#09(了)
「無政府芸術協会、か」
周吾郎が話を切り出すと、宗一郎は眼鏡の奥の目を鋭く細めた。普段から厳然としている宗一郎だが、犯罪絡みの話になると表情はさらに険しくなる。
「創設は十九世紀頃で、イタリア出身のウォールペイントアーティストが創設したんだったかな」
「芸術の国じゃないってのは意外だね」
「自由の国でもないがな。奴らの基本的な活動方針は『芸術に関する自由保障』。これは大義名分で、実際の活動のほとんどは風刺を込めた芸術作品の投下だ。ほら最近、街中に落書きをしていく芸術家が話題になっただろう? 奴が無政府芸術協会のメンバーだと噂されたこともあるが、詳細は未だ明らかになっていない。今後も奴が黙認される状態はしばらく続くだろう」
「警察は調査しないんだ」
「ことごとく足取りが掴めないうえに、犯行の予想が難しいからな。仮に引っ捕らえたとしても問えるのは器物ないし建造物損壊罪、文言によっては侮辱罪か名誉毀損……それくらいだ。警察としては落書き魔よりも、殺人・誘拐といった凶悪事件に人員を注力したいのが本音だろう」
「落書き被害が出ている以上は、事後処理マスターも動かざるを得ないと思うけど」
「事後処理マスター……」
宗一郎は渋面を作って、息を長くふーっと吐き出した。
「周吾郎の言うとおりだ。被害が出たからには警察も解決に動く。ただ目撃情報があまりにも少なすぎるのと、塗料が水性ゆえに犯行の被害が明るみになりにくいのも重なって、被害者も捕まえられたらラッキー程度にしか思ってないのがほとんどだ。中には『無政府芸術協会に落書きされたから少しは話題になるかも』と思っている被害者さえいると聞く」
周吾郎は同調した。人気のない大衆食堂がグルメリポーターの紹介で行列必至の名店に生まれ変わることもある。どれだけ質が良くても世間に周知されていなければ宝の持ち腐れ。宣伝にかかる費用のことを考えると、雨が降れば消える落書き程度あれば許容する人が多いのかもしれない。あまつさえ神格化されるようにもなるだろう。信者はそうやって生まれていく。
「必ずしも悪、というわけじゃないんだね」
「犯罪は犯罪だ。喧伝したいことがあるのなら、許可をとって行えばいい。人として当たり前の行動をとれない者たちを、黙って見逃すつもりはない」
「堂々巡りだね。いたちごっこは終わりそうにないな」
「……そう言われると頭が痛いな」
テレビでは長身のニュースキャスターがプロ野球の結果を伝えていた。あるチームで長い連敗が続いていたらしく、ファンの大喜びする姿が映し出されている。神にもすがる思いでした――と話す女性二人組。もしも芸術の神がいるとしたら、無政府芸術協会の跋扈する現状をどう思うだろうか、と徒に考える。
「しかし、またどうして無政府芸術協会の話を? 現社の課題でも出たのか」
「ああ、それは」
話そうとしたタイミングで、妹の麻里が「お父さんお風呂空いたよー」と慌ただしく脱衣所から飛び出して、頭にタオルを巻いた寝間着姿でソファに飛び乗った。宗一郎が諌める。
「麻里、行儀が悪いぞ」
「お父さんこそ、日曜日の夜に堅苦しい話なんてなってないよ。ムセーフだかスカーフだか知らないけど、どーせ明日からまたカンヅメになるんでしょ? 今のうちに羽根は伸ばしきっておかないとすぐにシワシワおじいちゃんになっちゃうよ」
「しわっ……」
「そう言うなよ麻里。シワシワはともかく、今日は僕から話しはじめたことなんだ」
「お兄ちゃんが? また珍しいこともあるのね」
「シワシワ……」
「巡りあわせかな。ともかく麻里の言うとおり、日曜日にする話じゃないね」
周吾郎は一番風呂をいただいたあとだった。夕食も済ませたとなれば、後は眠気が来るまで本を読むか適当なスマホゲームで遊ぶかだけ。考えごとをするには十分だ。
「父さんには話さなければならないことがある。でもまだ煮詰まってない状態だ。来るべきときが来たら、ちゃんと話すよ」
「……本当だろうな?」
「嘘はつかない。節度を守って、弁えた行動をするって約束だからね。そのかわり」
チェシャのように悪戯っぽい笑みで。
「父さんもきっちり、約束は守ること」
返答を待たずに周吾郎は立ち上がる。やみかけの雨に紛れて蛙の声が聞こえた。
やがて梅雨が来る。梅雨になれば雨模様の頻度は増え、水性のインクがきっちり流されてしまう機会も必然的に多くなる。来るべきときというのは、そう遠くないところまで忍び寄っているかもしれない――と、カーテン越しのノイズを聴きながら、周吾郎は眉を曇らせた。
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