加藤光彦の再会

「おいおい、マジかよ……冗談じゃねぇぞ……!」

 配給所の窓に張り付いたまま、光彦は悪態を吐く。傍には早苗も居て、彼女もごくりと息を飲んでいた。

 朦々と黒煙を上げる山。

 地平線の先に見えるその山は、どうやら火山だったらしい。真っ赤な溶岩まで吐いていた。誰が見ても戦慄するほどの大災厄である。

 その山から這い出してきたデボラさえ居なければ、という前置きは必要だが。

「嘘だろ……」

「なんで奴が此処に!?」

「あ、ひ、ひっ……!」

 配給所内に居た他の『入国者』達も、愕然としたり、狼狽えたり、恐怖に震えていたりしていた。どうやら自分だけが見ている幻覚という訳ではないらしい……幻覚ならばどれだけマシだったかと、光彦は肩を落とす。

 しかし何時までも現実逃避をしている訳にはいかない。

 デボラがどちらに向かうかは分からない。奴は極めて気紛れだからだ。逆にいえば何処に逃げようと来るかどうかは運否天賦。

 ならば考える前にさっさと逃げるに限る。

「おい、急いで此処から出るぞ。兎に角アイツから離れた方が良い」

「待って、アカちゃんは?」

 早苗に逃げるよう促すと、彼女はアカについて触れてくる。

 そう、アカは今何処かに行ってしまっている。

 恐らくはこの付近に居るだろう。しかし辺りを探し回る時間があるかは分からないし、もしもアカがこの配給所に戻ってきたらすれ違う可能性もある。

 待つべきか、探すべきか、逃げるべきか。

「アイツなら今頃とっくに逃げてるだろうよ。俺達もさっさと安全なところに逃げるぞ」

 光彦は迷わず逃げる事を選んだ。

「迷わないわねぇ……まぁ、迷ってる間に死んだら元も子もないわよね。アカちゃんもそう思ってるだろうし」

 早苗は呆れるように肩を竦めながら言うが、批難はしてこない。早苗もアカとは十年の付き合いだ。アカが光彦の事が大好きであるのと同時に、やたらと冷静で淡泊な事も理解している。

 生きていればきっと再会出来る。冷静なアカならちゃんとその考えに至り、淡泊であるが故に『家族』への情愛に引かれる事もない筈だ。

「そーいう訳だ。分かったらちゃっちゃと逃げるぞ」

 光彦はそう言い、真っ先に配給所の外へと向かう。扉はすぐ目の前にあるのだ。逃げるのになんの支障もない。

 扉の前に人が立ち塞がらなければ、という前提は付くが。

「……? おい、邪魔だぞ。そこを退け」

 光彦はハッキリと退くよう促すが、扉の前に立つ者はにこりと微笑むだけ。

 扉の前に立つのは若い男だった。光彦より身長は高いが、ほっそりとした体躯。無理矢理にでも退かすのはさして難しくない。

「良いから退け! 早く逃げないと」

 粗忽にして暴力的な光彦は手っ取り早い方法を採用。強引にでも此処から出るべく、男の肩を掴んだ。

「どうして逃げるのです?」

 ただし男からの問いによって、一瞬その動きが止まってしまう。

 どうして逃げるのか? デボラに踏み潰されたくないからだ。

 この場に居る誰もがそう思っている筈だ。ところがこの男は、尋ねてきた事からしてどうやら違うらしい。

 だが、デボラが何かを知らぬ訳ではない。

「デボラ様が現れたのですよ? この世界を綺麗するために。逃げる必要など、ないではありませんか」

 でなければ、こんな世迷い言を語る筈がないのだから。

「……お前、デボラ教の……!?」

「あなたが清い生き方をしていたなら、恐れる事はありません。己を信仰せねば助けぬような、偏狭な他教の神々とデボラ様は異なるのですから」

 光彦の事など見えていないかのように男……デボラ教徒は、淡々と答える。

 その時物音が聞こえ、光彦は周りを見渡す。

 室内に、多くの職員達が集まっていた。光彦達に食事を与えてくれた彼等は、皆一様に笑みを浮かべていた。子供のように無垢で、心から喜んでいるような微笑みだ。そしてその喜びを、自分達・・・と共有したいと思っているし、出来ると信じているように見える。

 常人ならば、彼等の思考は理解出来まい。

 しかし光彦は五十年近い人生の中で、様々な人間と出会ってきた。その中には悪人や善人だけでなく、奇人や狂人も多々いた。だからこそ彼等の、デボラ教徒の目的を理解する。

 コイツらは、確かに善意で自分達をこの国に連れてきたのだろう。労働力を欲していた事も嘘ではあるまい。隠していたのはただ一点。

 この場所にデボラを招き、全ての悪人を滅してもらうという目的だけを隠していたのだ。

「(コイツらの教義じゃ、善人は助かるもんな。騙して連れてきてもなんの問題もないってか……!)」

 日本で彼等の真意を見抜けなかった事を、光彦は心から悔しがる。

 それにしてもまさかこの国の近くにある山からデボラが現れるとは。しかしよくよく考えてみれば、中国にて対デボラ兵器を開発した時、デボラはその兵器に引き寄せられた、という噂があった。デボラ教がなんらかの方法でデボラを呼び寄せる事が可能なのは、可能性としてはあり得た話。

 善人ならば、自分の失態を反省するところか。

 しかしながら光彦は『悪人』である。ついでに言うと割と『馬鹿』でもある。

「ふんっ!」

「ぶぐぇっ!?」

 自分の責任など露ほど考えず、目の前の邪魔者を暴力で打ちのめす事にした。不意打ち、しかも手加減なしの一撃を喰らったデボラ教徒の男は、当たり所が悪かったのだろうか。ぐるんと目を回し……ばたりと倒れる。

 そしてそのままぴくぴく痙攣するばかりで、立ち上がろうともしなかった。

「……死んだ?」

「いや、気絶してるだけだろ」

 早苗の指摘に、光彦はちょっと引き攣った声で答えた。悪人ではあるが小者でもある。傷害は躊躇わずとも、殺人ほどの罪になると背負えない。善人から見ても悪人から見ても、半端でしょうもない人間が光彦だった。

 ともあれ邪魔者は退かす事が出来たのだ。出入口を塞ぐ輩はもう居ない。

 念のため配給所内を見渡してみれば、職員達は突然の暴力に少なからず動揺していたが、光彦達を拘束しようとはしてこない。狼藉者に恐れ慄いたのか、或いは『デボラ様』を受け入れない者をわざわざ捕まえるつもりもないのか。道を塞いでいた男も、ちゃんと話せば案外簡単に退いたかも知れない。

 尤も、今は悠長に話をしている暇などない訳だが。

「兎に角逃げるぞ!」

 光彦は扉を開けて外へと出る。後から早苗が続き、次いでデボラ教徒以外の『入国者』達も外へと出る。

【ギィイイイイイイイイ……】

 そして聞こえてくるおぞましい声に、誰もが声のする方へと振り向いた。

 遠くに見える山から、真っ赤な甲殻を持った生物が降りてきている。

 どう見てもその生物はデボラだった。光彦とて直接目の当たりにしたのは人生で一度だけ、それももう二十年前の話であるが……あの姿は今でも目に焼き付いている。恐怖で全身が凍るような想いだ。

「こっちだ! 早くしろ!」

「え、ええ」

 早苗の手を引き、光彦は走り出した。入国者達の一部は走り出した光彦の後を追い、一部はデボラの動きを見定めるためか山をじっと見ている。

 どちらが正しい行動か。それは光彦にも分からない、が、彼はさっさと逃げるべきだと考えていた。

 光彦は一度デボラに追われた事がある。その経験からして、留まるのは得策ではない。デボラの足は滅茶苦茶速いのだ。逃げ道が分からずとも、兎に角遠くに行くしか避けようがない。

 配給所を出た光彦は、山とは反対方向へと伸びる市街地を走る。たくさんの住人が慌てふためいていたが、不思議と全員同じ方角に逃げていた。恐らくは最初の誰かが走り出した後を大勢の者が追い、気付けば逆らえないほど強烈な人の流れが出来ていたのだろう。

 光彦としても、元よりどっちに逃げようとは考えていない。人の流れに従い、大勢の者達と同じ道を逃げる。

 市街地ともなると建ち並ぶ家々に阻まれ、山の姿はよく見えない。無論山の斜面に居たデボラも見えないため、奴が今どちらに向かっているかは不明だ。勿論デボラが進めば足下の家々が踏み潰されるので、その音で接近には気付けるだろう。しかし周りは逃げ惑う人々の怒号やら悲鳴やらで五月蝿く、家が潰れるような物音はデボラがかなり接近してこなければ分からないに違いない。

 もしかすると、もうかなり近い場所までデボラは来ているのではないか。過ぎる不安に光彦の足が僅かに鈍る。

 しかし早苗が強く手を握り締めてくると、光彦の胸にあったそんな気持ちは何処かに飛んでいった。

「(つーか、なんで俺はコイツの手を握ってんだか……)」

 夫婦どころか恋人ですらないというのに。悪態混じりのため息を光彦は吐く。そんな彼の気持ちなど知る由もない早苗は、変わらず手をしっかり握っていた。

 そうしながら十分か、或いは二十分ほど走り続けた頃だろうか。光彦は自分達が小高い丘を登っていると気付いた。住宅は段々と疎らになり、配給所近くの町並みと比べ、こじんまりとした建物が多くなる。更に数分丘を登り続け、過酷な日本列島生活で鍛えられた肉体でも疲れを覚えるぐらいの高さに来ると……開けた場所が見えてくる。

 どうやら大きな公園らしい。公園といっても遊具一つ置かれていない空き地だが、能天気な幼児が遊ぶだけなら十分使い物になるだろう。恐らく災害などがあった際の避難所として指定されている区画か。

 とはいえ町中の人が集まっているのか、公園内は人でごった返していた。公園内に入る事は難しそうである。そもそも光彦的には、入るつもりもない。

 光彦は公園の入口で足を止め、一旦山の方へと振り返る。

 登り続けた丘からの眺めは、海沿いに建っていた配給所近くよりずっと良かった。周りの建物も小さいお陰で、麓に広がる市街地の様子がよく見える。

 そして市街地に到達したデボラの姿も。

 デボラは既に山から下りていて、市街地を蹂躙していた。光彦は知らない事だが、デボラの出てきた山の標高は約四千メートル。山体が正確な正三角形だとしても、山頂から麓までの距離は約五千六百メートル程度だ。自動車並の速さでどんな段差も乗り越えていくデボラからすれば、十分かそこらで歩けてしまう距離。既に市街地にはデボラの歩いた跡が残り、大きな破壊が確認出来た。

 そのデボラであるが、何故か町の中で立ち止まっている。

 休んでいるのだろうか? 一瞬そんな考えが過ぎるものの、すぐにそれは違うと光彦は思う。デボラは頭をしっかりともたげ、一点を見つめていたからだ。休んでいるのであればもっと楽な姿勢を取る筈である。

 一体デボラは何を見つめている? 光彦は自然と、その視線の先を追う。しかしデボラが見ていたのは町に隣接しているアフリカの海で、特段おかしなものは何もない――――

「……んぁ?」

 そう思った刹那、光彦は違和感を覚えた。

 海に何か、歪みのようなものが見える。蜃気楼とかの類だろうか?

 否、歪みではなく海面の盛り上がりのようだ。

「(いや、待て……待て待て待て待て待て!?)」

 どっと、溢れ出すように光彦は冷や汗を流す。周りでは未だデボラから避難する市民の声に満ちていたが、最早光彦の耳にそれらは一切届かない。

 海面の盛り上がりは、どんどん陸地に近付いてきていた。具体的な高さは分からないが、近くに浮かんでいた船のサイズ感からして、百メートルはあるように見える。

 速さも凄まじい。時速にして数百キロは出ているのではなかろうか。減速するどころかどんどん加速し、高さを増していきながら陸地へと接近して、

 ついに岸に激突する。

 莫大な量の海水が、地上の建物を全て押し流していく。海面の盛り上がり……津波が激突したのは光彦達が使っていた配給所の付近で、配給所や周りの建物は跡形もなく流されていた。

 市街地には、山より現れたデボラから逃げ惑う人々がまだ居た筈だ。その多くが無慈悲に津波に飲み込まれたであろう。助かる見込みはない。

 恐ろしい惨事に、しかし光彦は声を上げない。傍に居る早苗も黙ったまま。二人はただただ津波が押し寄せた岸辺を見つめるのみ。

 いや、二人だけではない。

 この場に居る誰もが、押し黙っていた。辺りを満たしていた喧騒はもう何処にもない。木々が風で揺れる音が五月蝿く感じるほど、しんと静まり返っている。

 誰もが言葉を失っていた。

 誰もが恐怖に震えていた。

 そして誰もが否定したがっていた。

【ギギィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイッ!】

 大海原より、二匹目・・・のデボラが現れた事を――――

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