霧島セロンの研究

 雲一つない空から降り注ぐ朝日によってキラキラと輝く大海原を、一隻の船が走っていた。

 船は所謂モーターボートであり、決して大きな代物ではない。二人ほどの人間が乗れば、それだけで窮屈さを覚えるだろう。屋根どころか転落防止の『柵』すらなく、迂闊に立ち上がって転ぼうものなら、そのまま大海原に放り出されてしまう。しかしその粗末さ故に軽量で、船体の割に積んであるエンジンが大きい事から、スピードはとても出る作りとなっている。

 そしてこの船のエンジンは今、壊れそうなぐらいの爆音を鳴らしていた。

 つまりはとんでもない速さで、船は海上を進んでいるという事。まるで切り裂くように波を立て、スピードの出き過ぎが原因で時折船体が跳ねている。明らかに危険な速さだ。乗組員は常軌を逸している……この船を見ている者が居れば、誰もがそう思うに違いない。

 霧島セロンにとって、それは非常に不本意な事だ。

 何故なら彼はこの船の乗組員だが――――暴走している『馬鹿』は、もう一人の方なのだから。

「ちょ、ちょおおぉおおおっ!? も、も、もっとスピードを抑えろこの馬鹿!」

「はっはっはっ! この程度で参るとは、君もまだまだ若いなぁ!」

 だからセロンは必死に止めているのだが、船の操縦桿を握る馬鹿こと屈強な黒人男性……ワルドは楽しげに笑うだけ。エンジンを入れるためのレバーは全開のままで、止まる気は微塵もないようだ。

 ワルドは足下に置いてある機械に時折目を向ける。機械は四角い板状のもので、表面は傷だらけでボロボロ。電子機器的な光を一つだけ発しているが、表面が傷だらけの所為でいまいち見辛い。

 しかしワルドには、光の指し示すものが見えている・・・・・。迷いのない動きで船を操作し、何処かを目指して突き進む。スピードは全く落とさない……セロンがどれだけ悲鳴を上げたとしても、だ。

「だから止めろって言ってるんだ! 何時まで全速力で突っ走るつもりなんだよ!?」

「いやいや、此処で止まるのは良くないと思うのだが」

「はぁ!? どういう意味だ!?」

 当然セロンはますます激しく、感情を露わにしてワルドを止めようとするのだが、ワルドは意味深な事を言ってくる。セロンは更に強く問い詰めた。

「奴がすぐ近く居る。というより、私達の足下を泳いでいて、現在接近中だ。出来るだけ距離を取るのが賢明ではないかね?」

 するとワルドは、とてもあっさりと答えた。

 答えられて、セロンは凍り付くように固まる。次いで恐る恐る、自らが乗る船を……船の下に広がる大海原を見遣った。

 海は今日も静かだ。朝日を受け、キラキラと宝石のように光り輝いている。されどそれは人間のちっぽけで、狭苦しい視野から語った一面でしかない。もっと高く、鳥のような視点から見渡せば一目で分かっただろう。

 セロン達が乗る船のすぐ下に、巨大な影があると。

「……い、いいい急げ急げ急げ急げぇ!」

「ははは! 忙しないな君は! だがその意見には賛成だよ!」

 慌てふためくセロンに、ワルドは快活に笑いながら答える。エンジンを更に唸らせ、船体が悲鳴を上げるほどの速さで海上を駆けた。

 やがて、海が大きく盛り上がり始める。

 海面は五十メートル近く膨らみ、セロン達の船をその端っこが襲う。端っこでも高さ十メートルはあろうかという大きなうねりだ。モーターボートは簡単に持ち上げられ、翻弄されてしまう。ワルドの卓越した操縦技術がなければ、セロンは今頃海の藻屑になっていたに違いない。

 幸いにして大海原に還らずに済んだセロンは、うねりという名の卵を破るようにして現れたモノを目の当たりにした。

 そいつは真っ赤な甲殻を有す。

 そいつは二本の立派な触角を有している。

 そいつは身の丈百メートルすら大きく超えた、地球の誰よりも偉大な体躯をしている。

 見紛う筈がない。忘れる筈がない。そいつこそがセロンの探し求めていた、かつて・・・敵対していた存在。人類を易々と蹴散らし、この星の真の支配者となったモノ。

 甲殻大怪獣デボラだ。

「デボラ……!」

「うむ、デボラだ」

 セロンの呟きに同意するワルドは、船体に積んでいた猟銃のような形状の銃を取り出し、構える。

 照準の向く先は、デボラ。

 強大無比なる怪生物に、ちっぽけな銃口が火を噴いた。放たれた金属の塊は音速に近い速さで飛び、デボラに命中する。

 無論デボラにこんなものは効かない。質量数万トンの物質が音速に近い速さでぶつかろうとも、ろくに怯まないほど頑丈なのだから。しかしワルドは何もデボラを傷付けようとして金属を撃ち込んだ訳ではない。むしろ全く効いていない方が好都合。

 今し方撃ち込んだのは、発信器なのだから。

【……………】

 デボラは鳴き声一つ上げず、己の正面をじっと見据えるだけ。発信器を撃ち込まれた事はおろか、すぐ近くに浮いているセロン達にも気付いていない様子だ。

 しばし大海原を悠々と泳いだデボラは、思い出したようにスピードを上げ、潜行を始める。海面に出ていた部分だけで数十メートルはあろうかという巨躯だが、デボラは非常に素早い。あっという間に水中へと潜ってしまう。

 デボラが海上に出ていた時間は、一分ほどだった。助かったのだと分かりセロンは安堵のため息を吐く、が、これはこれで気になるところ。

 一体、アイツは何をしに浮いてきた?

「わざわざボク達の船の下まで来たのに、攻撃もしてこない……なんだ? 何をしに……」

「ああ、アイツが船の下に居た事に意味はないよ。私がミスしただけだ」

「……は?」

「いやぁ、調子に乗って近付き過ぎてしまったよ。はっはっはっ」

 疑問を言葉にすると、ワルドはすぐに答えてくれた。答えてくれたが、それはセロンに納得を与えない。セロンは呆けて、考えて……

 そして怒りが込み上がり。

「こ、この! この馬鹿! 馬鹿馬鹿馬鹿っ!」

 セロンは極めて頭の悪い罵詈雑言を、楽しげに笑っているワルドにぶつけるのであった。




 十年という月日は、若者であればあるほど長いものだ。

 十年前、一般人なら高校に通っているような年頃だったセロンにとっても同じ。気付けば成人し、身体は大人になった。髭が濃く生えるようになったし、身体付きもガッチリしてきた。昔の自分が如何に『図に乗っていた』かを少しは理解し、精神的にも成長している。

 そしてかつて机上で全てを理解出来る人間であった彼は、今やフィールドワークを主にする研究者となっていた。

「あー……身体が温まる……」

 お湯を注いで作ったスープ ― 乾燥させた魚介類に、塩による味付けをしただけのシンプルな代物 ― を飲みながら、セロンはため息を吐く。

 セロンが座り込んでいるのは、月だけが照らす夜の海岸だ。内陸の方には森が広がっていたが、寒冷化の影響か木々は皆枯れている。虫の音は勿論、獣や鳥の姿も見られなかった。

 実のところ此処がどの国の海岸であるのかもよく分からない。いや、国家と呼べるものが尽く崩壊した今、『国のもの』ではないかも知れないが……南米大陸の何処か、というのが精々だ。

 赤道付近に位置する筈の海岸は、夜になると非常に冷えていた。雨が降れば雪になるかも知れない。これでも内陸部に比べれば幾分マシなのだから世も末・・・である。

「うむ! やはり温かな食事は最高だな! これだけあれば人間は生きていけるものだよ」

 なお、セロンの隣で同じくスープを啜るワルドには、そんな悲壮な世界を生きているという感覚はこれっぽっちもない様子だった。なんとも逞しい知人の姿に、セロンは先程とは異なるため息を吐く。次いで、残りのスープを一気に飲み干した。

「……ところで、何か分かったのかい?」

 『夕食』を終えたセロンは、呆れた調子でワルドに尋ねる。

「ああ、かなり色々分かったよ」

 そしてワルドは、先程までと変わって真剣な面持ちを浮かべた。

 ワルドは自分の側に置いていたタブレット……船に積んでいたのと同じ代物だ……を手に取り、画面を指先で叩く。するとタブレット画面に映像が映り、ピコピコと輝く光が現れた。画面が傷だらけで、いまいち見辛い。文字も表示されているが、傷に隠れてセロンには殆ど読めない有り様である。

 しかしワルドにはちゃんと読めているらしく、彼は納得したように頷いた。

「うむ。先程取り付けた発信器は問題なく機能している。デボラの進行水深がハッキリと分かるぞ」

 ワルドは嬉しそうに、タブレットに映る反応の意味を言葉にする。

 今朝、ワルドがデボラに撃ち込んだものは発信器だ。それも海中の深度を測るのに特化したものを。

 デボラにはもう一つ、緯度経度を示すのに特化した発信器が撃ち込まれている。三ヶ月前、セロンとワルドが撃ち込んだものだ。この二つを併用する事でデボラの位置を正確に把握出来る……尤も、画面の傷の所為でセロンにはさっぱり分からないのだが。

「そりゃ何より。で? 奴はどんな動きをしている?」

 セロンが画面の意味を理解するには、ワルドの説明が必要だった。

「活動が活発化しているようだね。移動速度が平時よりずっと速いし、しかも深い位置への移動が少ない」

 ワルドはセロンの問いを受け、すぐに答える。口調は軽やかだが、その意味合いまでは軽くなかった。

 セロンは眉を顰め、新たな疑問を言葉にする。

「まだ発信器を付けて一日も経っていないが、それでも確信出来るものなのか?」

「ああ。十年前に観測された平均的行動パターンのグラフは、私もよく覚えている。奴は本当に気紛れだが、日中は海面付近を活動し、夜間は深海深くを移動する事が多い。しかし今は夜にも拘わらず、極めて浅い場所を移動している。平均値から大きく逸脱した行動だよ」

「記憶が正しければ、二十年前のアメリカ初上陸は真夜中だったと思うんだけど」

「はははっ。それを言われると反論は出来ないな。何しろコイツはほんと気紛れでね」

 あっさりと降参するワルドに、セロンは大きなため息を吐いた。とはいえワルドが適当なのではない。

 二十年間、ろくにデボラの生態が解明出来なかった一因の一つがこの気紛れぶりだ。

 兎に角動きに一貫性がない。一月連続でオーストラリアを襲撃したり、二ヶ月間姿を見せなかったり、十日間海底から動かなかったと思えば、次の十日間時速百キロ以上で地上を駆け続けたり……

 なんの一貫性もない。周期的に行動を繰り返す訳でもない。あまりにも無秩序で、一体なんの意味があるのかすら分からない。

「或いは、過去に観察された全ての行動に意味なんてものはないのかも知れないね」

 セロンが考え込んでいると、ワルドはそのような意見を述べる。

 セロンは眉を顰めた。理由を考えないなど、『知的生命体』としてあまりに不甲斐ないと思えたがために。

「二十年も地上で暴れていて、なんの意味もない?」

「その通り。そもそも二十年という時間が、デボラにとって大した年月ではないかも知れない。地底生活なら季節感なんてないだろうし、百度に満たない気温変化など彼にとっては大きな環境変異ではないだろう。いや、そもそもデボラは彼なのだろうか? もしかしたらメスかも知れん」

「産卵活動に来たって可能性か。あんな化け物がわんさか増えるとか最悪だな」

「しかしデボラ出現時から指摘されている、最悪の可能性の一つだ。尤も、繁殖行為が確認出来なかった事から、十年前には下火になってしまった説だがね」

「君がついさっき言ったように、奴にとって二十年が大した時間じゃないなら、さして不思議でもないと思うけど」

 淡々と話を交わしながらセロンとワルドはデボラの生態について議論する。

 セロンはそれを嫌だとは思わない。

 十年前、セロンはデボラに負けた。

 自分が思い付く最高のテクノロジーを、当時最高の技術力を有していた国で生産し、そうして作り上げた兵器に最も適切な人員を配置させた。けれども改善点なんかない、とは思わない。今、同じだけの資材を用意してもらえれば十パーセントは戦闘力を上げられるだろうし、搭乗員の訓練カリキュラムを改良すれば更に良い人材が確保出来た筈だ。

 だが、そんなのがなんだと言うのか。

 デボラが放った……恐らく純粋な熱エネルギーの照射だろうとセロンは考える……あの光は、セロンが、人類が生み出した超兵器『一式』を一撃で粉砕した。二発受ければ跡形も残らない有り様である。十パーセント戦闘力を上げたところで、結末がちょっと早まるのが精々だ。

 アイツには、人間がどう足掻いたところで勝てやしない。

 その『直感』はセロンが天才だからこそ強く確信し、天才であるが故に彼の心を強くへし折った。

 しかし折られた心の名はプライド。

 彼の心の奥底にあった科学者としての好奇心は、未だ潰えていなかった。

 一年ほどはデボラへの恐怖と屈辱で引き籠もっていたが、「人手が足りない」という理由でワルドに引っ張り出され……今ではデボラ研究のため世界を駈け回る日々。

 正直、驕り高ぶっていた十年前より楽しい毎日だ。純粋な好奇心を糧にして、セロンは自らの意思でデボラの謎を追い続けている。

「(デボラの奴は何時かギタギタにしてやるがな。生態の全てを解明して、駆除方法を見付けてやる)」

 ……三つ子の魂百までとはよくいったもので、性根の方は殆ど変わっていなかったが。

「ふぅーむ。意見を交わすのは楽しいが、やはり確証に至るにはデータが足りない。今回の発信器で、何か新たな知見を得たいものだが」

 ワルドはセロンとの討論をそう締め括ると、再びタブレットに目を向ける。先程見たばかりの画面だ。新たな情報が得られるとはセロンも思わないが、なんとなくワルドの顔色を窺う。

 故にセロンは、ワルドがその目を大きく見開くところを目の当たりにした。

「なっ……これは……!?」

「どうした? 何があった?」

「……デボラが、移動している」

「……移動しているのは珍しくもないだろう?」

「そうじゃない!」

 セロンが問うと、ワルドは語尾を強めて否定する。普段の彼らしからぬ言葉遣いに、セロンも僅かながら動揺した。

「デボラが真っ直ぐ・・・・移動しているんだ! 時速七百キロ近い速さで!」

 そしてその言葉で、セロンはますます心を揺さぶられる。

 セロンは知っている。

 何時も自由気ままで、能天気で、気紛れなデボラ。されど『野生動物』であるが故に奴は決して油断などしない。必要があればぶらぶらなどせず、一直線にその場所へと向かう。

 そう、例えば――――自分を打倒し得るほどの何かが現れた時。

「(馬鹿な、あり得ない! 今の人類に『一式』どころか『四型』に値するものすら建造不可能だ! 資源も技術も人材も、何もかも足りないのに!)」

 頭の中で否定しながらも、セロンはワルドが持つタブレットの画面を見る。画面にはデボラの反応を示す赤い点が光り、その光は確かに真っ直ぐ、目視可能な速さで動いていた。

 しかしながらタブレットの画面は傷だらけ。セロンには赤い点デボラが何処に向かっているのかさっぱり分からない。

「ワルド! デボラは何処に向かっているんだ!?」

 セロンは問い詰めるようにワルドへと尋ねた。ワルドは顔を上げると、口をパクパクと喘がせ……やや間を開けて、どうにかといった様子で答える。

「……東の方角に真っ直ぐ。もし仮に、このまま真っ直ぐ向かったなら……アフリカ大陸に到達する進路だ」

 ワルドの言葉に、セロンはぞくりとした悪寒を覚える。

 アフリカといえば今や人類最後の生存可能地域。人類文明が細々と続いている、恐らく地球で唯一の場所だ。

 もしもそこにデボラが突撃なんてしようものなら……集まった物資も人材も、全て踏み潰されるだろう。アフリカの肥沃な大地は吹き飛ばされ、草一本生えない不毛の世界と化す。

 即ち、人類の生存は――――

「ワルド! 戻るぞ!」

「あ、ああ。いや、だが今から戻ってもデボラには……」

 ワルドの意見に、セロンは口を開け、しかし反論は出てこない。

 セロン達はこの南米大陸まで飛行機で来たが……その飛行機は第二次大戦前後で現役だった骨董品だ。出せる速さは時速四百キロにも満たないのである。しかも大西洋を真っ直ぐ渡ったのではなく、海岸線をなぞるように、時折燃料を補充しながら、だ。到底デボラに追い付けるものではない。

 アフリカの地にセロン達が着いた頃には、恐らく『全て』が終わっている。

「一体、何が起きようとしているんだ……!」

 セロンは悔しさで唇を噛み締めながら、東の方角を睨むように見つめる事しか出来なかった……

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