芥川喜一郎の祈り

 好きか嫌いかで言えば、喜一郎は父親の事が嫌いだった。

 何時もガミガミ五月蝿くて、こっちの話なんて聞きやしない。意地っ張りで負けず嫌い。その癖自分と同じく大して頭が良くないから、ちょっと難しい話になると理解出来なくて、結果すぐ怒り出す。小遣いも寄越さないのに店である総菜屋の手伝いをしろと命じてきて、友達と約束があるから無理だと伝えても先にこっちを手伝えと平気で言ってくる。それを無視したらゲンコツだ。

 人間の屑、とまでは言わないが、こんな大人にはならないと思うような人物だった。とはいえ肉親は肉親だ。嫌な思い出ばかりでも、死んでしまえとか、居なくなれとか、そうは思えない。

 だからなのだろうか。

「蓮司!」

「父さんっ!」

 友人である山下蓮司が父親と再会した時、喜一郎はそれを羨ましいと思ってしまった。

「父さん、俺、俺……!」

「良いんだ、何も言わなくて良い。良かった、お前が無事で、本当に、良かった……!」

 蓮司と父親は人目も憚らずに抱き合い、嗚咽を漏らし合う。

 高校生の男が父親と抱き合うというのは、些か気持ち悪い姿かも知れない。だけど今、この時に限れば、決して彼等がおかしな訳ではないだろう。

 町の高台に用意された避難所。喜一郎達は今、そこに居る。

 夜を迎えたが、避難所の電灯はどれも点灯していない。代わりに立てられた蝋燭の明かりがほんのりと照らすこの場には、大勢の人々が集まっていた。蓮司達と同じく駅前の丘で難を逃れた人達、そして町から離れた場所で仕事をしていた彼等の肉親達が殆どだ。男も女も、老いも若いも関係ない。再び会えた事を喜び、或いは会えなくなった悲しみを分け合うように、誰もが抱き合っている。

 自分には、誰も居ないのに。

「よっこいしょっと」

 避難所の隅で座り、人々を眺めていた喜一郎の隣に誰かがやってきた。ちらりと横目で見れば、三原だと分かった。

「……なんだよ」

「いや、大した理由はないよ。ただ、みんなが抱き合ってる中自分の居場所がなくてね」

「ふん。お前のところは共働きで海外だったよな。良かったな、一家全員生きてて」

「本当に、幸運だと思うよ。ま、向こうは自分の息子が死にかけた事に気付いているかも怪しいけどね」

 三原としては小粋なジョークのつもりなのだろうか。全く笑えない。むしろムカついてきた。

 喜一郎は荒々しく鼻息を吐き、三原から顔を逸らす。三原は肩を竦めたが、その態度を戒めたりはしなかった。

 それどころか、慰めの言葉を掛けてきたりもしない。

「……何も言わないのかよ」

「何か言ってほしいのかい? 君はそういうタイプじゃないと思っていたんだけど」

「……分かんねぇ」

 三原からの質問に、深く考えずに出した喜一郎の答えはこんなものだった。

 未だ、実感が持てない。

 生きている筈がない。実家が総菜屋で、両親は共に店で働いているのだ。そして実家のある場所は巨大生物が上陸した際の津波に飲まれ、何もかも破壊された。確かに父も母も健康体で、体力のある大人だったが、そんな程度で生き残れるような甘っちょろい被害じゃない。

 そう、死んでいると思っているから、蓮司と父親の再会を羨んだ筈なのだ。なのにその気持ちに納得出来ない。自分が勘違いしているかのような、もやもやとした違和感を覚えてしまう。

 多分、きっと、家族の死体を見ていないからこんな気持ちになるのだ。

 死体がないから、死んだと思いきれない。どれだけ理屈を捏ねても、もしかしたら、が脳裏を過ぎってしまう。死体を見ない限り、きっとこの気持ちは消えない。

 だけどその家族の亡骸は、今頃海の何処かを漂っているのだろう。自衛隊や警察が捜してはくれるのだろうが、広大な大海原に流れ出てしまった亡骸が見付かるものなのか? 喜一郎には、とてもそうは思えない。

「……俺、ずっとこんな気持ちのままなのか」

 ぽつりと漏らす独り言。

 三原は何も言わない。何か言えよとも喜一郎は思ったが、多分何を言われてもムカついたとも思った。今の自分がまるであのくそ親父みたいだと感じて、それがますます胸に穴を開ける。

 喜びと悲しみの声が満ちる室内。

 居たたまれなくなった喜一郎はすっと立ち上がり、一旦人気のない外に出る事にした。三原は何も言わず、追い駆けもしなかった。

 避難所の外に出た喜一郎は、外の空気の冷たさに驚いた。ぶるりと身体を震わせながら空を見れば、満天の星空が見える。普段なんて一番星と二番星ぐらいしか見えないのに。何時もと星空が違う事に、喜一郎は僅かに動揺する。

 少し考えて、この星空が『本来』のものであると気付いた。町が津波に浚われ、電線などが切れた事で辺り一帯から明かりが消え、自然本来の空が戻ってきたのだ。

 途端に、喜一郎はこの空が憎々しく思えてきた。数えきれないほどの人が死んだのに、それを喜ぶような美しさがおぞましい。

 星空から目を逸らし、喜一郎は避難所の傍を歩く。ざくざくと鳴る足下の小石が、ちょっとずつ自分の気持ちを掻き乱し、曖昧にしてくれる。

「……ん?」

 段々と軽くなる足取りで喜一郎が歩いていると、ふと避難所から離れた場所に明かりがある事に気付いた。

 明かりの下には、十数人の人々が集まっていた。大半は大人のようだが、中には喜一郎と同じぐらいの年頃に見える者も居る。誰も声を発さず、静かにその場で座っていた。

 何をしているのだろうか?

 興味を抱いた喜一郎は、その集まりに近付いてみた。しかしながらざくざくと鳴る自らの足音に気付いてしまうと、彼等の集まりの邪魔をしてしまうような気がして、途端に近寄り難くなる。どうしたものかと、ちょっと遠巻きに覗いてみるが……沈黙したまま座り込んでいるだけで、彼等が何をしてるのかはさっぱり分からない。

「どうされましたか?」

「うぉうっ!?」

 そうしてしばらく眺めていたところ、不意に背後から声を掛けられ、喜一郎は跳ねるほどに驚いてしまった。

 慌てて振り返ると、そこには喜一郎と同じく驚いたように目を見開いた、一人の少女が居た。少女といっても高校生である喜一郎よりちょっと背が低くてあどけない程度の、中学生ぐらいの見た目であるのだが。

 年下の子に驚いてしまった事が恥ずかしく、喜一郎は目を逸らす。

 それでもちらりと見れば、その子が大変な美少女だと気付けた。ちょっと無邪気な笑みが子供っぽいが、さぞ学校ではモテるのだろうと想像が付く。

 そうして何時の間にかじろじろ眺めて、驚かせてしまった事をまだ謝っていない事にふと思い至った。

「あ、いや、ごめん。ちょっと驚いて……」

「いえ、こちらこそ急に声を掛けてすみません。何かご用ですか?」

「用があるというか……何をしてるのかなって、思って」

「ああ。あれはお祈りです」

「お祈り?」

「……たくさんの方が、行方不明ですから」

 少女は僅かながら躊躇ったように、喜一郎の問いに答える。それは遠回しな言い方だったが、全てを察するのに十分な一言でもある。

 きっと、この場に居る人々は自分と同じなのだろうと喜一郎は理解した。

 確かに、今もたくさんの人が『行方不明』だ。そして恐らくその大半は、二度と見付からない。みんなそれは分かっている。分かっているが、受け止められない。悲しむべきなのか、諦めないでいるべきなのか、怒るべきなのか、嘆くべきなのか……誰にも。

 ここでの祈りは、そうした気持ちの整理をするための儀式なのだろう。

「あー、その、なんだ。これは、なんかの宗教、なのかな」

「ええ、そうです。聖書の貸し出しは、私の父が入信している教団で行っています。ただ、参加している人は信者以外もいますよ。祈りたい方は、誰であろうと拒みません。元より此処は公共の場で、私達も役所の方から間借りしているだけですし」

 尋ねると、少女は隠しもせずに明かしてくれた。宗教と聞いて喜一郎は少し気が引ける。なんというか、そういうのは胡散臭いものだと思っていたからだ。

 だけど、胸の中で燻る想いの整理は付けたい。

 ……体験入学というか、今回ぽっきりの気持ちで参加してみるとしようか。

「……ちょっと、参加してみても良いかな」

「勿論構いません。聖書はお読みになられますか?」

「いや、いい。一人で考えたい」

「分かりました」

 少女はぺこりとお辞儀をして、その場を後にする。喜一郎はぽりぽりと頭を掻きながら、祈りを続ける人々の後ろで胡座を掻いた。

 なんの宗教がこの場を貸しているか分からない。しかし様々な感情で溢れる避難所の中より、寒空の下にあるこの場の方がずっと落ち着ける。

 喜一郎は目を瞑り、じっと考え込む。何を、と言われても答えられない。もやもやとした気持ちを、ちょっとずつ、形にしていくだけ。

 例えその先にある感情がどれだけ辛くとも、分からないままでいるよりは、きっと良い事だと思えたから……

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