#07
次に周吾郎が目蓋を開いたとき、目の前には真っ白な蛍光灯が見えた。途端になんとも眩しくなって、頭の奥が洗われるような思いになった。身体の芯がひどく冷えていて、すぐにくしゃみが出た。
「……起きたか、周吾郎」
ベッドのそばで椅子に座っていた宗一郎が、すぐにコーヒーを淹れた。
父親にコーヒーを淹れてもらうのはなんとも奇妙な気分だったが、今はとりあえず温かいものが有り難かった。
見覚えのない衣服に着替えていたり、病院とは違う雰囲気の部屋に首を傾げながら、甘すぎるコーヒーを嚥下する。砂糖の加減がわかっていない。今度教えなければ。
「ひとまず、状況が知りたい」
「そう言うと思った。もちろん私の口から説明してもいいだろう。ただ、私よりは彼女のほうが話せることはたくさんある」
「彼女?」
「さっき呼びに行ったところだ。もうすぐ」
言ったそばから引き戸が開いた。
見ると、スーパーのロゴが描かれたビニール袋をふたつ提げて、会釈をしている女子高生――小日向春瑚の姿があった。周吾郎はぽんと手を打つ。
「しゅ、周吾郎さ……」
「小日向さん! ああそうか、彼女ってのはこひ」
「周吾郎さあああああああああああああああああん!!!!!!!」
納得したのも束の間、春瑚はビニール袋をベッドに放り投げると、プールにでも飛び込むかの勢いで周吾郎に飛びついた。ぐえっと周吾郎は本日二度目の呻き声を上げた。
「目を覚まして! 私、心配を! 良かったです! うわああああああああ」
「うん、と、とりあえず落ち着こうか」
しがみついて離れようとしない春瑚に、面食らってどうしようもない周吾郎。
宗一郎は、一部始終を横から眺めながら何度も頷き、青春とは良いものだな――と述懐した。
***
「約束を破ってしまい、申し訳ありません」
一度ぺこりとお辞儀してから、春瑚は話しはじめた。
「周吾郎さんが屋上へ向かったあと、私、こっそり話を聞いていたんです。昔、兄が私にそうしたように、扉越しにふたりの話を聞いていました。それで、人の倒れる音が聞こえたものですから、思わず飛び出してしまったんです」
「すると僕がノックアウトされていたと。恥ずかしい限りだね。油断して気絶させられるだなんて」
「とんでもありません! 兄がそういった類いの技術を持ち合わせていることは私もよく知らず、お伝えできていませんでしたから……」
だとしても警戒すべきだった。自ら警察を隔離した上で挑むからには、実力行使に出てくる可能性も考慮できなければならない。妹の関係者であれば大丈夫だろう――とどこかで油断していたのかもしれない。こっちこそまだまだ詰めが甘いな、と猛省した。
「それから、お兄さんは?」
「絵を描いていました。屋上の貯水槽に。いえ、あれは絵というよりは、俳句のようなものを殴り描いただけのように見えます」
「俳句?」
「見てみるか。警察の捜査が続いているが、当事者が見るだけなら文句もあるまい」
宗一郎の言葉に甘えて、周吾郎は春瑚と共にもう一度屋上へ向かった。部屋を出て、眠っていたのが美術館備え付けの救護室で、二時間ほど意識を失っていたことに気付いた。
道すがら、春瑚と宗一郎に話を聞いた。
小日向倫也は周吾郎を気絶させ、俳句と思しき文章をしたためようとしたところで、春瑚の乱入に気付いた。さすがに妹まで気絶させようとしなかったという。警察が向かっていることを告げたと春瑚が言っていたので諦観を抱いたのかもしれない。春瑚と倫也がどんな話をしたのか……多少興味はあったが、聞かなかった。水入らずの会話をわざわざ掘り返すものではない。
その後、春瑚が見守るなかで倫也は渾身の力を持って句を描き上げ、描き終わると共に泥のように寝入ったという。やがて警察が屋上へ突入して、倫也は任意同行という形で連行された。今は一時的に拘留している。
「これから取り調べで、過去の犯罪歴を洗うことになるのかな」
周吾郎は聞いてみた。宗一郎は悩ましげに頭を掻く。
「まずは無政府芸術協会との関係性を調べるところからだろうな。なんせ、奴が件の落書き魔だった証拠は一切残っていない。明らかになったところで、逮捕するのは世論が許さない可能性もある。熱狂的なファンも存在するくらいだからな。
……現状、罪に問えるのはこの『書き置き』くらいだが、これも不問になる可能性があると小耳に挟んでいる」
「どうして」
「絶賛したのさ。見たことあるだろう、この美術館の館長を」
「ああ、よくニュース番組に出ていたね」
「館長は最初落書きに憤慨していたが、犯人が例の落書き魔だと知るやいなや、『これは現代美術の一環として保存すべきだ』と言いはじめたんだ。もちろん鶴の一声というわけにはいかんだろうが、反対の声もそう多くはないだろう。屋上は立ち入り禁止の予定だったが、フリーアートエリアとして解放することも検討しているそうだ」
「ははあ、なるほど……」
芸術の自由を叫んだ倫也の残した作品が保存されてしまうのは、なんとも皮肉だった。
大きな貯水槽の壁面に、荒々しい筆致で描かれた句を――遠くなる意識の中で聞いた言葉が正しければ、辞世の句であるそれを、周吾郎はじっと見つめる。
天離るひな君と往く壺中天
枷なき日々ぞ自在ならずや
誰ともなく、春瑚が言った。
「何を思って、これを書いたのでしょう。意味はなんとなく伝わってきますが……」
「……遠い日、君と向かっていた、別世界のように素晴らしい場所」
宗一郎は呟く。
「僕らはそこで自由を叫んだものだけど、邪魔をするものがなかったのであれば、もしかしたら本当の自由は得られていなかったのかもしれない」
「……すごいね父さん。わかるんだ」
「真意まではわからんさ。だが、これを詠んだ者が何を感じたかはわかっているつもりでいる」
「それでも、本当にすごいよ」
純粋に羨ましく思った。
もちろん周吾郎だって、知識をこねくり回せば解釈することはできそうだ。だが答えが導き出せたところで、どんな意味を持っているのかは考えられそうになかった。
人の思いほど推理が難しいものはそうそうない。だから二の足を踏んで、倫也相手にも終止符は打てなかった。
「まだまだ、子どもだってことだね」
「そう、お前は――お前たちはまだ、子どもだ。高校生になり、卒業の日を迎えれば進学にしろ就職にしろ、もっと外の世界を知ることになる。理解できなかったものも理解できるようになっていくだろう。今はまだ発展途上人だ。経験を積み重ねながら、どんどん学んでいくといい」
相変わらず気が早いなあ――と周吾郎は笑ったが、そう遠くない未来であることも確かだった。
小日向倫也は九年間、海外にいた。周吾郎よりも多くの知識・経験があるのは間違いない。宗一郎も刻んだ年輪の数が圧倒的に違う。そんな相手を説き伏せようと思うことは無謀なのかもしれない。
「そうです。これからもっと、いろいろな謎に触れていけばいいんです」
……たった、ひとりでは。
「周吾郎さん。私、決めたことがあります」
日曜日の夕暮れに、話し声は溶けていく。
雨上がりの空には、誰にも見えないほど薄くて小さな虹が、ぽっかりと浮かんでいた。
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