足立哲也の逃走

「う、うぅ……」

「大丈夫、大丈夫だ……落ち着いて」

 凍えるように震えるイメルダを抱き締めながら、哲也は顔を上げて辺りの様子を窺う。

 妻であるイメルダと自宅で食事をしていた最中、突然地震に襲われた。

 震度は決して大きなものではなかった ― 体感的に四~五程度だろうか ― が、この国の建物の多くは掘っ立て小屋と大差ないもの。足立夫妻が暮らす家も小屋のようなもので、この程度の揺れでも崩れる恐れがあった。

 地震は数十秒程度で収まった。食器や一部の家具は倒れたが、火を使っていない時だったので火事の心配はない。哲也はホッと安堵の息を吐く。

 しかし安心してばかりもいられない。この家から火の手は上がらないとしても、隣の家から上がらないとは限らないのだ。それに一見して無事なように見えるこの家も、実は揺れにより家の柱などが破損していて、時間差で倒壊する可能性もゼロではない。このまま家の中に留まっているのは危険だろう。

 確かこうした災害の時、民間人が避難するための場所があった筈だ。何処かに地図をしまっていたと思うのだが……

 イメルダをもう少し落ち着かせたら、部屋の中を探そう。哲也はそう思った。

【ギギィイイイイイイイイイイイイッ!】

 ただし、この声を聞くまでの話だ。

 ぞくりと、哲也の背筋に悪寒が走る。

 忘れられる筈がない。自分はそいつに何もかも奪われ、故郷を滅ぼされたのだから。

 そして今度は、ようやく出来た家族すら奪おうというのか。

「っ……イメルダ、立てるか!?」

「て、テツヤ……?」

「大変だと思うが、早く外に出よう。急いで此処から逃げるんだ!」

 哲也の説得に、イメルダは怯えた表情でこくりと頷く。怖がらせてしまったか、と申し訳なく思うが、謝っている暇はない。

 イメルダと共に哲也は外へと出る。道には他にも数多くの人の姿があり、誰もが右往左往している。何処に逃げるべきか分からず、迷っているようだ。

 哲也は一旦足を止め、頭の中に地図を描く。

 『奴』は何時も海からやってくる。そしてその際『奴』は大量の海水……津波を伴って上陸してきた。だから少しでも海から離れるのが最善の回避策である。

 海は此処から南西の方角だ。だから反対側の、北東方向に逃げれば良い。

 哲也は空を見上げる。太陽を見ればその方角が正確に分かるからだ。勿論家の周りの方角ぐらいは覚えているが、混乱時の人間はとんでもない間違いをしてしまうものである。こんな時だからこそ冷静に、ミスを潰さねばならない。

 幸いにして今日は晴れ。燦々と南に輝く太陽を哲也は確認し、

 その太陽を暗雲が隠してしまう瞬間も目の当たりにした。

「……なん……だ……?」

 哲也は思わず独りごちた。その暗雲が、あまりにも濃い黒さだったがために。

 立ち尽くした哲也に、イメルダが抱き付いてくる。イメルダの身体は震えていて、哲也はその震えで我に返った。

 悩んでいる暇はない。少しでも『奴』から離れなければ……

 哲也は一瞬見えた太陽の位置から方角を判断。北東方向に避難すべく、イメルダを連れていこうとする。

【ギギギィイイイイイイイイイ!】

 再度聞こえてくる『奴』の咆哮。身の毛もよだつ恐ろしさに身体が強張りそうになるが、哲也はその強張りを勇気で振り解いて歩を進めた。

 が、すぐに止まる。

 哲也は、『奴』から逃げようとしている。だから海から離れるために北東を目指して進もうとしていた。『奴』から少しでも、一歩でも遠くに逃げるために。

 なのに。

 どうして自分の進もうとした方から『奴』の雄叫びが聞こえてくる?

「ひいいいいいいぃ!」

「逃げろ! 逃げろぉ!」

 唖然となる哲也の耳に、男達の情けない悲鳴が聞こえてくる。

 反射的に振り返ると、北東へと続く道から何人かの若い男達がこっちに走ってくる。誰もが必死で、中には目に涙を浮かべる者まで居る始末。叫ぶ言語はバラバラだが、この国で暮らすうちに幾つかの言語を覚えた哲也は、誰もが人々に逃げるよう促している事を理解出来た。

「山から! 山からデボラが出たぞ! 海の方に逃げるんだ!」

 そして逃げてくる者の一人が、そう教えてくれた。

 尤も、哲也は彼の言葉をすぐには飲み込めなかったが。

 哲也は無言のまま、視線を北東へと向け、ゆっくりと歩く。

 家々の隙間を覗き込むように見れば、そこにはこの国に隣接する形に位置する山……カメルーン山が見えた。大昔よりそびえる山は、何時もと同じ姿を見せてくれる。哲也はそう期待していた。

 期待は一瞬で裏切られた。

 カメルーン山は黒煙を立ち昇らせていた。赤黒い液体を辺りに飛び散らせており、煙が止まる気配はない。耳を澄ませば、微かだが地鳴りが聞こえてくる。

 カメルーン山が噴火している事は明白だった。規模が大きいかどうかは火山学者でない哲也には分からないが、出来るだけ遠くに逃げた方が良い事は間違いない。

 しかし、火山の噴火など些末なものだ。

【ギィィィイイイイイイイイイイイイィイイイイッ!】

 カメルーン山より響く、おぞましい叫び声に比べれば。

 人間ならば即死しかねない有毒の黒煙に包まれようともの、そいつはなんの支障もなく動く。標高四千メートル以上を誇る山体と比べ、それでも余りある存在感を示す巨体。噴き出すマグマを浴びようと怯みもせず、マグマよりも赤い甲殻を麓の人類に見せ付ける。

 やがて黒煙から這い出してきた巨体には、大きなハサミが二本あった。平坦な身体をし、頭に生える四本の触角は小動物のように忙しなく動いている。背中には背ビレのような突起があり、そいつの獰猛さを物語っていた。

 見間違う筈がない。忘れられる訳がない。だからこそ認められない。

 カメルーン山からデボラが現れたという、最悪の状況を。

【ギギィイイイイイイイイッ!】

 されどデボラの猛々しい叫びは、哲也の意識を現実へと引き戻した。我に返った哲也はすぐに駆ける。

 そうだ、のんびりしている暇はない。

 デボラそのものは勿論危険だ。しかし放射大気圧などで攻撃してこない限り、基本進路上だけが被害を受ける。それよりも今は四方八方に広がる恐れがある、火山ガスの方を警戒すべきだろう。

 哲也は、妻であるイメルダに寄り添う。臨月を迎えた彼女に走って遠くまで逃げるよう促すのは酷、いや、『危険』といっても過言ではない。

 故に哲也が選んだのは、イメルダを抱き上げる事だった。

「きゃっ!? え、て、テツヤ!?」

「山は駄目だ! デボラが居る! 海も、アイツが向かうかも知れない! 山とは反対側の陸地に向かおう!」

 驚くイメルダに口早に説明。返事を待たずに哲也は駆ける。イメルダから反論はなく、落ちないよう必死にしがみついてきた。

 イメルダはややふっくらしているとはいえ、決して大柄な訳ではない。しかし『二人』分の重さは哲也の腕にずしりとのし掛かり、足を止めようとしてくる。一般人なら恐らく一分も走ればしんどくなるだろう。

 されど元自衛官にして肉体労働者である哲也にとって、イメルダぐらいの重さならまだ楽なものだ。走りながら、頭をいくらか働かせる余裕だってある。

 何故、デボラは山から現れた?

 最初に過ぎった疑問はこれだったが、されど考えれば特段おかしな事ではない。二十年前も、デボラは富士山から出現した。水爆の熱すらも吸収する奴にとってマグマなどぬるま湯、いや、心地良い温泉みたいなものに違いない。大方海底火山に入り、マグマを泳いでやってきたのだろう。実に非常識な事だが、デボラならば出来たとしてもなんら不思議はない。

 問題はこれからだ。

 火山が噴火したという事は、間違いなく――――

 思考を巡らせていると、ズドンッ! という爆音が哲也の身体を叩いた。強い衝撃に危うく転びそうになるが、維持と気合いで哲也はどうにか踏ん張る。イメルダも恐怖からか強くしがみついてきたが、哲也が安定を取り戻すと安堵したように息を吐いた。

「ひっ……!」

 その安心が幻想だと気付き、イメルダは小さな悲鳴を漏らす。

 自分達が逃げようとしていた先にある家が、粉々に吹き飛んでいたのだ。そしてバラバラになった家の跡地の中心には、真っ赤に輝く巨石が佇む。巨石は三メートル近い大きさで、朦々と白煙を噴いていた。

 噴石だ。火山噴火の衝撃により飛ばされた石が、この地点まで飛んできたのだ。勿論こんな大岩が直撃すれば、足立家は一瞬にしてお陀仏である。

 そして飛んでくる石が一つだけとは限らない。いや、むしろ一個で済む訳がない。

【ギィイイイイイ!】

 デボラの雄叫びに呼応するかのように、カメルーン山から爆音が響く。

 新たな噴火だ。即ち……多量の噴石を噴き出したという事!

「っ! ぬ、うぉおおおお!」

 哲也は最早山は見ず、全力で駆けた!

 間もなく背後から聞こえてくる、空気を切り裂くような音。次いでズドン! ズドン! と衝突音が響いた。噴石が近くの家々を吹き飛ばしたのだ。

「きゃあああああっ!? テツヤ、テツヤ……!」

「大丈夫だ! 顔を埋めてろ!」

 怯えるイメルダの顔を自分の胸に埋めさせ、哲也は前だけを見据えて走り続ける。

 後ろを見てもらった方が良いのでは? そんな考えも過ぎるが、イメルダは少しおっとりとした性格の『一般人』だ。高速でこちらに迫ってくる落石を、正確に目視で捕捉出来るとは思えない。出来たところで、わーわー騒ぐだけでは意味がない。それなら少しでも静かにしてもらい、自分は全身全霊で走り抜けた方がマシだと判断したのだ。

 もう一つ付け加えるなら。

「ぎゃあっ!?」

「ぐぼっ!」

 目の前で落石の直撃を受けて吹き飛ぶ人々の姿を、心優しい彼女に見せたくなかった。

「ふっ! ふぅ! ふっ、はっ! はっ、はっ! はっ! ふぅぅっ!」

 人々が、建物が噴石により吹き飛ぶ中、哲也は走り続ける。吹き飛んだ家の破片が足を打ち、衝撃波が身体を煽ってくるが……彼は止まらない。

 自衛隊員になっていて良かった。お陰でこの身体はちょっとやそっとの事では愛しい人を落とさず、襲い掛かる破片から家族を守り通せる。

 デボラと戦っていて良かった。人の死には慣れている・・・・・。目の前で一般人が吹き飛ぼうが、悲惨な最期を遂げようが、それで足が竦みはしない。

 一体何百メートル走り続けただろうか。噴火の音が絶え、落石の音も聞こえなくなり……哲也はここでようやく山の方へと振り返る。

 カメルーン山は未だ黒煙を上げ、山体が赤い溶岩で輝いていた。しかし爆発は起きていないようで、朦々と立ち昇る黒煙は先程より幾らか大人しくなったように見えた。

 そしてデボラは、山を下り始めている。

 デボラがこれからどちらに向かうかは分からない。デボラはかなり気紛れで、その動きの予想は難しいからだ。しかし顔の向きからして、哲也がこれから向かおうとしている方角とは別の場所に進むように思える。

 このまま真っ直ぐ走れば逃げきれそうだ。

 そう、このまま走れば……

「(デボラ……俺の国を、故郷を……!)」

 哲也は強く唇を噛む。

 脳裏を過ぎる風景。美しい国を踏み潰し、立ち直ろうとしていた故郷を押し流し……憎しみが胸の中で燃え上がる。

 勿論戦いを挑んだところで勝ち目などない。十年前に中国人類文明が総力を結集して作り上げた兵器をも破壊した、恐るべき生命体なのだから。

 しかしそれでも憎しみの念は消えない。一矢報いるためなら、故郷の友人や仲間達の無念を晴らすためなら――――どす黒い感情が哲也の内を満たした。

「テツヤ……」

 その怨念を一瞬で打ち消したのは、イメルダの小さな声だった。

 哲也は我に返った。そうだ、自分が行ったら彼女が一人になってしまうではないか。そのお腹に宿った、自分の片割れと共に。

 家族にも、友達にも、仲間にも置いてきぼりにされた。

 今度は、自分が愛しい人を置いていくのか?

「……すまない、イメルダ。デボラは俺達とは別の方に行くみたいだし、少し、落ち着いて逃げよう。もう少しだけ我慢してくれ」

「うん、分かった……」

 哲也はイメルダに優しく語り掛けてから、再び走り出す。

【ギィイイイイイイイイイイ!】

 デボラの嬉々とした叫びが町中に響き渡る。

 けれども、哲也が後ろを振り返る事はなかった。

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