アカの世界

 世界というものは、本当はもっと豊かで、楽しいものだったらしい。

 光彦父親からそのような話を聞いた事があるのだが、アカにはこれまでピンと来た事がなかった。

 確かにこの世界は、自分が物心付いた頃から日に日に悪くなっている。食べ物はどんどん手に入らなくなっていったし、寒さも毎年酷くなっている。獣みたいな子供に襲われたり、食べ物をたくさん持っている強盗を襲ったり……『悪い事』をしないと生きていけなくなっている。もしも光彦が言う通りの、食べ物が何処でも手に入って、道端で子供に襲われず、強盗を襲わなくて良い世界があるのなら、それはとても良いものだと思う。

 しかしアカはそんな世界を知らない。心を許せる人は僅かで、死体から物を剥ぐのが当然な世界で生きていたアカに、父の語る世界は夢物語というか……現実味のない・・・・・言葉だと思っていた。

 今日、この時までは。

「ふぉ、ふおおぉぉぉぉ!」

 あまり女の子らしくない、けれども大変正直な声でアカは驚きを示す。

 アカは今、一隻の船に乗っている。とても大きな船だ。『くちくかん』という名前の船らしい。細かい事はよく分からないが、大きな船という事だとアカは理解している。アカ達以外にもたくさんの人が乗っていて、アカのように日本で暮らしていたという人も何十人と同乗していた。

 その船の甲板から、陸が見えた。

 陸にはたくさんの『家』が建っていた。どれも木で作られたもので、日本にあった廃屋よりもちっぽけに見えるが……しかしどれも真新しい。海に張り出すように建っている『もの』は港らしい。アカが知る港はどれもコンクリートという石で出来ていたのに、この地では木で作っているようだ。

 見た事がないものばかりで新鮮だ。だけど何より気になるのは、その『家』がたくさん建ち並ぶ場所……町の中に、小さな影がたくさん動いているところだろう。

 遠くに居るのでハッキリとは見えないが……恐らくは人だ。

 物凄くたくさんの人が、町の中を歩いているのだ! アカが暮らしていた日本では、一月に一度誰かに襲われれば・・・・・多い方だというぐらい人がいないのに!

「とーちゃんとーちゃん! すごいよアレ! めっちゃたくさん人が居る! あんなにたくさんの人に襲われたら大変だね!」

 この興奮を伝えたいと思い、アカはくるりと振り返る。

 彼女の後ろには、父……っぽい他人である光彦と、全くの他人である早苗が居た。早苗はくすくすと笑い、光彦は呆れるように肩を竦める。

「お前はほんと、ナチュラルに思考が物騒だなぁ。つか襲われるかもって思ってるのに、なんでそんな楽しそうなんだよ」

「だってあんなにたくさん人が行き交うところなんて、見た事ないもん」

「あー、そうかもなぁ。十年前でも大概の町は閑散としていたし、人の多いところはヤベェのも多いから近寄らなかったし」

「そうねぇ。むしろ出会う頻度が多い分、今より酷いかもね。デボラが現れて十年で、あんなにも酷くなるものなのねぇ」

「人間なんてそんなもんだろ。いざ環境が悪くなれば、簡単に悪事に走るもんだ」

 懐かしむように、光彦と早苗は昔の話をする。アカは昔の話が好きじゃない。幼い頃の、或いは産まれる前の時代の話なんてアカは知らなくて、知らない話に付き合うのは疲れるからだ。

 アカはふて腐れるように再び前を向き、迫る大地を眺める事にした。

 さて、アカ達は今、日本から遠く離れた土地に居る。

 曰くこの船が向かっているあの陸地は『あふりか』という大陸らしい……大陸というのは海に浮かぶ大きな島のようなものだとか。アカにはよく分からないが、要するに日本から海を越えた先にある土地だ。

 なんでもこの地にはまだまだたくさんの人間が居て、今も少しずつ集まってきているらしい。そうして町を作り、国を作り……今に至るという。

 国の名前は神聖デボラ教国。デボラを崇めている国だそうだ。そしてアカ達はこの国の国民だというデボラ教信者に連れられ、この国にやってきた。

 目的はこの国の国民となるため。光彦と早苗がそう決断した事でそうなった。アカは特に意見していない。何分『こくみん』なるものがよく分からないので。

「(どんなところかなー。食べ物がたくさんあるらしいから、お腹いっぱいになれるかなー)」

 とりあえずの楽しみとして、アカは現地の食事に興味を持つのであった。

 ……………

 ………

 …

 結論から言えば、光彦と早苗の選択は大正解だったとアカは思った。

「長旅でお疲れでしょう。この国で採れた作物を使った料理です。質素なものですが、お召し上がりください」

 上陸後招かれたとある施設にて、若い女性がそう言いながら出してきたのは――――木で編んだ入れ物 ― ばすけっと、というらしい ― に山ほど積まれたパンと、皿いっぱいに入った豆入りスープだった。

 質素だなんてとんでもない。アカはそう思った。十年前ですら食事は缶詰ばかり。今じゃ魚だとか犬だとかの死骸、コケや枯れ草……そんなのばかり食べてきた。人間の死体には手を付けていないが、それは光彦から「こんなもん喰ったら病気になる」と言われたから。言われなければ、アカとしては食べる事に抵抗などない。そのぐらい何時も空腹で、ろくなものを食べられなかった。

 なのに此処では、山のように食べ物が出てきた。これだけでも驚きだが、他にもまだまだビックリするところはある。

 例えばパンというのは初めて見る食べ物だ。『乾パン』というのは食べた事があるが、それとは違って見た目がふわっとしている。本当に食べて平気なのだろうか? 綿毛みたいに口の中で絡まらないだろうか。ちょっと心配だ。

 スープは日本でも割とよく食べたが、具材の形がちゃんと残っている事に驚いた。何しろアカが食べてきたスープは、製造されてから十年以上経った缶詰ばかり。どれも中身が溶けきっていて、具材の形なんて残っていない。豆がこういう形をしているものだったとは今まで知らなかった。

 未知の食べ物が並び、アカはごくりと息を飲む。正体不明のものに躊躇……なんてしない。している間に誰かに盗られてしまうかも知れないではないか。

「いただきまふっ!」

「あっ、アカお前!」

 既にテーブルの席に着いていたアカは、光彦の制止を無視してパンに齧り付いた。

 噛んだ瞬間、ふわっと広がる香りと食感。

 一体なんだこれは。本当に食べても平気なものなのか? 迫り来る未知に戸惑いを覚えたのは一瞬。唾液と反応したデンプンが糖へと変化し、甘さを感じた時アカから迷いは消えた。ごくりと飲み、空いた口にパンを押し込んでいく。パンに水分を吸われて口が乾いてきたら、スープを含んで潤す。後はこの繰り返しだ。

 とても美味い。こんな美味い食事は産まれて初めてだ。

「ほうひゃんほへふばいへ!」

「何言ってんのか分かんねぇよ」

 光彦に同意を求めると、彼は笑いながらツッコミを入れてきた。

 アカはまた驚いた。父がこんな風に笑いながら食事をするところなど始めて見たのだから。

 光彦の隣では早苗が静かにパンを食べていたが、彼女も頬がすっかり緩んでいた。この施設……『はいきゅうじょ』というらしい……にはアカ達以外にも数人の、光彦と同い年ぐらいの大人達 ― アカと同じく日本からこの国にやってきた人々だ ― が居たが、誰もが微笑んでいる。

 日本での食事に笑顔がなかったとは言わない。だけど油断は出来なかった。油断をすれば背後から何者かに襲われ、食べ物を奪われたり、殺されたりしてしまうかも知れなかったから。

 だけど此処の人々は、皆油断している。心から笑っている。ガツガツと頬張る者も居たし、光彦も勢い良くパンとスープを食べていたが、誰も警戒心は微塵も見せない。心から食事に集中しているのが分かる。

 必死になって食べていたのは自分だけだった。

 ……なんだか面白くない。アカは無意識に唇を尖らせた。

「ん? どうしたアカ」

「……んぇ? なぁに?」

「いや、なんかお前、機嫌悪くしてないか?」

「……別にしてないけど」

 ちょっと言葉を濁らせながら、アカは答える。

 どうして言葉を濁らせてしまったのか、アカにもよく分からない。分からない自分の行動が無性に腹立たしく、アカはますます唇を尖らせる。

 なんだか知らないが、あんまり此処には居たくない。

「……はぐっ、んぐんぐんぐ、あぐ、むぐぐむぐむぐ」

「そんな急がなくても誰も盗らねぇぞ。おい、アカ?」

 光彦の言葉を無視して、アカは一気にパンとスープを腹に流し込む。早食いは得意だ。ものの数分で満腹まで平らげる。

「ごちそーさま! 私、町の様子見てくるね!」

 そうして食事を終えたアカは、慌ただしく席を立った。

「おい、アカ!? お前何を勝手な……」

「アカちゃん、誰かの物を勝手に取ったり食べたりしたらダメだからね。あと、遠くに行って迷子にならないようにー」

「早苗!?」

 引き留めようとする光彦だったが、早苗はアドバイスと共に送り出す。

 勝手に何かを取ったらダメなのか。今まで人の物だろうがなんだろうが取ってきたアカは、自分の知らなかったルールをちゃんと覚えて、配給所の外へと繋がる出口を目指す。

 出口には女性が数人居たが、誰もがにっこりと微笑むだけ。彼女達はアカを止めようともしない。アカは配給所の扉を開け、外へと跳び出した。

「お、おぉー……!」

 外に出たアカは、思わず声を上げる。

 船の上からでも見えていた家々は、間近で見るとまた違った雰囲気に思えた。日本の家々と比べれば、草と木で作られたそれらは確かに質素なものだが……しかし新品故の綺麗さがある。それに屋根に穴が空いていたりもしない。

 道路も舗装はされていないが、剥き出しの土は真っ平らに成らされている。日本のように経年劣化で陥没やひび割れを起こしているアスファルトより、ずっと歩きやすい。

 そして本当に、たくさんの人が行き来している。

 ……あまりにたくさん人が居るので、アカは段々怖くなってきた。興奮により麻痺していたが、もしかすると自分に襲い掛かる人が居るかも知れない。

 やっぱり配給所に戻ろうかとも思ったが、跳び出した手前なんとなく戻り難い。

「……うん。大丈夫。船の人が、此処にはあんまり悪い人はいないって言ってたし。多分、平気だよね」

 考えた末に、アカは町の方へと向かう事にした。

 配給所から真っ直ぐ伸びる道を進み、町の中に入ると、配給所近くから見えた分よりも更にたくさんの人が歩いていた。何十どころではない。何百もの数だ。こんなにたくさんの人々が集まるところなどアカにとって初めてで、面食らって足を止めてしまう。

 すると後ろから大人の男にぶつかられ、よく分からない言葉で怒鳴られた。多分邪魔だと罵られたと思い慌てて退けば、大人の男は何も言わずに通り過ぎる。

 アカは、凄いと思った。本当に平和なところだ……日本だったら今頃、三人ぐらい仲間がやってきてボコボコにされてるだろうに。

 アカは周りを見ながら、他の人達に併せるように歩いた。あまり遠くに行くと迷子になるという早苗の忠告は覚えていたが、道は真っ直ぐだ。真っ直ぐ行って、真っ直ぐ戻れば、きっと元の場所に帰れる。

 多くの人々と共に歩きながら、アカは周りを見渡した。

 家だと思っていた建物の前には、たくさんの物が並べられていた。食器や家具、鉛筆に材木……それに食べ物のようなもの。人々はそうしたものに近寄り、何かぴかぴか光るものを渡し、物を受け取っていた。

 そういえば十年ぐらい昔は日本でもお金というものがあり、それで物の売り買いをしていた事を、アカはふと思い出す。今の日本ではお金などなんの役にも立たないが、此処ではまだまだ現役らしい。食べ物を手に入れるにはお金が必要なようだ。

 アカはお金を持っていない。配給所で満腹まで食べてきて良かったと思った……良い匂いのするものばかりなので、腹ペコだったら勝手に手が伸びていただろう。此処では勝手に物を取ったらダメなようなので、光彦に怒られてしまうかも知れなかった。

 見るだけに留めて、アカは町の中をどんどん歩く。何もかもが初めてで、新鮮な気持ちが胸を弾ませた。先程までの憂鬱な気持ちは飛んでいき、今ではもう楽しさしかない。

 こんな素敵な場所でこれから暮らせるのか。毎日お腹いっぱいになれるのかな。あのへんてこな道具で遊べるのかな……未来への期待から、心のウキウキが止まらない。

「ん?」

 そんなウキウキしていたアカの目に、ふとあるものが目に留まる。

 路地裏の少し奥……暗がりの中に、光るものがあったのだ。なんだろうと思い目を懲らすと、それは小さな、コインのようであった。

 アカはこの『国』について詳しくないが、そのコインは町の中で人々が渡し合っていたものと同じように見える。

 つまりお金だ。

 人の物を勝手に取ってはいけないと教えられたアカだが、落ちているものは人のものではないと考える。それに此処ではお金がないと物が手に入らない。光彦も早苗も、お金は持っていない筈だから、このままでは買い物が出来ないだろう。

 あの一枚で何が買えるかは分からないが、拾っておいて損はあるまい。それにウキウキしながら歩いていたのでちょっと忘れ気味だったが、配給所からかなり遠くまで来てしまったように思う。このコインをお土産にして、一旦帰るとしよう。

「んふふふーん♪」

 アカは路地裏の入口に足を踏み入れる。薄暗い場所だが、アカの若い視力は落ちているコインを見逃さない。真っ直ぐ手を伸ばし、拾い上げた

 直後の事だった。

 暗闇の中から、一本の『手』が伸びてきたのは。

「――――げっ」

 しまった、と思った時には遅かった。

 暗闇から伸びてきた手はアカの腕をガッチリと掴み、思いっきり引っ張る! アカは反射的に身を仰け反らせたが……手の力が強く、抗いきれない。

 一気にその身は暗闇の中へと引き摺り込まれてしまう。

 道端を楽しげに歩いていた若い女性が、暗い路地裏へと消えた。この町にとってもそれは大事であり、町の人々は決して看過しないだろう。

 ただしそれは気付けたならの話。無数の人々が行き交い、買い物や交渉で忙しい中、路地裏にひょいっと入った女性の事など誰が意識するだろうか。

 つまるところ、誰もアカが路地裏に入った事など意識しておらず。

 アカが何時まで経っても表通りに戻ってこない事を、気に留める者など誰もいないのだった。

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