#07

 仏壇の前で手を合わせてから、周吾郎は座布団に腰を下ろした。テレビでは壮年の男性アナウンサーがエアコンの重要性について力説している。周吾郎はいくつか世間話を挟んで、さりげなく話を紡いだ。

「つかぬことをお伺いしますが、おひとりで暮らすのは寂しくないですか」

「もちろん寂しいわ。でも、お父さんも美優も行ってしまって、娘は何年も連絡がつかなくて……寂しい気分にもすっかり慣れてしまったから、むしろこの寂しさが愛おしいの。ひとりで静かに煎茶を飲んでいると、心が落ち着くのよ」

「はあ……」

 周吾郎にはわからなかった。人が亡くなるというのはとても悲しい出来事で、乗り越えたつもりでもふとした瞬間に夢に出て、手を伸ばしかけて、脂汗とともに目を覚ますのが普通だ。歳をとって失ったものの数が増えると、そういう感覚も薄れていくのだろうか。寂しさが愛おしいと言えるほど大人になれていないのだと思う。

 飾り気のないリビングの隅――電話台には小さな写真立てがある。写っているのは、周吾郎と相対する美優の祖母・文江と、美優本人と思しき人物だった。

「美優さんはどんなお孫さんだったんでしょう」

「どんな……そうねえ。美優は小さい頃から引っ込み思案で、お友達と遊ぶことも少なくて心配だったけど、好きなことに対してはこれでもかというほど目一杯楽しむ子だったわ。絵を描いているときのあの子の顔ったら、大人になっても小さな子どもみたいにくだけた情けない笑顔になっていたのよ」

「絵を……美優さんは、絵を描くのが好きだったんですね」

「昔は他のものに比べれば好き、くらいだったんだけどね。湊川高校に入学してからは、何があったのか、それまで見たことがないくらい絵に向けて情熱を燃やしていたわ。私もようやくあの子が夢中になれるものを見つけてくれたから、とっても安心していたんだけど……」

 文江の表情が曇る。周吾郎は、人の気持ちを汲むという作業が得意ではない。このまま話を続けてもよいものか――暫時悩んだが、切り出したのは文江のほうだった。

「そうそう、高校に入ってからは、ときどきボーイフレンドなんかも連れてきたりしてね。彼氏ができたのって聞いてみたら、真っ赤な顔で違うって言うものだから、本当に可愛らしくてねえ」

「なるほど。ちなみに、その人の名前はわかりますか? おそらく、小日向倫也という名前だと思うのですが」

「倫也……ああ、うん、そんな感じだった気がするわ。あの子がみっちゃんと呼んでいたような覚えがあるから、美優の知り合いに倫也さんという方がいるなら間違いなさそうね。そういえばあのとき、ちょっといじわるして美優のことを同じ呼び方で読んだら『ややこしくなるからやめて』って怒られちゃったのよね」

「あはは。まあ、そりゃそうですね」

 小日向倫也はときどき武藤美優のもとを訪れていた。放課後の密会がこれに該当するとも考えられるが、周吾郎には引っかかることがあった。放課後に同級生の家に訪れていたのであれば、多少なりとも噂話になるのが学生事情ではないか。しかし聞く限りでは彼らの行き先を知っている人物はいなかったという。

 周吾郎はさらに質問を続ける。

「美優さんは、倫也さんとどんな話をしていたんでしょう」

「それは全然わからないのよね。美優は自分の部屋で話をしていたみたいで、わたしも邪魔しちゃいけないとお茶菓子を持って行くだけにしていたから」

「自分の部屋ですか」

「ええ。よかったら覗いてみる?」

 周吾郎が視線をやったのを見て、文江はくすりと笑う。周吾郎はえっと少しだけ困惑した。故人とはいえ、女性の部屋に足を踏み入れるというのはいい気持ちではない。推理のために廃墟などを調査するのはやぶさかではないが、亡くなった人物の部屋に立ち入るのは勇気がいる。そんな男子学生の懊悩など気付くことなく、文江はさあどうぞどうぞと袖を引いた。

 居間に続く廊下の襖を開けると美優の部屋がある。亡くなったのが三年前ということもあり、部屋には段ボール箱がひとつ残されているだけで、クローゼットもがらんどうになっていた。毎日空気の入れ換えをしているのか窓は半開きになっていて、薄水色のカーテンが風に揺られている。どうしてかは今ひとつわからなかったが、周吾郎は胸を撫で下ろした。

「……段ボール箱の中身は遺品ですか?」

「ええ。あの子は持ち物が少なかったから、ほとんど何も残ってないけどね」

 文江の言うとおりだった。使いかけのルーズリーフの束、『最後の晩餐』が描かれた下敷き、第九版の古語辞典――高校時代に使っていたであろうものを、そのまま忘れていったようなものばかりだ。謎解きのヒントになるかもしれないが、現時点で参考になるものはなさそうだった。

「これ以外の遺品はもう何もないんですかね?」

「そうね、これ以外は……あ、ちょっと待って。大事なものがあったわ」

 そう言って文江が持ってきたのは、折りたたみ式の携帯電話だった。

 女性らしくピンクのラメが入ったカラーリングで、現行機種よりだいぶ旧式だが今でも問題なく使用はできそうだ。聞くと、高校卒業時に記念に購入したものだという。周吾郎はちょっとした違和感をぶつけてみることにした。

「なぜ携帯電話だけ、他の遺品とは別々に管理しているんでしょうか」

「それなんだけどね。この携帯、今でもときどきメールが届くのよ」

「今でも?……」

 不審に思い、周吾郎は携帯を開いてみるが、すぐに渋面を作った。

「……なるほど、パスワードロックですか」

「そう。美優には申し訳ないけど、どんなメールが届いているのか見てみたい……いえ、もしかしたら自殺の原因について何か残っていないかと思って見てみたんだけど、このパスワードというのは私には難しくてね」

「大丈夫です。僕にとっても、難しいです」

 今でも充電の行き届いている携帯の画面には、簡素な入力フォームとたったひとつ、


?』


 という文章だけが映し出されている。周吾郎は少し考え、候補をいくつか入力してみたがヒットせず、『三〇分後に再度お試しください』と門前払いを食らった。

「この携帯、少しお借りしても大丈夫でしょうか」

「構わないけど……でも、どうして美優の携帯電話を?」

 周吾郎はひとつ、深呼吸する。

「僕は今、ある人物を……いえ、小日向倫也さんの行方を探しています。彼を見つけるためには、数少ない繋がりである美優さんの情報がどうしても必要になります。すべてが解決したら、必ずお返しします」

「あら、そういう事情だったのね」

 文江はかすかに目を見開いたが、すぐに目元の皺を折りたたんだ。

「だったらどうぞ、持って行ってくださいな。あの子の遺したものが倫也さんを探す手がかりになるのなら、きっと美優も喜ぶことでしょう」

「……ありがとうございます」

 会釈して、美優の携帯電話を鞄に入れる。

 ひとまず用事はなくなったので、周吾郎は武藤家を辞すことにした。やたらとお土産を渡したがる文江をなんとかかわしながら、周吾郎は玄関で靴を履く。春瑚へどんなふうに話したものか――と考えていた帰り際、周吾郎は「最後に」と口を開いた。

「ちょっとだけ気になっていたことがあるんですが、よろしいでしょうか」

「ええ、何でも聞いてちょうだい」

「ありがとうございます。実は、美優さんの絵についてですが――――」

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