#02

 嘘も方便、ということわざがある。

 涅槃経によると、ブッダの最期は食中毒だったそうだ。仏教徒に崇められるブッダの最期が食中毒とは、なんとも人間臭い。彼に最期の料理――スーカラ・マッダヴァを提供したのは純陀という青年だそうで、ブッダは初め、食中毒に罹ったことを隠していた。ブッダは純陀が敬虔な仏教徒であることを知っていた。だからこそブッダは自分を大成させるための最期の供養を行ってくれたとして、純陀は徳がないと責められるのではなく尊ばれるべき存在だと語ったそうだった。涅槃経を読んだことはなく、実際の内容がどんなものか詳しく知らなかったが、周吾郎は少し前にそんなことを聞いた記憶があった。

 嘘にも良い嘘と悪い嘘がある。

 ブッダが食中毒を隠したのが「良い嘘」であれば、「悪い嘘」は他人を騙したりするために発する、文字通り悪意のある嘘だ。周吾郎は中学時代、この「悪い嘘」に悩まされたことがあった。正確に言えば周吾郎だけに限った話ではなかったが――とにかく、周吾郎は高校では悪い嘘に関わらないようにしようと必死だった。

 努力の甲斐あってか、湊川の高校生活は極めて順調だ。新入生同士の初々しい牽制を見事にかわし、自己紹介で「趣味は読書と地方のペナント集めです」と述べた周吾郎は、クラス内でものの見事に「いてもいなくても変わらない存在」を勝ち取った。悪目立ちして良いことはない。注目されず、それでいて多少はクラスの動きにも干渉するぐらいがちょうど良かった。中学の頃は作法を知らずに一悶着起こしたこともあったが、高校ではその経験が活きた。クラスに中学までの知り合いもおらず、過度に干渉してくるクラスメイトもいなかったため、高校一年目の春は比較的穏やかにスタートしたと言っていいだろう。入学から二週間ほど、変わったことと言えば、たまの放課後に喫茶「シャーロック」に立ち寄る習慣ができたことと――その寄り道に、小さな「相棒」を伴う機会が増えたことぐらいだった。

「今日はどうだったの、小日向さん」

 相席に座る女子生徒――小日向春瑚はわかりやすく肩を落としていた。目の前のホットココアもまったく量が減っていない。猫舌ではないとわかっていたから、単に呑む気力がないだけと見えた。予想できていた返事を、春瑚はそのまま口にする。

「ぜんぜんダメでした。収穫ゼロです」

 スライムのように春瑚はべたりとテーブルに突っ伏した。

 周吾郎と春瑚は長い付き合いではない。初めて顔を合わせたのは、一ヶ月と少し前の合格発表の頃で、シャーロックに来たのもそのときが初めてだ。入学以来、示し合わせてシャーロックに来ることはなかったが、少なくとも周吾郎が立ち寄った際には必ず春瑚がいた。向かいの席に座ってはとりとめのない会話を繰り返し、ゆったりと時間が過ぎていく。学校で話すことはほとんどなく、付き合いの浅い二人がここまで行動をともにするのには、あるひとつの目的があった。

「兄のことを知っている人も見つかりませんし、学校年鑑を漁ってみても兄に関する記述は皆無です。湊川高校に情報があると考えるのは、早計だったんでしょうか」

「諦めるのは時期尚早だよ。高校生活は始まったばかりだ」

「それはそうなんですが……」

 目的はシンプルだ。

 春瑚の目的は、手紙を残して消え去ってしまった兄を探すこと。

 周吾郎の目的は春瑚の手伝いをしながら、謎解きの日々に没頭すること。

 しかしながら、このところは謎に満ちた学園生活と程遠い日々だった。当たり前だが、目立たないように日常生活を過ごすとなるとスリルとは無縁になる。問題行動を起こすのには憚りがある周吾郎は、巻き込まれ体質だという春瑚に多少は期待していたのだが、当の春瑚は行方不明の兄・倫也の情報を集めることに精一杯で、それ以外のことにはまるで頭が回らない様子だった。春瑚が謎をもたらさない以上、周吾郎に付き合う義理はなかったのだが、幸いなことに――というと春瑚に怒られるかもしれないが――春瑚の兄が残したメッセージは非常に興味をそそられるものだった。

 周吾郎は携帯のカメラに収めたメッセージを、もう一度眺めてみる。


「ハルにこの話をしたら、きっと止めるよね。だから、何も言わずに出かけました。でも、それだとあまりにもハルがかわいそうだ。もしかしたら怒られるかもしれない。だからメッセージを残すことにした。メッセージを解読すれば、僕がいつ、どこで、何をするつもりなのかわかるって寸法だ。難しいかもしれないけど、解けないことは絶対にない。だけどこれは、ハルにしか解けないメッセージだ。

 いいかい――――


 実行日については、ある人が答えを握っている。僕のことをとてもよく知っている人だ。誰なのかは教えられないけど、湊川高校に進学するのなら、きっとわかるだろう。根気が要るだろうから、クロワッサンやコーヒーとともに考えるといいよ。そうそう、時には言葉遊びも大事だよ。日本史はみんなそうやって覚えてきたんだ。


 実行場所については、春瑚もよく知っていた場所だ。だから言わなくてもわかると思うけど、もしも思い当たらない場合は、じっと考えてみるのもいいかもしれない。ひとりきりの夜の部屋で、クイズの答えでも考えながらね……。


 これだけ伝えれば大丈夫だろう。あとは春瑚の推理力に任せるよ。どこまで読みきれるかは、春瑚次第かな。それじゃ」


 周吾郎は首を捻った。

「お兄さんはずいぶんと難解なメッセージを残したね」

「昔から、そうでしたから」

 春瑚は少しだけ嬉しそうに笑う。

「兄は何に関しても勿体ぶる人でした。私に出したクイズの答えだって、簡単には教えてくれませんでした。私があまりにわからないとしがみつくものだから、だいたいの場合は観念して教えてくれましたけど」

「でも、今回ばかりはそうもいかない」

 出題者がいなくなったのであれば、どれだけ懇願しようと答えが自ずから現れることはない。周吾郎は小日向倫也という人物のことをよく知らなかったが、話を聞く限り小日向倫也は茶目っ気のある人物で、愉快犯と呼ぶに相応しく、行方をくらます際に難解なメッセージを残すのも頷けるところだった。

「だからこそ、周吾郎さんの力が必要なんです」

「そうは言われても、僕だってこればかりのメッセージじゃどうしようもない。気になる部分があるにはあるけど、それだけで解決に至るほど単純なものではなさそうだ。まずは小日向倫也という人物に関する情報を集めないとね」

「でも、どうやって?」

 周吾郎は少し考える。

「餅が餅屋なら、情報は情報屋だ。前に話したよね、同窓生に情報屋みたいなやつがいるって」

「そう、それです。そうでした、すっかり忘れていました」

 僕もすっかり忘れていた――とは口が裂けても言えなかった。

「ぜひともお会いしたいのですが、入学はされたのでしょうか」

「それも確かめないとね。さあ、明日の放課後は新聞部に集合するとしようか」

「新聞部……?」

 春瑚は疑問符を浮かべた。物覚えはあまり良くないようだった。周吾郎はひとつ咳払いをして話す。

「その情報屋は茅島というヘンテコなやつでね。中学時代はよく世話になったんだ。僕の見立てが間違いでなければ、新聞部の一員にでもなっているだろう」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る