足立哲也の再会
現在、日本に自衛隊は存在しない。
何故ならデボラにより破壊の限りを尽くされた今の日本では、自衛隊を維持する力すら残っていなかったから。自衛隊が保有していた兵器は世界でも最高峰の性能だったが、その性能は豊富な生産力によって成り立つもの。どんな強力な兵器でも、補給がなければただの置物に過ぎない。そしてその置物を置物のまま保管するだけでもそれなりに金が必要となる。経済的に崩壊した日本では、到底支払えるものではなかった。
苦渋の決断として自衛隊は解体され、現在、日本の防衛は駐屯した中国人民解放軍が担っている。つまり自衛隊所属の隊員達は上から下まで揃って解雇という事。日本が終われども仕事は探さねばならず、彼等は様々な仕事へと移った。
例えばある者は実家の家業を継ぎ、
例えばある者は自営業を始め、
例えばある者は不法行為に手を染める。
自衛官となった志、現在置かれている自分の立場……様々なものを考え、彼等は自衛官以外の職に就いた。中には中国人民解放軍に燃料や弾薬を補給する仕事をしている者もいる。そうした者達にしても理由は様々だ。例えば病に倒れた子供の治療費を稼ぐため、売国奴の汚名を着せられる事も厭わない者もいた。或いは中国だろうがなんだろうが、軍事力の存在により治安が良くなると考える者もいた。
誰が正解とか、誰が間違いとか、そういう問題ではないのだ。生きるためには、何かをしなければならないのだから。
そして足立哲也が選んだ『何か』は――――地元の家業と、自警団だった。
「異常なーし」
海沿いに立てられた、ざっと十メートルほどの高さがある物見櫓……と呼ぶにはあまりにも簡素な作りの木造の建物の頂上。頑張れば人が三人ぐらい座れそうな広さの床板の上で胡座を掻きながら、哲也は手にした無線機 ― ボロボロで薄汚れた骨董品だ ― に向けて報告をしていた。
彼の視線の先には、朝日を浴びてキラキラと輝く大海原が見える。高台から眺める景色は穏やかそのもの。遠くには船が何隻か見え、彼等が真面目に仕事をしている事が窺い知れる。
すっかり無精髭が生え揃った頬を手で摩りながら哲也はにっこりと微笑み、大海原の監視を続けた。
彼の地元は、福島県沿岸部に存在するとある町……
この町は、日本の他の町と比べれば幾らか平穏を保っていた。失業率は以前より上がったとはいえ他の町ほどではないし、人民解放軍に属さない、
これには理由がある。一つはこの町がデボラの直接的被害を避けられたから。とはいえそんな町は他にも無数にあり、これはいわば『前提条件』のようなものだが。
もう一つの、そして大きな理由は、元々この町が人も仕事も日に日に廃れ行く状態だったため、外部との関係が極めて小さかったからだ。東京などの都心部と強く依存していた村落は職を失う人で溢れる中、地元内で完結する仕事が多かった厚角町の失業率上昇は最低限に留まった。
加えてこの町で一番大きな雇用は、漁業関連のものだった。
つまり食糧生産の機能を持っていたという事。デボラによる直接的被害を免れ、都市との交流が少ない町や村でも、輸送網の途絶や産地の破壊により食料品価格の著しい高騰が起きていた。失業した状態で値段が上がったなら、食べ物が買えなくなってしまう。
人間というのは単純なものだ。口では尊厳がどうたらこうたら言いながら、食事と安全が確保されれば大した不満は抱かない。逆にいえば、生存権が脅かされれば容易に爆発する。
都市部のみならず、田舎の村でも暴動が起きるのは必然だった。
こうして生じた暴動は生き残っていた数少ない職場を破壊し、更なる暴徒を生み出す。本来ならここで外部からの強力な……つまり国家が差し向けた『軍』などの……組織による鎮圧が必要なのだが、デボラによってそれを破壊された日本には為す術もなし。人民解放軍も「日本の国内問題」といって ― しかし正論だ ― これを放置。負のスパイラルは止まらず、数多の市町村が崩壊した。
厚角町はそうした負のスパイラルを起こさず今に至っている。今でも油断すれば全てが崩れかねない、非常に危うい状態ではあるが……少しずつ、再生に向かっていた。哲也が聞いた地方自治体の発表が正しければ、今年に入って失業率と実質賃金がかなり改善されたらしい。哲也の周りからも、去年よりはマシになったという話をよく聞くので、恐らくは本当なのだろう。
さて、そんな哲也が所属している自警団は、言ってしまえば警察の真似事組織だ。
経済破綻により国家が力を失ったのと同時に、警察も機能を停止した。自衛隊の時のように解体はされなかったが、賃金未払いや補給が止まる中では機能を維持する事など出来ない。厚角町にも警察官は幾らか駐在しているが、正直かなり頼りない。
そこで住人達が立ち上がり、自警団を結成した。装備はそれこそ警察官以下ではあるし、多くは ― 哲也も含めて ― 兼業なので練度も高くない。しかしそれでも「自分の町は自分で守る」という意思表示にはなる。治安を守る者がいるというのは、それだけで強い抑止力となり、犯罪を防ぐものだ。自警団に入って数年になる哲也だが、彼が駆り出されたのは……十数人の酔っ払いがべろんべろんになりながら暴れていた時ぐらい。
彼の仕事は、専ら
「よぉーう、元気してるかー」
今日も何時も通りに眺めていた哲也だったが、ふと背後から声を掛けられた。
振り返れば、そこには見知った顔があった。
そして今は、哲也と同じく自警団に属している。普段の仕事は漁協での作業員だ。
「邦生か。こっちはまぁ、元気だな。本業はからっきしだが」
「お前んち、確か八百屋だったか。お前が接客というのは、確かに似合わねぇだろうな」
「うっさい。客商売が向いてないのは知ってるから、裏方での荷物運びが主な仕事だよ。力仕事なら得意だからな」
「元自衛官は流石だねぇ」
「……客の相手が出来なきゃどの道店は潰れるから、早いところ嫁を探せと言われたがな」
「あっはっはっ! そりゃ親御さんの言うとおりだ。でも今なら簡単に見付かるだろうよ。隣町まで足を運んで、綺麗なお嬢さんに一言こう伝えれば良い。うちに来れば衣食住には困らせないよ、ってな」
「……お前は隣町を、内戦で荒廃した発展途上国か何かと思ってないか?」
ツッコミのつもりでぼやいた言葉に、哲也は呆れるようにため息を吐いた。しかし邦生の案は、そこまで突拍子のないものではない。衣食住に困り、明日どころか今日をどうやって生きれば良いか悩んでいる人々が、今の日本には溢れているのだ。どうせ今日までの命ならばと、甘言に釣られる人は一定数いるだろう。
かつて世界でも最高峰の経済力と治安と科学力を誇っていた国も、今では発展途上国並という現状。過去形とはいえ国に仕える身であった哲也としては、少し居たたまれない気持ちにさせられる。
「ま、お前さんに結婚の意思があるなら、簡単な話っつー訳だ……親御さんを安心させるためにも結婚した方が良いぞ?」
「……お前は」
どうなんだ。そう訊こうとした口を、哲也はぐっと閉じる。
邦生の左手の薬指には、指輪が嵌まっていた。十数年前の同窓会で散々見せ付けられた指輪だ。少し傷は見られるが、ピカピカと輝いている辺り大事に手入れされているのだろう。
もう、その指輪の相方を付けている人はこの世にはいないのに。
「……そうだな。少しは探しておこうか」
「そーそー。結婚は良いもんだぞ。子供が産まれればなお良い。うちはそうだった」
「……そうか」
邦生の意見に生返事を返し、邦生も以降は口を閉じる。
大海原から運ばれる塩の匂いと、さざ波の音だけが、哲也達の周りを包み込んだ。
――――されど、安寧は長くは続かない。
「……? ん……」
海を眺めていた哲也は、ぽつりと声を漏らす。
最初は、ちょっとした違和感だった。確信など何もない、もやもやとした、言葉に出来ない感覚だった。
されどもやもやは段々と形を持つ。
ぞわりと、哲也の身体に悪寒が走った。まだ確信出来るほどの距離じゃない。だが確信出来た時にはもう遅い。
狼少年になるのは怖い。だが本当だった時に比べれば、嘘吐き呼ばわりなんて些末なものだ。アレが本当に『奴』なら……既に殆ど手遅れだとしても……一秒でも早く告げねばならない。
哲也は無線機を握り締め、叫んだ。
「デボラ確認っ! 町に向けて進行中!」
日本を崩壊させた『大怪獣』の出現を。
哲也の報告から数秒後、町中に警報音が流れた。防犯ブザーのような甲高い爆音。寝ている人をも叩き起こす音色に町が包まれる。
次いで、建物から人々が溢れ出た。
物見櫓から見えるその光景は、正しく阿鼻叫喚だった。人々が押し合い、互いに相手を突き飛ばしてでも逃げようとしている。避難路は団子となった人々により塞がれ、前へと進めない。子供が置き去りにされ、足腰の弱い老人がきっと初めて出会ったであろう幼子を抱き締めていた。
しかし本当の地獄は、ここから始まる。
哲也が確認した海のうねりは、高速で町に接近していた。接近速度は遅くなるどころか、一層加速している。うねりに煽られた船が何隻か転覆していた。うねりは陸地に近付くほど高くなり、もう、百メートルを超えるぐらいの高さがある。
そしてうねりは、哲也達から数百メートルほど離れた港に『激突』した。
港にぶつかったうねりはそのまま丘へと上がり、内陸目掛け駆け上る。大量の海水により付近の建物は粉砕され、逃げ遅れた人人を容赦なく飲み込んだ。
哲也達が居る物見櫓も、海水の直撃を受けたなら呆気なく倒壊しただろうが……幸いにして、物見櫓の周りには建物が幾つかあり、それらが迫り来る海水の勢いを弱めてくれた。尤も、その所為で哲也達は人々が水に蹂躙される様を最後まで見せ付けられる訳だが。
哲也は怒りに震えた。こんな暴虐が許されて良いのかと。
しかし同時に恐れた。かの存在を止める事は、日本という国家すらも叶わなかったのだから。
「デボラ……!」
哲也に出来るのは、数百メートル彼方に上陸した巨大生物――――十年ぶりに再会したデボラを睨み付けてやる事だけだった。
「で、デボラ……あの野郎……!」
「落ち着け! 俺達じゃどうにもならん。冷静になれ」
今にも跳び掛かりそうなぐらい興奮した邦生を宥めつつ、哲也はデボラの動きを見定める。
デボラは極めて気紛れな存在だ。上陸してすぐに引き返したり、沿岸部を散歩するようにふらふらと歩いたり、目に付いた山を放射大気圧で吹き飛ばしたり……行動に何一つ一貫性がなく、何がしたいのかもよく分からない。まるでうっかり待ち合わせに早く着いてしまったから、ぶらぶらと時間を潰しているかのような適当さである。
そして此度のデボラは、直進する事を選んだ。
「……クソっ。最悪の方向に進んだか」
哲也は無意識に悪態を吐く。
デボラ上陸時に起こる津波を想定し、この町では避難場所は内陸方面に設定していた。つまりデボラが真っ直ぐ進めば、避難所はその直線上に位置する事となる。多くの人々がデボラから逃げられず、その巨躯の踏み潰されるだろう。
尤も、仮に助かったところで、この町ではもう暮らせない。デボラにより家も職場も破壊され、大勢の人々が路頭に迷う。彼等はやがて飢えと寒さから暴徒と化し、己や家族のために生き残った人々の衣食住を奪うだろう。自警団の力でも、それを止められるか分からない。いや、自警団とて人であり、この地で仕事をしている身だ。大勢の離反者が出る事を思えば……
忌々しきデボラ。されど無力な人間である哲也には、デボラを憎しみの目で睨む事しか出来ず。
「……ん?」
その行為が、哲也に違和感を覚えさせた。
デボラは真っ直ぐ進んでいる。
ひたすらに直進していた。邪魔な建物は全て押し潰し、その速度を衰えさせるどころか加速していく。まるで人の営みなど目に入っていないかのように。
デボラは気紛れだ。だから脇目も振らず直進したとしても、それが奇妙な事だとは言えないだろう。人の営みなんて、体長三百五十メートルもの身体からすればちっぽけなものである。足下を逃げ回る人間が奴には見えてなくとも不思議はない。
そう、なんらおかしなところはない。
おかしなところはないのだが、故に哲也は奇妙に感じたのだ。
気紛れで、うろちょろして、なんの気なしに全てを破壊する。そんな傍若無人な生命体が、一直線に突き進む……哲也は一度だけ、その行動を目の当たりにしている。
初めてデボラが日本に出現した、あの日だ。富士山から現れ、しばらく休んだ後……デボラは歩き出した。真っ直ぐ、その場にあるものなど目もくれず、一直線に。
あたかも、海を目指すかのように。
ならば、だとしたら。
今のデボラも、何かを目指しているのだろうか?
海を越え、山を越えた、その先にあるものを――――
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