#05

「解放?」

「ああ。周吾郎曰く、小日向倫也が望んでいるのは芸術の解放だ。正確に言えば、彼とその恋人の、か」

 周吾郎が屋上に向かった頃、柚希は二階にある日本画をとりとめもなく眺め回っていた。

 彼の元へは僕一人で行く――そう言って聞かなかった探偵気取りを見送ってからは、しばらく春瑚と行動を共にして、今は花摘み中の春瑚を待ちながら、手持ち無沙汰に絵を見て回っていた。一番空いているのが日本画のコーナーだった。

 絵画にこれといって興味はない。表現の手法に感心するだけの審美眼がなければ、横山大観だって名前しか知らない。芸術分野に疎い身としては何を楽しむべきかわからず、事件のことがなければ問答無用で帰路に着いていたところだ。

 途中で文太と合流したところで、柚希は周吾郎に聞かされていた推理をそのまま伝えた。平板に……タイプライターのように。

「武藤美優がなぜ絵を燃やしていたか、もう誰も知る由はないが、小日向倫也の成そうとしていることが彼女の弔いに繋がるのであれば、彼もまた絵を燃やそうとするだろう」

「周吾郎はそう言ってたな。武藤美優の死を悼んでいるのであれば、小日向倫也は必ず美術館に放火をするって。……俄には信じられないが」

「不可能な話じゃない。現にお前は、警察と協力して小日向倫也に協力する連中を捕らえたんだろう」

 当日を迎えるにあたって、各人には役割が与えられていた。文太は宗一郎の計らいで配備された警察官とともに見張り役を秘密裏に確保。柚希と春瑚は館内の見回り。山崎にも何かしらの頼みをしていたと聞いていたが、柚希は知らなかった。なんでも美術館とは違う場所にいるらしい。

「無政府芸術協会が雇ったにしては人員が少なすぎる気はするが、元々ここまでたどり着くとは思っていなかったのだろう。小日向倫也の単独行動に加担する連中も少なかったのかもしれん。開館当日の美術館で放火事件を起こすなど、成功確率が低すぎる」

「人も多いからな。混み具合もごちゃごちゃってほどじゃなくて警備員もそこら中にいる。ここまで用意周到に準備できる人なら、最初から無謀だってわかりそうなもんだけどな」

 柚希は肯いた。

 高校に入学してすぐ留学するような頭脳と度胸の持ち主が、なぜ美術館に放火するような無謀な行動に出るのか。ふと手紙のことを思い出す。春瑚に宛てられた手紙には今生の旅だと書かれていた。死ぬまで戻るつもりはないということだ。そこまでの覚悟をして挑むのが、日本のちっぽけな地方都市にある、できたばかりの美術館への放火、になるだろうか。

 推理をはじめかけている自分に嫌気が差しながら、柚希はそれでも不審に思った。

 小日向倫也の掲げる芸術の解放とは、本当に絵を燃やすことなのか?

「にしても、絵画ってものはよくわからないな。すごい値打ちがあるってことはわかるんだが、印象派とか象徴派とか聞くだけで頭が混乱してくる。茅島さんはこういうのに詳しいのか?」

「全然だ。ゴッホのひまわりを見ても黄色いなとしか思わん。春瑚ならわかったかもしれんが……」

「そういえば姿を見ないな。どこに行ったんだ?」

「さあ。厠に行くと言っていたが、遅いな」

 まさか――と柚希は一瞬思考を巡らせたが、すぐに棄却した。物事を筋道立てて考えようとすると、どうしても周吾郎の顔が脳裏に浮かぶ。そしてこう言うのだ。『考え方は正しいけど、間違っていると思う箇所がいくつか』。

 校正でもするかのように周吾郎は他人の推理を改訂する。心底気に入らなかった。だから推理からは遠ざかることにしたのだ。言葉の続きは、上階を仰ぎ見る文太が代わりに紡いだ。

「まさか、周吾郎のところへ……」

「仮にそうだとして」

 並び立つ柚希は、階下の雑踏を見下ろす。

「私たちに、彼らを止める道理はないだろう。奴の推理が外れていなければ、それよりも危惧することがあると思うがな」

 直後――少し離れた回廊から、年老いた男性の驚きの声が聞こえた。



     ***


「美優さんは絵を燃やすことで、芸術の解放を成していたのだとすると」

 周吾郎は言う。

「あなたも彼女と同じように、絵画を燃やすことで自由を声高に叫ぶつもりでしょうか。命を落としてしまった美優さんの代わりに、あなたが実行犯となって」

「名推理だ。彼女の行動まで調べがついているとはね」

「無理を言ってご家族の方に教えてもらったんです」

「ご家族? ああ、文江さんか。そうだね。文江さんはさすがに手が回らなかったから施しようがなかったけど、そこからたぐり寄せられるとはね。周到に事を進めていたつもりだったけど、詰めが甘かったな。次は関係者の家族周りも徹底的に対処しておこう」

 倫也はあくまで俯瞰的だった。依然、椅子に腰掛けたまま、周吾郎を見据える。

「で、肝心なことを聞くけど、きみはここへ何しに来たんだい。まさか、自由について尋ねるためだけに訪れたなんてロマンチックなことを言いはしないだろう」

「僕は」

 周吾郎は一度言い淀んでから、再び口を開いた。

「小日向、春瑚さん。あなたの妹さんが同級生で、ちょっとしたことをきっかけに、あなたのことを聞かされました。推理は嫌いじゃないですから、僕は彼女に協力することにしました」

「なるほど。春瑚はきみを選んだんだね。それで」

 倫也は安堵したような笑みを見せた。

「春瑚は少年周吾郎になにを依頼したのか。まさか、兄を探してほしい――なんて、甘ったるいものではないだろう?」

 周吾郎は口元を引き結んだ。

 そうだ。

 ここ数ヶ月の間、周吾郎と春瑚は小日向倫也の行方を探していたが、あのとき、喫茶シャーロックで春瑚から手紙を受け取り、信頼して託された言葉は――小日向倫也の捜索、ではない。湿気をはらんだ風に雨の予感を覚えながら、周吾郎は歩み寄り、言い放った。

「僕は、あなたをに来たんです」

 倫也の顔から笑みが消えた。雨粒がひとつ、足下を濡らしていく。

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