのは正しい知識だ。あの巨大生物が何物なのか、どのような経緯で誕生したのか、自然とどのような関わりがあるのか――――それを突き止めて『正しい』対処をしなければならない。

 その対処を考える最前線に立てる事は、一学者として誇りに思う。結果的にではあるが、総理大臣の前で『持論』を披露したのは正解だったかも知れない。お陰で自分は、他の科学者は立ち入りが許されない場所に足を踏み入れる事が出来るのだから。

「ま、被害については専門家に任せましょ。私達の役割は、あの生物について一つでも多くの情報を拾い集める事よ」

「……はい」

「それじゃあ、探しましょうか。あの生物の体組織を」

 蘭子はそう言いながら、懐から取り出したビニール手袋を嵌めた。若松も手袋をし、準備を整える。二人は並んで、更地と化した住宅地を歩いた。

 今日の蘭子達の目的は、現場の視察と組織片の採取だ。

 自衛隊が攻撃を行った、富士山から太平洋までのコースでは巨大生物の組織を発見する事は出来ていない。それはあまりにも被害が凄惨で、未だ十分な探索が行えていないというのもあるが……それを考慮しても全く見付からないというのは、自衛隊の攻撃ではろくな傷が付かなかった証明と言えよう。無理矢理引っ剥がすのは難しく、自然に脱落したものを探すしかない。

 そこで蘭子が目指したのは、巨大生物が足を突き立てた地点であった。引いていく津波を受けても耐えるほどの重さ、或いはパワーが掛かっている部分だ。自然な脱落が起きていてもおかしくない。

 勿論富士山出現時にも、巨大生物は地面に足を突き立てている。だが巨大生物はエビに酷似した形態……つまり尾っぽを引きずっていた。そのため歩いた場所は軒並み尾で均され、埋め立てられている。反面此度の巨大生物は、丘に上がらず引き返した。これにより何ヵ所かの『足跡』が尾から逃れ、そのまま残っているのがヘリコプターによる調査で判明している。目撃証言により、波が引ききった後に引き返した事も確認出来ているので、より期待が持てた。

 運が良ければ、組織片が手に入るだろう。

「……それにしても、何故あの生物は、上陸しなかったのでしょうか」

 ぽつりと、若松が疑問を呟く。

 若松からすれば、二万を超える人々は何故こんな目に遭わねばならなかったのか、それを知りたいのだろう。勿論どんな理由であれ納得出来るものではあるまい。しかし知らないよりはマシだと考えているのは間違いなかった。

 蘭子は少し思案を巡らせる。若松が抱いた問いの答えに、仮説ではあるが一つだけ辿り着く……言わない方が良いようにも思えたが、一人の学者として知りたいという意識は尊重したい。

「ただの気紛れじゃない?」

 だから、自分の考えを伝えた。

 若松の顔が批難にも見えるような形相に歪むのは、多少は想像出来る事だった。

「気紛れって……」

「生物兵器だとしたら、津波を起こせるぞというパフォーマンス。野生動物だとしたら、ちょっと気になったから立ち寄った。そんな程度なんでしょ」

「……っ! そんなの……!」

「あくまで推測よ。私は確信してるけど」

 拳を握り締める若松に、蘭子はあくまで自分の考えだと伝える。

 若松は胸に手を当て、深い呼吸を繰り返す。ゆっくりと左右に振った顔には、もう憤怒の感情は表れていない。

「……そうですね。すみません、私、少し感情的で」

「人間味があるって事じゃない。内心、ちょっとわくわくしてる私より何倍もマシよ」

「わくわく、してるのですか?」

「そりゃあね。人智を超える生命体の秘密に迫れるのだから、好奇心を抑える事は出来ないわ。勿論アレを野放しにする事は反対だし、生物兵器だとしたら環境保護の面からもさっさと駆除した方が良いとは思うけどね」

「……及川先生、組織片が入手出来た場合、どのような事が分かりそうですか?」

 未だ奥底には想いが燻っているのか。気持ちを誤魔化すように、若松は別の疑問を尋ねてきた。

 この問いにも、蘭子はすらすらと答える。

「それはもう、色々分かるわ。甲殻ならどの程度の強度があるか計り知れるし、ゲノム情報の解析も可能かも知れない。特にゲノムが分かればあの生物が天然物か人工物かもハッキリするでしょうね。構成される遺伝子情報の中に珍しい動物がいれば、密輸などのルートから首謀国が明らかになるかも知れない」

「……仮にですが、人工的に作られた、つまり兵器だとしたら……先生は、何処の国が元凶だと思いますか?」

「米国か中国。現実的にこの二択しかないわね」

 若松の質問に、蘭子はハッキリと答える。

 遺伝子工学の発展は目覚ましい。今や何処の国でも研究は進められている。しかしそれでも、発展度合いは国によって異なるのが実情だ。

 米国と中国は、どちらもトップクラスと呼んで良い。金の掛け方が違うし……隠し方・・・も上手い。互いに世界の覇権を狙っている点からしても、今や世界の経済と防衛力にも関わるこの分野で相手に引けを取る訳にはいかないだろう。あの巨大生物が作れるとすれば、この二ヶ国だけだ。

 ネット上でも生物兵器だと主張する者の多くが元凶として挙げるのは、この二国だ。意見の内訳は中国が圧倒的多数で、米国は少数。攻撃してくるとしたら中国、と誰もが思っているのだろう。

 尤も、その話を信じている者達には「そもそも現代科学であのような生物兵器が造れるのか?」という根本的な疑問が欠けているのだが。

「まぁ、所詮は根拠のない思い込みによる推測。証拠はすぐそこにある……拾い上げるわよ」

 話を打ち切り、蘭子は立ち止まる。若松も立ち止まり、息を飲んだ。

 ぽっかりと空いた、何十メートルもある大穴。

 たった一匹の生物が空けたこの『足跡』の中に、二人は静かに突入するのであった。

 ……………

 ………

 …

「……こうもあっさり見付かると、ちょっと拍子抜けしちゃうわね」

「……ですね」

 蘭子が肩を竦めながら言った言葉に、若松も軽く同意する。

 組織片は、あっさりと見付かった。

 足跡の底に赤い欠片が落ちていたのだ。勿論もしかするとただの瓦礫という可能性もなくはないが、表面の凹凸や裏側の生体的な紋様から恐らく間違いないと蘭子は考える。お陰で突入して三十分で穴から脱出出来た。今は穴の側で足を伸ばし、伸び伸びとサンプルを観察している最中だ。

 採取出来たサンプルは、凡そ五十グラム。相手の巨体を思えばほんの僅かなものだが、一旦研究を進めるには十分だ。軟組織が見付からなかったのは残念だが、甲殻と思しき部分だけでも様々な知見が得られる筈である。

 とはいえ喜ぶのはまだ早い。極端な話、研究室に運ぶまでの間にこの甲殻が腐ってしまえば、折角の生態解明のチャンスを逃す事となる。出来るだけ採取時と同じ状態を維持させねばならない。

 しかしながら何分人類のこれまでの常識が通用しない生物の体組織である。どのような方法が適切かは分からない。そういった事を知るのもまた大事な『研究』だ。

 ある組織片は綿を敷いた箱の中に、ある組織片はアルコールに漬けて、ある組織片は窒素で満たした容器に……様々な保管方法を試してみる。

「さぁて、色々な方法でやってみたけど、どれか上手くいくと良いわね」

「そうですね……」

「あまり心配しなくても良いわよ。自衛隊の火砲を受けてビクともしない装甲なんだもの。雑に扱っても、早々変質しないと思うわ。むしろ簡単に朽ちたら、それはそれで相手の事を知るチャンスでもある」

「……成程、甲殻を脆くする弱点が分かるかも知れないという事ですね」

「ご名答。はい、これでラストっと」

 若松と話をしながら作業を終える。仮に全滅しても得られるものがあるというのは気楽なものだと、蘭子はひっそり思う。

 さて、標本を保存したら持ち帰り……をする前にやる事がある。ラベル付けだ。何時、何処で採取したのか、その情報を記録しなくては標本としての価値が激減してしまう。

 勿論ちゃんと覚えていられるのなら、研究所に戻ってからやっても良い。というより普通はそうする。野外で一々テープに小さな文字を書き込み、貼ってなんていられないのだから。しかし此度は普通ではない。持ち帰った生体サンプルは直ちに政府の研究機関に送られ、解析される。ラベル貼りの時間は恐らくないだろう。それだけ政府も『巨大生物』を危険視しているという事だ。

 蘭子は懐からテープとペンを取り出し、情報を記録していく。と、その最中にふと思い出した。

「そうだ、まだあの生物の名前って決められていなかったわね」

 巨大生物の名前がない事を。

「……巨大生物で良いのでは? 勿論後々名前は必要でしょうが、今付けなくても」

「政府に任せたら何時になるか分からないわよ。もしもその間に別種の巨大生物が現れたら、大変な混乱が起きる。それを防ぐためにも名前は必要よ」

「先生がそれを言うと現実になりそうなんですが……」

「リスク管理と言ってちょうだい。実際命名なんて政府がえいやっと決めちゃえば良いんだから、さっさと進めれば良いのよ」

 なんとも雑な言い方をする蘭子だが、その胸中には焦りにも似た感覚が渦巻く。

 実際問題、別種の『巨大生物』が現れる可能性は否定出来ない。もしもエビ型の巨大生物が地殻内部に生息する野生動物ならば、地殻内部になんらかの生態系が築かれている可能性がある。あの巨大エビの餌、或いは巨大エビを餌にしている生物が存在しているかも知れないのだ。巨大エビが地上に現れた今、それらが地上に現れない保証なんてない。無論同種がもう一体という事もあり得るだろう。

 生物兵器だとしても、開発国があの巨大生物だけを作ったとは限らない。いや、あり得ない。あれほどの完成度を誇る『兵器』だとすれば、その裏では数えきれないほどの失敗や派生型が存在する筈だ。巨大エビよりも危険性は低そうだが、何百、何千という数が存在する可能性がある。

 どちらが正しいにせよ、この世に現れる巨大生物はただ一体、なんてルールはない。現れてから決めるようでは悲劇を避けられない。簡単に出来る事は、さっさとやってしまうべきだ。

「ま、政府に任せてもエビ型巨大生物みたいな味気ない名前を付けられそうだし、ここは私が命名しましょ」

「味気なさより分かりやすさが大事では?」

「長ったらしい名前を付ける気はないわよ。そうね……」

 試験管の中に入れた甲殻の欠片を眺めながら、蘭子は考え込む。時間にして、ほんの十数秒。

「……デボラ。デボラにしましょう」

 その十数秒で、蘭子は巨大生物の名前を独断で決めた。

 由来の分からない単語に、若松は首を傾げる。

「先生、デボラって、どういう意味ですか?」

「私の地元の民話に出てくる神様よ。地獄からやってきて、田畑を滅茶苦茶に荒らすの」

「……現実のデボラの被害は田畑どころじゃないですけどね」

「あと、最後にラが付く」

「はい?」

「怪獣映画って見ない? 主役級の怪獣には名前の最後に『ラ』が付くのが多いのよ」

 蘭子の説明に、若松はピンと来ていない様子。どうやらあまり特撮映画は好まないらしい。それは勿体ない、今度ブルーレイを送りつけてやろうと、蘭子はひっそり考える。

 尤も、そんな暇が出来るのは当分先の話だろう。

「……良し、ラベル貼りも終わり。後は他の自衛隊員に任せて、私達は研究所に戻りましょ」

「了解です」

 蘭子の言葉を受け、若松はサンプルのしまわれたボックスを持つ。出立の準備を終えた二人は、共に歩き出した。

 ――――蘭子は知らない。自分の名付けたものがどんな存在であるかを。

 ましてやその名が、世界の誰もが知る恐怖呼び名となる事など、予感もしなかった……

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