及川蘭子の本心
「先生! 及川先生はいませんか!?」
バンッ! と音が鳴るほど力強く扉を開け、白衣姿の男が一人部屋に入ってくる。黒人である彼が発する言葉は英語だったが、その胸に秘めた大きな焦りは全ての人類が察せられるだろう。
彼が訪れた部屋は、書類やら本やらが散乱していた。標本箱や薬品も無数に置かれており、此処が何かしらの研究室だと分かるのだが……足の踏み場もないという表現が誇張でないほどの散らかりぶり。仕事が出来る環境ではない。
そんな研究室の一角に居た三十代の女性 ― 白衣ではなく私服姿だ ― は現れた来訪者を見て、目をパチクリさせるだけだった。当然である。彼女は、この黒人男性の顔も名前も知らないのだから。
白衣の男は一瞬身を乗り出したが、その女性が自分の探していた人物とは違うと分かり、バツが悪そうに後退り。それから改めて女性と向き合うと、男は人の良い笑みを浮かべた。
「あ、ああ。来客が来ていたのですね。大声を出してすみません」
「お気になさらずに。何か、御用でしたか……及川博士に」
「ええ、実はちょっと……先生が部屋に戻りましたら、『大佐』が来たとお伝えください」
では、これにて――――言葉遣いは丁寧に、けれども動作はやっぱり慌ただしく、男は部屋から立ち去る。
しばし、女性は部屋の中でじっとしていて……しばらくして大きなため息を吐く。
「及川先生、もう大丈夫ですよ」
それから女性がぽつりと呟くと、部屋の隅に置かれていたロッカーがガタガタと揺れた。錆び付いているのか中々扉は動かず、やや間を開けてからガコンッと不格好な音を立てて開く。
中から出てきたのは、こちらも女性だった。部屋に居た女性よりもかなり若々しく、二十代後半ぐらいに見えるかも知れない。顔立ちも端正で、かなりの美人だ。
尤も、目の下にあるどす黒いほどの隈と、何日も洗っていない所為でギトギトになっている髪を見てしまえば、女の魅力など一瞬で感じられなくなるだろうが。
彼女こそが及川蘭子。白衣の黒人男性が探していた『先生』であり――――今や世界で一番有名な科学者であった。
「いやー、助かったわ。やっぱ持つべきものは友達ね」
「友達なんですかねぇ、私達」
「十年間交流があるなら友達でしょ。例えきっかけは仕事だとしても」
蘭子の言葉に「確かに」と返事をしながら笑う女性……
蘭子と鈴の出会いは十年前。デボラ研究のための助手兼護衛として鈴が派遣されたのが始まりだ。デボラにより日本が崩壊状態となった事で自衛隊が解体され、鈴が無職になってからも交流は続いており、年に数度程度ではあるが今でもちょくちょく顔を合わせている。鈴に国連職員としての仕事を紹介したのも蘭子だ。
今日も
「でも、良かったのですか? 大事なお客さんが来てるみたいですけど」
「国連軍の誰かさんよ。名前は忘れた。新兵器がどうたらとか、弱点はこうたらとか、毎月訊いてくるの。あるならとっくに報告してるのに」
「定例会議は大事ですよ。進捗の確認しないとですし」
「研究に進捗なんてものはない。ゲームみたいに人手増やせば単純に加速するもんじゃないのよ。特にデボラみたいな理解不能な生物を解明する時は」
「それが『国連デボラ研究センター』の一部門長の言う事ですかねぇ……」
「周りが勝手に担ぎ上げただけ。勝手に与えたものの責任を問われても知ったこっちゃないわ」
あたかも他愛ない話であるかのように、蘭子と鈴は淡々と言葉を交わす。
国連デボラ研究センター。
突如現れた超生命体デボラ。その驚異から人類を守るため、世界中の優秀な科学者が集められて組織された国際機関である。蘭子はその中の『生態研究部門』の主任を務めており、日夜デボラの謎を解き明かすべく奮闘している身だ。
……現実には奮闘と呼べるほどの成果はないと、蘭子自身は考えているが。しかし世の中というのは何かしらの『権威』があると簡単に出世出来てしまうらしい。蘭子は出世欲など微塵もなかったが、周りが勝手に担ぎ上げ、面倒なので放置していたらこんな地位まで来てしまった。
自分がした事など、誰よりも早くデボラの存在を予言しただけなのに。
「そんな態度でよく降格されませんね」
「私以外の誰かさん達が頑張ってるからね。私の助手とか共同研究者になると、私の五倍ぐらいお給金もらえるみたいだし」
「うわ、汚職の巣窟が此処に」
「私の研究に口出ししなきゃ、汚職しようが賄賂渡そうがどーでも良いわよ。引責辞任して一研究者に戻れるなら、そっちの方が良いぐらい」
自分の立場すら興味がない蘭子に、鈴はくすりと笑う。昔から変わらない蘭子の姿に、何かしら思うところがあるのだろう。
勿論汚職は撲滅すべきものであり、蘭子の周りの状況は笑い事などではない。国連の運営資金である分担金は、下を辿れば各国国民から徴収された血税なのだから。しかし生憎その証拠を掴んだり、何処かに告発したりする時間があるならば、蘭子はデボラ研究の方に費やす。金の流れの異常は、その流れを纏める事が仕事である、事務方が掴むべきだと考えていた。
尤も、事務の方は恐らくは
日本と米国の力が著しく衰えた事で台頭した『あの国』は、文化と呼べるほど賄賂が盛んだ。一時期かなり是正されたらしいが、昨今はまた酷くなっていると聞く。その国の人間が職員として大量に雇われれば、当然その国の文化に浸食されるというものだ。
そして鈴については、国連職員とはいえ金銭に関係する部門にはいない。金の流れを掴もうとしてもコネがないし……動けば妨害を受ける事だろう。出来るのは精々調査部門に報告する事ぐらい。それさえも、『あの国』の浸透具合を思えば徒労に終わりそうである。鈴は正義感に熱いので、報告ぐらいはするだろうなと蘭子は考えていたが。
ともあれそれは後の話であり、今深掘りする話題でもない。しかし出したコーヒーは放置すると冷めてしまう。なら、今やる事は明白だ。
そうして仲良く話していると、こんこんと部屋のドアをノックする音が聞こえた。
蘭子はびくりと跳ね、バタバタと再びロッカーに身を隠す。隠れてしまった蘭子に変わり、鈴が「どうぞ」とドアの前に居るであろう人物に呼び掛けた。
鈴に招かれ入ってきたのは、若い男性だった。青年、或いは少年と呼んでも良いかも知れない。金色に輝く髪を持ち、青い瞳がきらりと光る。端正でくすみのない顔立ちは、もしや彼はアニメや漫画から出てきた人物ではなかろうかという馬鹿げた想像を過ぎらせるほど美しかった。
一分の隙のない美青年に鈴が見惚れている中、美青年はきょろきょろと部屋を見渡す。散らかった汚部屋を見るや小馬鹿にしたように鼻を鳴らし、蘭子が隠れ潜むロッカーを見つめた。
「及川先生はいないようですね。伝言をお願いします。何時までもその席に座っていられるとは思わない事です」
ではさようなら。
鈴の答えを待たず、言いたい事を言い終えた美青年は、そそくさとその場を後にした。呆けたように鈴は固まってしまうが、ガタガタとロッカーの揺れる音で我に返る。
「なんだ、セロンだったんなら隠れる必要もなかったわね」
ロッカーから出てきた蘭子は、拍子抜けしたようなぼやきを漏らした。
「セロン、というのは、さっきの男の子の名前ですか?」
「ええ、そうよ。霧島セロン。日系アメリカ人と聞いてるわ。なんでも飛び級を重ねて、十五歳で博士号を手にしたとかなんとか」
「成程、所謂天才ですか……なんか、やたら先生を敵視していたような」
「あー、うん。なんか変に絡まれてる。お飾りの癖に主任なんて立場にいるからかしらね?」
ほんと困るわー、という蘭子の訴えに、鈴は苦笑いを返す。他人に恨まれようがなんだろうが、蘭子にとってはどうでも良いのだ。
あまりにも人間関係に無頓着だが、蘭子ももう ― 見た目はビックリするほど十年前と変わらないが ― 三十代の大人だ。鈴も蘭子の人間関係に口出しはしない。
されど、疑問には思う。
「……ところで、セロン君はさっき、先生に向かってこう言ってましたよね。何時までもその席に座っていられるとは思わない事です、て」
例えば先程の、まるで宣戦布告のような言葉の意味について。
「あー、なんか言ってたわね。なんの事かしら?」
「先生の周りで起きてる汚職の証拠とか掴んでるんじゃないですか?」
「いやぁ、あの子そーいうのでマウント取るタイプじゃないのよねぇ。むしろ本質的には私と同じタイプ。地位とか名誉とかどうでも良くて、知識と探求を求める方が大事ってやつ」
「……デボラ研究に携わる科学者は変人しかいないんですかね」
「ちょっと、さらっとディスらないでくれる?」
鈴との会話を楽しみながら、蘭子はふと別の事を考える。
そう、セロンは名誉欲や出世欲がないタイプである。
だがプライドが高い。天才として、そこらの『凡骨』では到達出来ない高みにいるという自負がある。その自負に足る能力はあるし、捏造などの手段を「能力のない三下のする事」と見下しているので結果的に潔癖な人物なのだが……どうしても自分より『上』というものを認めたがらない。
だからこそデボラ研究の第一人者にして、
その蘭子を打ち負かす方法とは何か? 簡単だ。自分の方がデボラに詳しいという確固たる功績があれば良い。そしてそれは、蘭子には答えられない『謎』を解き明かす事で手に入れられる。
即ち、デボラの駆除方法。
何時までもその席に居られると思うな――――捨て台詞のような言葉だが、逆に考えれば……何時そこから転落させられるか、目処が立ったとも取れる。
もしかすると、彼は本当に見付け、作り出したのかも知れない。
デボラを打ち倒すに足る、何かを。
「……藪を突いてヘビを出す、なんて事にならなきゃ良いけどね」
地位も名誉も、そして己の尊厳すらも興味がない蘭子は、ぽつりと本心を零すのだった。
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