李 正の亡命

 南アフリカ。

 二十年前、この地は世界の中でも取り分け不安定な地域だった。植民地支配の影響、独立した時期の国際情勢、『誤った援助』による産業破壊……様々な要因に振り回された結果、政争や紛争、弾圧や差別が繰り広げられるようになったからだ。

 争いは経済発展を停滞させ、国民の間には貧困が広がる。貧困は子供への教育を滞らせ、無教養な大人が量産される。無教養な大人は迷信と暴力しか知らず、新たな争いの火種となり……

 抜ける事の出来ないループが、延々と繰り返される毎日。穏やかで豊かな先進国に住む人々の中には「民主主義が早過ぎた」だの「土人の集まり」だのと、差別的な皮肉を語る者も居た。

 そして西暦2039年――――南アフリカは、世界で最も活気に満ちた大陸へと変わっていた。その南アフリカでも特に大きな『都市』がある。

 その都市には無数の家が建っていた。家といっても掘っ立て小屋と呼ぶ事すら難しい……トタン板を組み合わせただけの……代物だが。そんなものが何百、或いは何千、規則性もなく敷き詰められている。あまりにも無秩序な建て方をしているものだから、道というよりも、家と家の隙間という方が正しい有り様だ。

 地面は何も舗装されておらず、黄土色の大地が剥き出しになっている。草一本生えないほど踏み固められていたが、乾燥している表面は風で容易く舞い上がり、何時も都市は黄土色の靄に覆われていた。

「■〇□■△! 〇××!?」

「〇×〇×〇〇▽!」

「×〇◇☆~×〇♪ ×〇★×!」

 都市の中では何語かも分からぬ言葉が、あちらこちらで飛び交う。それぞれの言葉には統一感がなく、語学に堪能なものならば本当に言葉が統一されていない事に気付くだろう。

 乾ききった黄土色の土の上を、大勢の人々が行き交いしていた。彼等の外観に共通点はない。男も女も、子供も老人も、白人も黒人も……何もかも関係なく。

「ギャアッ!?」

 そして時折人の悲鳴が上がるが、誰も気に留めない。

 ……人の通らぬ道を覗けば、時折倒れて動かない人の姿を見付けられるだろう。見付けたところで、誰一人驚かない。視界に入っても、その人間が『裸』だと気付くと舌打ちして無視する有り様だ。

 凡そ先進国と呼べない、法の支配が及ばぬ世界。

 そこに彼――――李 正は暮らしていた。

 正は全身をボロ布で包み、顔を隠すように布を被っていた。人混みの中を器用に歩き進み、向かうは都市の一角。都市の他の場所と比べ、幾らか静かな区画へと足を踏み入れた。

 そこを行き交う人々は、大半がアジア系の……もっと言うならば中華系の顔立ちをしていた。

 此処は漢族が集まって暮らしている区画だった。

「やぁ、さん。久しぶりだね」

「えっ、あ、ああ。久しぶり、元気してたかい?」

 中年の男性に『毛』と呼ばれ、正は少しどもりながら答える。酒でもどうだと中年男性に誘われたが、これを断り先を急ぐ。

 やがて正は区画の最奥に建つ、一軒の家の中へと入った。

「……私だ。誰か居ないか?」

 家の中に呼び掛ける。と、奥から蝋燭を持った老婆がひょこりと現れた。

 老婆と言ったが、その顔立ちは極めて凜々しく、老いを感じさせない。生半可な男ならばその眼光だけで慄き、手が出せないだろう。

 その気迫は、十年前と変わらない。あの時は、嫋やかな笑みを浮かべるだけの余裕があったが。

「……ああ、李さんですか。久しぶりですね、あまりに遅いからくたばったかと思いました」

「ははっ、これは手厳しい。こちらこそ久しぶりです、ブリジッド」

 正は目の前の老婆――――元イギリス首相ブリジッド・キャメロンに挨拶し、それと共に被っていたフードを脱いだ。

 此処は、正とキャメロンの暮らしている家。

 即ち国家元首が二人も集まり暮らしている場所だった。尤も、二人ともその役職の頭には『元』の文字が付くのだが。今では二人ともしがない老人であり、売上や税金の計算など、専門的・・・な事務作業を仕事にして生計を立てている。

 メカデボラが撃破された時、正は幹部達と共に首都北京を脱出した。

 後に聞いた話では、デボラの攻撃により北京の三割が溶解・・したらしい。都市が溶解とは何事かと思ったが、衛星からの画像を見て得心がいった。デボラが放射する熱光線により、全てが溶かされていたのだ。

 そしてその瞬間から、中国共産党の幹部はデボラを不用意に怒らせた『諸悪の根源』と化した。

 幹部達は逃走した。暴徒化した人民を恐れて。正もその一人であり、彼も信用出来る側近と共に中国を脱出。国から国を転々とし……三年前、ついにアフリカにあるこの町に到着した。アフリカを目指した理由は、デボラ襲撃と世界的寒冷化により先進国が軒並み崩壊する中、比較的マシ・・・・・な状態を保っていたのがアフリカだったからである。

 とはいえアフリカの言語に全く詳しくない正は、中国人が作ったコミュニティに身を寄せるしかなかったのだが。偽名を用い、出来るだけ貧しそうな格好をして……なんとか李 正ではないと誤魔化して、この中国人コミュニティに加わった。

 そこでなんの因果か、ブリジッドと再会し、ここで共に暮らすようになったのである。ちなみにブリジッドがアフリカに居た理由は「暴徒化した民衆に『金持ち』だからという理由で襲撃され、EUから逃げ出したから」……民主化していようがいまいが、極限状態の民衆というのは何処も同じらしい。

 ちなみに此処にはもう一人住人が居た。元インドネシア大統領のバハルディンだ。しかし今日はその姿が見えない。

「ところでバハルディンは?」

「今日は仕事です。事務が出来る人は、今じゃすっかり珍しいですから」

「それで三日に一度しか仕事がないのだからな……向こうとは大違いだ」

 やれやれと肩を竦めながら、正は独りごちる。官僚上がりというかつてのエリートも、政府機関がなければひ弱な理数系でしかない。頭よりも筋肉の方に需要があるこの地では、仕事にありつけるだけありがたいというものだ。

 そう、この地では。

「……向こう・・・はどうでしたか?」

 ブリジッドからの問いに、正は一瞬口をキュッと閉じる。室内なのに辺りを見渡し、家の入口付近に人が居ないのも確かめ……ブリジッドの耳許に顔を寄せて話す。

「……噂以上だ。正直、この時代であんなにも巨大で、尚且つ安定した国家を形成出来るとは、とても信じられん」

「やはりルールは、彼等の宗教によって成り立っているのですか?」

「いや、信仰の自由が保障されている。私が確認出来ただけでキリスト教や仏教、イスラム教にゾロアスター教、それと日本のカルト宗教も容認していた。無宗教でも問題なく生活している。無論罪を犯せば逮捕されるが、宗教を理由に罪状が増減する事もない。強いて言えば、『宗教で相手を差別しない』という法は施行されていたが、それだけだ」

「……にわかには信じ難い。確かに、元々排他的な思想ではありませんでしたが。何か、裏があるのでは?」

「かも知れない。が、こんな時代で何を企む? 独立宣言をしたところで、容認する国も批難する国もなく、国連の調査団だって入ってこないんだぞ」

「……………」

 正の言葉で、ブリジットは口を閉ざす。やがてゆっくりと唇を震わせながら、小さな吐息を漏らした。

「……分かりました。元より、その地を見てきたのはあなただけです。あなたがどうしたいか、決めてください」

「なら答えよう。私は、あの国に行くべきだと思っている。それは勿論、私達が安全に生きていくために必要な事だというのもあるが……」

「あるが?」

「あの国は、人類最後の希望だと思っている。老い先短い身だからこそ、その最後の希望の地の発展に力を貸したい」

 正は、ブリジットの瞳を見つめながら答える。少年のように澄んだ瞳と声だった。

 ブリジットは目を丸くし、やがてニコリと笑った。嫋やかで、女らしい、かつての笑みだ。

「今更真面目な公務員になるつもり?」

「私は最初から最後まで真面目な公務員だったよ。十年前の職務は、私には向いてないものだったがね。無論失態の責任はある。だからこそ、自分の力を活かせる場所で人々に貢献したい」

「青臭い。まるで未熟なワインね」

「自覚はしている。しかしこのままビネガーになるよりはマシだとは思わないかね?」

「ええ、全くその通り」

 正の言葉に同意し、ブリジットは立ち上がる。正も立ち上がり、二人は顔を見合わせた。

「バハルディンが帰ってきたら、早速出ましょう。その前に身支度だけはしておくわ」

「ああ。周りに勘付かれる前に動きたい。いくらあの国が人手不足とはいえ、このスラムの人間の半分をいきなり受け入れられるほどのキャパシティがあるとも思えないからな」

 キャメロンと考えを合わせ、正もまた荷物を纏め始める。

 正はしばし旅に出ていた。

 目的は、噂に聞いていた『国』が実在するのか確かめる事。半信半疑で、正直野垂れ死ぬ可能性の方が高いと ― そしていっそその方がマシだとも ― 思って始めた旅だが……噂は真実だった。

 勿論そのまま見付けた国に住む事も出来ただろう。しかし正は戻ってきた。

 キャメロンもバハルディンも、この町で長い間共に暮らしてきた。キャメロンとバハルディンは正と血の繋がりはなく、血縁主義が強い中国的価値観で言えばさして大事な相手ではないが……家族と合流出来ず、ずっと一人だった正にとって二人は家族のようなものになっていた。裏切るなんて真似は出来ない。

 これから長旅になるだろう。その旅は辛く、厳しく、もしかすると誰か命を落とすかも知れない。

 それでも、旅路の果てに幸せな生活があるのなら――――危険を冒す価値はある。

 何時殺されるか、飢えて死ぬかも分からぬ世界で日々を無駄にするよりは、ずっと。

「……いよいよだ」

 正はぽつりと独りごち、思い出す。

 この地から遙か北西、かつてカメルーンと呼ばれた国があり、そのカメルーンの名を冠するカメルーン山の麓に出来た『国家』……


















 『神聖デボラ教国』の存在を。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る