ハルキの興味
神聖デボラ教国は社会福祉に力を入れた国家である。
例えば新たな移民には、しばらくの間食糧や技術的な支援を行い、就労の手助けをしている。家宅も私有物というより公共からの提供品という扱いで、誰もが最低限の家を ― 掘っ立て小屋レベルであるが ― 持っている。認可された診療所には政府が資金を出し、市民は無料での診断が受けられるようになっている……等々。
とはいえ経済は基本資本主義的構造で成り立っており、勝ち組負け組はどうしても出てしまうもの。そうした負け組のための支援もあるにはあるが、それでもやはりこぼれ落ちる者は少なからず出てしまい……彼等の中には、決して素行が良いとは言えない者も存在する。
ハルキは、素行が良くない者の典型例だった。
彼はイラン国籍を持つ、二十二歳の青年である。尤も日本かぶれの両親が日本滞在中に産んだ身であり、幼少期はずっと日本で育ってきた。イラン人らしさは顔付きだけ。言葉も考え方も基本的には日本人のそれ。イスラム教も信仰していない。
もしも何事もなければ、風貌が外国人なだけの生粋の『日本人』として育っただろう。しかし時代がそれを許さなかった。
デボラの出現により、彼の運命は大きく変わった。治安の悪化、経済の崩壊……一家は離散状態となり、知恵も力もなかった彼は誘拐され、奴隷のような扱いを受けてきた。
数年前に『ご主人様』を殺害し自由になったものの、その頃の世間は元奴隷に優しくしてくれる事はなかった。いや、それどころか奴隷という『弱者』を蔑み、あまつさえ絞りカスのような財産までも奪おうとしてくる始末。痩せたガキなど雇えないとまともな仕事は得られず……犯罪以外に生きる術はなかった。盗みや殺人を繰り返し、今では心もすっかり極悪人。
デボラ教徒達に誘われこの国に来たものの、真面目に働くためのスキルも気持ちも持っておらず、選んだ道は間抜けな輩から奪う事。
かくして今日もコインに釣られた通行人の一人を路地裏に引き込み、脅して金目の物を盗ろうとしていた。
そして今、今日一人目の獲物に遭遇している。
若い女だった。年頃はハルキと同じぐらいか。顔付きからして日系人のように見える。目を大きく見開き、顰めた表情からして自分が失敗した事は理解しているのだろう。すらりと伸びた手足は細く、あまり力はなさそうだ。
女は『獲物』として扱うには丁度良い。力がなく、それでいて宝石などの高価なものを好んで持ち歩く。
「金を出せ」
ハルキは早速片手に持っていたナイフを女性の喉元に突き付けながら、自分の『用件』を伝えた。見た目は日系人のようなので、まずは日本語だ。もしかすると自分と似たような、つまり海外産まれで日本語が殆ど分からない奴かも知れないが、ナイフを突き付けられればどの国のどの民族でも脅されている事は理解するだろう。
女の首に突き付けたのはボロボロに刃こぼれしたナイフで、切れ味はいまいち。しかし人間一人の喉笛を掻き切るには十分な代物だ。恐怖を与えるには十分。
己の命を刈り取る凶器を前にして、女性は――――怯える素振りすらなく、キョトンとしていた。
ハルキは困惑した。脅しに屈しない女性というのも、この過酷な時代では少なくもないのだが……こうも敵愾心のない反応をされるのは初めての経験。一体この女が何を考えているのか分からない。
ひょっとして目が見えない? 成程それならナイフを突き付けても……なんと馬鹿馬鹿しい考えだ。この女は落ちていたコインに釣られてきたというのに。なら耳が聞こえていない? 言葉が分からなくてもナイフが見えていれば十分だと考えていたのは自分ではないか。それとも単なる阿呆か? 最早それ以外に考えられず、そうだとすると厄介だ。脅しが効かないとなると最早殺すぐらいしか
等と目まぐるしく考えがハルキの脳裏を巡る。つまるところ考え込んでしまった訳で、
突然女性が動き出しても、すぐには反応出来なかった。
「えっ」
驚きから声こそ出たが、身体は硬直して動かない。女性が素早く手を振り、ナイフを握る手を叩いてもそれは変わらない。
気付けばガチャンという音が鳴り、見れば握っていた筈のナイフが遠くに落ちていた。
「……しまっ……!?」
反射的に、ハルキはナイフへと手を伸ばす。
彼の選択は悪いものではなかった。相手は若い女性とはいえ、武器を持てば男とも戦えるだろう。刃物を奪われたら形勢が逆転し、逆に脅される……いや、興奮した相手が自分を刺してくるとも考えられる。ナイフを奪われては不味い。
そう、相手に武器を奪われない事は重要だ……相手に武器を奪う気があればの話だが。
女性にその気はなかった。
「せいっ!」
彼女はハルキがナイフを拾うために向けた背中を、なんの躊躇もなく蹴り飛ばしたのだ!
「ぐぇっ!?」
突然の一撃に、ハルキは呻きを上げた。まさか攻撃してくるとは思わず、前に進もうとしていた足は後ろからの打撃に耐えられない。
がくんっと膝を折ってしまうハルキだが、しかし女性は更に体重を乗せてきた。不安定な体勢では、如何に男と女の力の差であろうと堪えきれるものではない。
ついにハルキは押し倒され、女性は膝をハルキの背骨に当ててくる。更に腕を掴んで思いっきり伸ばし、ハルキの身動きを完全に封じる。
なんという技なのか。一瞬で組み伏されたハルキはただただ唖然とするばかり。
「……あ。意外とやれるもんだなー」
挙句組み伏せた側までもが驚いているとなれば、彼が一層の戸惑いを覚えるのも仕方ない事だろう。
「な、なん、なんなんだお前は!? なんでこんな、体術みたいな……」
「んっとね、早苗っていう知り合いの女の人に教わったの。アカは可愛いから護身術ぐらい覚えときなさいよーって」
「ま、マジかよ、っででででで!?」
能天気にぺらぺらと喋る女 ― アカという名前らしい ― は更に力を入れ、ハルキの動きを封じる。
ハルキが格闘技の類を何かやっていれば、この拘束から逃れる術があったかも知れない。しかしハルキは長年奴隷として過ごしてきた身であり、体術なんて『知的』なものとは縁遠い。アカの拘束を自力で振り払う事は無理だった。
とはいえアカの方も、このままずっとハルキを抑えておく訳にもいかない。自分が逃げるためには何処かで必ず、力を抜く瞬間が生じる。
その隙に抜け出せば
「さぁーて、このまま背骨をボキッとやっちゃうかー」
なんて考えが全くの甘えたものであるも、ハルキはアカから突き付けられた。
ハルキは背筋が震えた。脅された事で恐怖が込み上がったから、ではない。奴隷時代、「ぶっ殺してやる」だのなんだのなんて言葉は飽きるほど聞いてきた。そしてそういう事を言う奴は、まず手を下さない事も学んだ。
本当に人を殺す奴は、殺したい相手にぶっ殺すなんて言わない。警戒されたら失敗するかも知れないからだ。
そしてアカは言った。言ったが、ハルキに聞かせるような言い方ではなく……
必要なら、コイツは殺しすら躊躇わない。
「ま、まま、ま、待て! 待ってくれ! もうしない! 襲わないから!」
本能的にヤバさを理解したハルキは、無我夢中で命乞いをする。恥も外聞もない必死さだが、死ぬよりはマシだ。
その甲斐もあってか、ハルキの背骨に走る痛みは強まる事はなかった。
「……本当に襲わない?」
「襲わない、本当に、本当に」
「……………」
疑っているのか、アカは中々ハルキを自由にしてくれない。
信じられないのは尤もな話だ。
しかし実際、ハルキは反撃する気などなかった。恐らく反撃しようとすれば、アカはすぐに対応するだろう。この女にはそれが出来るとハルキは判断していた。もしも再び組み伏されたなら、今度こそアカはすぐに止めを刺してくるに違いない。
女相手に逃げるなど男のプライドが傷付くものの、文明の崩壊したこの世界においてそんなものはあっても得にならない。命あっての物種だ。
「まぁ、仕方ないか」
アカは恐らく全く信用していないが、離さないままという訳にもいかない。渋々といった様子で納得し、慎重に手の力を弛める。
ここで突き飛ばすように身体を動かせば――――邪念が過ぎるが、ハルキは堪えた。アカの警戒心は弛んでいない。妙な動きをすれば、すぐにまたこちらを拘束し、『危険』を排除するだろう。例えそれが誤解だとしても。この女にはそれを躊躇わないという、雰囲気がある。
その気になれば数秒も掛からずに済む『移動』に、何十秒費やしただろうか。ようやくアカは完全に退き、ハルキは自由になった。勿論ここで跳び起きるのは、アカに余計な誤解を与えかねない。ゆっくりと、慎重に起き上がり……その場に座る。
ここでようやく、ハルキはアカと向き合う。
『獲物』だからとあまり真面目に見ていなかったが……中々どうして、可愛い顔立ちをしている。それにあの状況で恐怖に支配されず、淡々と行動するとは。この国でハルキは自分と似たような境遇の人間と何人か知り合ったが、誰一人として彼女のようには振る舞えないだろう。
女にやられて悔しくないのかといえば、確かに悔しい。しかしそれ以上に『面白い』。
ハルキは元奴隷であり、他にも多くの奴隷を見てきた。女も男も居たが、現状を嘆く奴というのは五月蝿いだけで役には立たない。むしろ反抗の作戦を伝えても怯え、自分の支配者に媚びるために『味方』を売る。ハッキリ言って敵だ。
アカは違う。この女は自力でなんとかしようとするタイプだ。或いは、そうしないと生きられなくて、自然とそう考えるのか。
「じゃあ、私はもう帰るから、追ってこないでよ」
ましてや今し方命を狙われたのに、こうもあっさりと別れを切り出されたなら。
ハルキは、アカに強い興味を抱いた。
「あ、ま、待ってくれ!」
「ん? なぁに?」
咄嗟に呼んでみると、アカはくるりと振り返る。まさか振り返ってくれるとは思わず、ハルキはとても驚いた。
「お、おう。待ってくれるんだ……」
「んー。まぁ、あなたそこまで悪人じゃなさそうだし」
「ナイフを突き付けられても?」
「私の故郷なら、脅す前に刺されてる。それをしないんだから十分優しいでしょ」
あっけらかんと答えるアカ。ハルキは口許を引き攣らせた。この女、一体今までどんな場所で暮らしていたんだ?
固まってしまったハルキに、今度はアカの方が興味を持ったのか。可愛らしく首を傾げながら、今度はアカが尋ねてくる。
「というか、あなたなんで強盗なんてしてるの? はいきゅーじょとかいう場所でご飯もらえるじゃない」
「あそこは入国して数ヶ月の間しか使えないんだ。どうしても仕事がない奴等は、国が公共事業を与えている。俺はあんな肉体労働はやりたかないからな」
「ふーん。そうなんだ」
「……そうなんだって、軽蔑とかしないのか? 真面目に仕事をせず、犯罪に手を染めているんだぞ」
「? 強盗の方が楽なら、そりゃ強盗するでしょ。私は返り討ちが怖いからやらないけどね」
「……ぷ、くふ、ふははははっ! ははははははっ!」
アカの答えに、ハルキは大きく目を見開く。次いで、笑いが込み上がり、噴き出してしまった。アカが怪訝そうな眼差しを向けてきたが、ハルキの笑いは止まらない。
なんて面白い奴なのだろうか。
ハルキは悪事の中で様々な人間を見てきた。悪事を働く者、悪事を働かない者……考え方は様々だったが、一つだけ共通点がある。
自分と違う考えを、酷く嫌悪している事だ。
悪事を働く者は、働かない者を偽善者と罵るか、正直者は馬鹿だと見下す。悪事を働かない者は、働く者を悪人と軽蔑するか、可哀想な境遇だと同情する。正しいのは自分だと、間違っているのは相手だと、そんな事ばかり言っていた。
だけどこの女は、相手の考えなど気にしない。
相手が薄汚い犯罪者であっても、相手が真っ当な仕事をしている偽善者でも、アカは嫌悪も侮蔑も同情もしないのだ。その淡泊な態度が、ハルキの関心を一層惹き付ける。
もっと色々見てみたい。
仲良くしたいという感情ではなく、例えるなら変な動物を見付けた際の好奇心のようなものが、ハルキの心を満たしていた。ならばこのまま大人しく帰すなんて選択がある筈もない。
「くくくっ。お前、面白い奴だな」
「そう? まぁ、とうちゃんからお前は天然ボケだーとは言われたけど」
「ははっ! 父親にも言われているなら俺の見立て通りだな。気に入った! この町に来たばかりなら、俺が色々教えてやるよ」
「え。いや、別にいらないし」
「遠慮すんなって」
「遠慮じゃなくて、怪しいから信用出来ないって意味なんだけど」
こんな面白い奴を逃してなるものか。ハルキは少々強引に、顔を顰め始めたアカに言い寄った
その直後の事であった。
ぐらぐらと、大地が揺れ始めたのは――――
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