#06
早生まれの五月雨が、こんこんとバスの窓を打っている。
雨模様の土曜日はバスの乗客もまばらで、車内は自然と静まりかえり、しゃがれた運転手の声とアナウンスと淡々と続く雨音がひたすら鼓膜を震わせていた。雨降りの週末といえば、少しだけ長く毛布にくるまった後、コーヒーと報道番組で昼までゆっくりするのが周吾郎の習慣だったが、今日は水色のカッターシャツと紺色のジーンズを纏って、早くに家を出た。徒歩一〇分のスーパーに行くだけなら雨でも徒歩だが、今日はバスを使うことにした。見ての通り雨の日のバスは不思議と空いていて、目的地はスーパーよりだいぶ遠いからだ。
目抜き通りを北へ走り続け、海岸沿いから外れると、工事中の建物が目立つようになる。人口増加に伴って、鶴見市はマンションを初めとした新しい建物が次々と増えていた。麻里がぶーぶー文句を言っていた美術館もそのひとつだ。文太も数年ぶりに鶴見市に帰ってきて様変わりしたと思っているかもしれない。周吾郎は人並みに興味はあったが、数ヶ月後にできる商業施設より目の前の謎に執心することが多かった。
今もその例に漏れない。運転手のアナウンスを聞き、昨晩調べたバス停であることを確認すると、周吾郎はバスから降りる。五月と思えない雨の冷たさは、黒染めの傘を開くといくらか和らいだ。バスの後ろ姿を見送り、ひとつ深呼吸すると周吾郎は歩き出した。目的地まではほぼ一本道で、二〇分ほど歩けばたどり着く計算だ。赤信号で立ち止まり、雨音が反響する傘の下で、周吾郎はぼんやりとした頭の内をまとめ上げることにした。
春瑚の兄・小日向倫也は春瑚が高校に入学する前に姿を消した。理由は「旅に出ることにした」から。今生の旅というほどであるから、相当な覚悟を持った旅に違いない。彼は旅の目的地をどこに定め、いつ、何をするつもりなのか。謎かけが好きな倫也は、案の定、奇妙な手紙だけを残して答えとした。指定されたのは実行日と実行場所だけ。
実行日はある人物が答えを握っている。かの人物は小日向倫也のことをよく知っているという。誰なのかは湊川高校に行けばわかるとのことだった。湊川高校で小日向倫也のことを調べると、彼が自身の代の卒業アルバムの表紙を描き、また同級生の女子・武藤美優としばしばどこかへ繰り出していることもわかった。友人の誘いも断っていたことを勘案すると、小日向倫也をよく知る人物は武藤美優ではないか、という推測が建てられる。推測の域は出ない。もしかしたら週末は懇意にしている友人と出かけていたかもしれなくて、はたまた古株の教師と交友を持っていた可能性もある。物事を並行して調べるのは骨が折れる。ひとまず周吾郎は武藤美優にアタリをつけることにした。
実行場所。これに関しては「春瑚もよく知っている場所」としか記されていなかった。なるほどこれでは周吾郎にできることは何もないので、春瑚には兄と訪れた思い出の場所があれば教えてほしいと伝えていた。ひとりきりの夜の部屋でクイズの答えを考えるといいというのが気になって、実際に自分の部屋を真っ暗にして、クイズのバラエティ番組を見たりもしたが、視力が悪くなりそうだと思うだけだった。こればかりは春瑚の報告を待つ他ない。
だから周吾郎は、実行日のほうを受け持つことにした。
駅をひとつ通り過ぎ、競輪場が右手に現れてくると、目的地――古びた公営住宅はすぐそこだった。階段を上り、部屋番号が間違いないことを確認すると、チャイムを鳴らす。程なく開いたドアの向こうには、目尻に皺が折りたたまれた女性がいた。周吾郎は会釈して、小さく微笑んだ。
「昨日お話をくださった、橘さんね」
女性の声は柔和だ。周吾郎が肯くと、女性はにっこりと笑った。
「突然のことで、本当に申し訳ありません」
「いえいえ。こちらも長らく暇をしていたものだから。さあさ、どうぞお上がりになって」
部屋の中からは、線香を焚いた気配が漂ってくる。
「美優のことで私に話せることがあれば、いくらでもお話ししましょう」
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