及川蘭子の解説

 総理大臣官邸。

 日本の行政府である内閣の閣議が行われる場所である……と言われても、ピンとこない人も多いだろう。行政に関わるので無関係な訳はないのたが、大抵の人はそれを意識する事はない筈だ。

 蘭子もまた、産まれてこの方二十五年が経ったが、今日まで大勢の一般人と同じ立場だった。されど今日は違う。

 彼女は今、若い官僚に連れられ総理大臣官邸の中を歩いている。官僚の年頃は、三十代前後だろうか。恐らく年上で、彼の給料は自分の何倍もあるだろうと蘭子は予測した。尤も金など殆ど興味もないので、それを羨ましいとも思わないのだが。

「先生、こちらが会議室です」

「そう」

 やかて官僚はある扉の前で立ち止まり、蘭子に中へと入るよう促す。蘭子はぽつりと返事をして、それから一応身形を確かめる。襟が立っていたので、パッと直しておいた。

 とはいえ今更襟が立っているぐらい、些末なものだとは思うが。

 何しろ蘭子は作業着姿で、手拭いを首から掛けた、如何にも工事現場のおっさんのようなスタイルなのだ。蘭子は少々目元に深い隈がある以外大変な美人なのだが、その服装が全てを台なしにしている。ついでに言うと髪を掻くと少しフケが出る。何分この三日は風呂にも入っていないのだ。

 勿論やれと言われたなら、スーツにも着替えたし風呂にも入った。その程度の常識は蘭子にもある。しかしながら『職場』に官僚達が押し寄せ、あれよあれよで連れてこられたため着替える暇もなかった。割とこの格好は不可抗力である。

 などと愚痴ったところで、今更着替えさせてはくれないだろう。それだけ状況は逼迫している……それもまた蘭子は理解していた。

 扉を開け、蘭子は会議室の中へと入る。

 室内には、大勢の人々が居た。知らぬ顔の方が圧倒的に多いが、見知った顔もちらほら見付かる。とはいえ知り合いという訳ではない。

 蘭子とて社会人。テレビに出てくる大臣の顔ぐらいは覚えている。

 会議室に居た人々の視線が、一斉に蘭子へと集まる。結構な割合の人々から顔を顰めていた。この格好は不可抗力なのだからその反応は大変不愉快なのだが、逐一腹を立てるのも面倒である。蘭子は気にせず、会議室の奥へと向かった。

 そして部屋の一番奥に辿り着いた蘭子は、くるりと舞うように振り返る。見た目だけは美人。大臣の何人かが少し頬を緩ませた。緊張感のない連中だ、とも思う。

 蘭子は、好んで政治家と関わろうとは思わない。出世欲なんてないし、お金にも関心がない。

 しかし自分のした事の『責任』は取らねばならないだろう。例え自分の存在を世間に公表したのが、顔も知らないボケ老人だとしても。

「初めまして、及川蘭子と申します。職業は生物学者――――先日富士山から現れた生物について、三年前に予言していた者です」

 若気の至りで出した論文が、大勢の人々を惑わせているのだから。

 ……………

 ………

 …

「まずは誤解がないように言っておきますと、私は決して、あのような巨大生物の存在を予言した訳ではありません」

 蘭子が最初に切り出したのは、自身がこの場に招かれた理由の否定からだった。

 いきなりの前提が崩れ、会議室の中がざわめく。混乱するのは分かっていたが、認識は正しく持ってもらわねばならない。蘭子とてあの巨大生物については殆ど分からないのだ。下手な期待を抱かれても困る。

 無論このままでは「じゃあ帰れ」と言われるだろう。別にそれでも構わないが、何も話さずに帰るのも『知識人』としての癪に障る。

 満足はさせられないが、表立って不満は出せないぐらいには話すとしよう。その程度の『ネタ』はあるのだから。

「私が予言したのは、マグマ内部における生物の活動可能性……分かりやすく言えば、マグマの中に生物が棲んでいる可能性です」

「何が違うんだ? あの生物は、マグマの中から出てきたじゃないか」

「私が考えていたのは、もっと微細なものです。細菌類と思ってくださって構いません。多細胞生物、ましてやシロナガスクジラの十倍以上の巨大種なんて想定もしていませんでした」

 閣僚の誰かが言った疑問に、蘭子は即座に答えを返す。

 そう、蘭子が論文で発表したのは「マグマの中にも微生物はいるのでは?」程度のものだ。

「私の専門は海洋生物、取りわけ深海生物です。深海生物の中には熱水噴出口という、百度以上にもなる熱湯の近くで生活する生物がいます。そうした極限環境生物を研究する中で、ある特殊なタンパク質を発見しました。五百度もの高温に耐える、超耐熱性タンパク質です」

 通常、タンパク質は熱に弱い。大半のものは六十度ほどで変性し、元の機能を失ってしまう。一部では特殊な糖類などの作用でこれを防ぐものもいるが、それでも精々百数十度……というのがこれまでの常識だ。

 五年前、蘭子は学生の身分でありながら、この常識を打ち砕くタンパク質を発見したのである。尤も、このタンパク質は特殊な化学物質に浸した状態かつある程度の圧力がないとすぐ自壊する性質があり、産業的に活かすのが難しいため、あまり世間には認知されていないが。

「五百度という温度は、一千度を超えるマグマの中で暮らすには不十分なものでしょう。ですが生物というのは、時として自らの生活環境には不釣り合いなほど高性能な機能を持ちます。例えばネムリユスリカという昆虫が、高々数十日程度の乾期に耐えるために、宇宙空間から生還出来るほど強靱な耐性を手に入れているように」

「……五百度もの高温環境に適応した種が、更に劇的な耐性を持てば、マグマにも適応出来るかも知れない、という事か」

「はい。それが、私が出した論文の概要となります」

 話を終えた蘭子は、ふぅ、と小さな息を吐く。水を飲みたい気分だが手元にはない。口に溜まった唾を飲んで我慢する。

 説明を聞いた大臣達は、一層困惑した様子だった。答えが分かると思っていたのだとしたら、期待を裏切って申し訳ない……なんて露ほども感じないが。

 さぁてこのまま帰れたら良いかな……等と考えていると、一人の老人が手を上げる。

 彼の顔には見覚えがある。この国の総理大臣・水柴田みずしばた藤五郎とうごろうだ。

「……君が、巨大生物について詳細を知っている訳ではないというのは理解した。その上で、結果的にとはいえ予言に成功した先見性に期待して尋ねたい。あの生物はなんだ? どうしてこの国に現れた? そして、何処に消えた?」

 淡々とした、しかし力強い口調での質問。

 最初は適当にはぐらかそうとも思った蘭子だったが、どうにもこの御仁には通用しなさそうだと感じた。無論本当に何も分からないのならそう伝えるが……パッと考え付いてしまう程度には、蘭子は優秀だった。

「……あくまで根拠のない、推論と言うよりも妄想染みた話で良ければ」

「参考程度に留めておこう」

「では、お話ししましょう」

 言質、と呼べるほどのものではないが、総理と約束を取り付けた蘭子は小さく息を吐く。

 挟んだ沈黙は数秒。

 その僅かな時間で考えを纏め、蘭子は『妄想』を語り始めた。

「アレの正体については、私としても言えません。予想を語るにしても情報が足りな過ぎる。あまりに既知から外れており、ネット上などで語られている陰謀論、つまり米国や中国が開発した生物兵器という線もあながち否定は出来ません。逆に真剣に兵器として見た場合、ただ歩くだけというのはあまりに効果が薄い。弾道ミサイルを作った方が遙かに安上がりでしょう。どちらの答えも、正解とするには問題が多い」

「…………」

「しかしその上で、今後については考える事が出来ます」

 会議室の中が微かにざわめく。蘭子はそのざわめきが収まるのを待ち、ゆっくりとした口調で伝える。

「あの生物がなんであれ、一度は地上に出現しました。そして難なく歩いている。私見ではありますが、あの生物は地上での活動に問題がない……生態的に、或いは開発的に、最初から想定されているように思えました。即ち」

「再上陸もあり得る、と?」

「日本にするとは限りませんが」

 蘭子の語る推論に、いよいよ会議室内は動揺の声で満たされる。それも仕方ない。自衛隊でも歯が立たないような怪物がまた来ると告げられたのだ。どうしたら良いかなんて誰にも分からない。

 蘭子としても同じ気持ちだ。だから自分ではなく、自分より真面目で頭の良い学者に研究してもらいたい。確かにあの巨大生物は非常に興味深く、一生物学者として今後生涯を掛けて生態を突き止めたい。いや、実際次の研究テーマは巨大生物の生態にするつもりだが……人命がどうたらこうたら、国家の存亡がうんぬんかんぬんとか、そういう責任はごめんなのだ。

 推論は伝えた。後は一ヶ月後とか一年後、いや明日とかに巨大生物が上陸してくれれば良い。そのニュースを聞き次第ただちに海外に高飛びし、対策委員会が出来上がるまで太平洋のど真ん中で深海生物でも捕獲する。そうすれば自分が委員会に組み込まれる心配はない

「た、大変です!」

 そう考えていたところに、ドアを激しく開ける音と、若い男の声が会議室に響いた。

 室内に居た全員が、一斉に会議室の入口に目を向ける。そこに居たのは、息を切らした若い男性だった。顔はすっかり青ざめ、ガタガタと足腰が震えている。余程急いできたのか、だらだらと汗も掻いていた。

 本来なら誰かが「会議中だぞ」の一言で窘めるべきなのだろう。しかし男性の異様な雰囲気に飲まれたのか、誰も声を上げない。そうして沈黙していると、若い男性が大きな声で告げた。

「と、東京湾で正体不明の陰を確認! 大きさから推測して、富士山より出現した巨大生物と見られます!」

 絶望が、すぐそこまで来ている事を。

 会議室の中が大きくざわめいた。しかし長くは続かない。誰もがすぐに沈黙し、入口に立つ若者から視線を外す。

 そうして動かした視線で次に見るのは、及川蘭子。

 ほんの今さっき、巨大生物上陸を『予言』した蘭子に、誰もが期待の眼差しを向けていた。あたかも次の『予言』を授けてくれと言わんばかりに。

 そして今から海外に高飛びなんて出来る筈もなく。

「……言わなきゃ良かった」

 自分の性格が学生時代から本質的には変わっていないのだと、蘭子は今になって思い知るのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る