#05

 事の顛末はこうだ。

 まず伊勢谷教師が、合格者一覧の名簿をケースに入れて鍵をかけ、職員室そばの廊下に置いていた。伊勢谷は他にも用事があったため、名簿をそのままにして一旦職員室へと戻った。雑務をこなしている途中、廊下のほうからはいくらか賑やかな音と声が聞こえたという。しばらくの後に廊下へ出てみると、名簿を入れていたケースが忽然と姿を消していた。「合格者名簿紛失事件」のはじまりだ。

 名簿が盗まれたのではなく間違って持ち去られたと考えるのなら、焦点を当てるべきなのは「賑やかな音と声」だろう。

 今日は合格発表日――曜日でいえば土曜日のため、校内にいるのは一部の職員と部活動を行う生徒ぐらいだ。部員たちが大勢で職員室前を通り過ぎるのはめずらしい光景ではない。ましてや、大会やコンクールなりが近い部活であれば、学校が休みの土日こそ格好の練習日和。廊下から聞こえてきた声がそういった部活動の生徒であることはほぼ間違いないと言っていい。

 では、部員が大勢で移動する理由は何か。

 多くの場合は練習の場所を変えるとか、倉庫の荷物を運ぶためだろう。

 職員室の隣にある大道具室は鍵が開いていた。土日で多くの教室が施錠しているなか鍵が開いているのは、誰かが荷物を運び入れたか、もしくは運び出したからと考えられる。大道具室ががらんどうになっていたことを考慮すると、可能性が高いのは後者だ。廊下から賑やかな音が聞こえたことを考慮すると、どこかの部活が多くの生徒を動員して荷物を取り出していたのかもしれない。

 そうなると、廊下に置きっぱなしになっていた名簿が紛れてしまう――といったことも考えられなくはない。

 運搬に多くの人数が必要で、朝から活動していて、さらに言えば「合格者名簿を入れたハードケース」を間違えて持って行ってしまいそうな部活となるとだいぶ絞り込むことができる。

 問題のケースが見つかるまでさほど時間はかからなかった。最初に目を付けた吹奏楽部の部室で、名簿の入ったケースが見つかったのを伊勢谷が泣くほど喜んでからは、迅速に事が進んだ。時間ギリギリになってようやく合格者発表が行われ、掲示板の周りは小さなお祭り騒ぎになったのを、周吾郎は横目で見ながら立ち去った。

 早春の珍事のあらましは、そんなところだった。



     ***


 ポケットの携帯が震えた。学校は出たあとだったが、なんとなくマナーモードからは戻していなかった。メールの差出人は「文太」とある。

『俺も合格だった。高校でもよろしく』

 周吾郎は『おめでとう、よろしく』とだけ返した。名簿が手元に戻ってきた時点で確認すれば良かったものを、文太はわざわざ貼り出されるのを待って、人込みのなかへ飛び込んでいった。どこまでも律儀で真面目な男だ。気の進まない周吾郎は、文太に受験番号の確認をしてもらっていた。合格しているだろうと高をくくっていたが、いざ合格の報せを聞くとほっとため息が漏れた。自信があろうがなかろうが、多少なりとも不安はあったに違いないのだ。

 ところで、学校からほど近い喫茶店「シャーロック」のベイクドチーズケーキはなかなかに美味しかった。周吾郎はどちらかというと和の菓子、特にみたらし団子を好んで食べるが、甘くて美味しい菓子であれば基本的に出自は問わない。ことに、シャーロックのケーキは手頃な値段なうえに味も申し分なく、学生身分には十分満足できるものだった。店主がこだわりを持っているだろう欧風の内装に、ジャズバンドのインストゥルメンタル・ミュージックも流れていて、こんな場所が学校の近くにあるとなると、これから寄り道が増えるだろうな――と人知れず考えた。

 考えていたからか、突然の来客はすぐに気づけなかった。

「こちらの席、いいですか」

 半ば放心していた周吾郎は、ほぼ反射で頷いた。もそもそとチーズケーキを食んでいた顔を上げ、相席に座った奇妙な人物の顔を一瞥すると、ようやくその正体に気づいた。

「君は……」

「先ほどはご迷惑をおかけしました」

 周吾郎は少し呆気にとられた。今日はよく驚く日だった。

 驚くのも無理はない。空席の目立つ店内で周吾郎の真向かいに座ったのは、探偵の所作が板についた女子生徒・小日向その人だった。

 校内で見かけたときは勝ち気で豪胆そうな素振りを見せていたが、こうして喫茶店で相対すると表情は幾分厳かだ。目は若干伏せ気味で、極めて落ち着き払っている。さすがにこういった場所での振る舞いは弁えているようだった。小日向は周吾郎と同級生で、つまり妹の麻里とはひとつしか年齢が違わない。周吾郎はファミレスで飲み物を混ぜて大はしゃぎする麻里の姿を思い浮かべた。両者を並べれば「生育環境による精神的成熟の差」と注釈がつくに違いない。制服が格式高いのも相まって、育ちの良さが垣間見えた。

 物静かに構える真意はわからなかったが――名簿の件もあり、なにか周吾郎に負い目でも感じているのかもしれない。問い詰めるつもりはなかった。それにつけてもトレンチコートを脱ぐ仕草などは上品さがあり、やはり先程よりは大人びている。注文した飲み物が子ども向けのココアでなければ完璧だったな――と周吾郎は思う。

 少しの間は互いに沈黙していたが、ココアを半分ほど飲み終えたところで小日向はカップを置いた。

「橘さんは、湊川に合格されていましたか」

「おかげさまで。文太が嘘を言っていなければだけど。小日向さんは?」

「はい、私もです」

 それはおめでとう、と周吾郎は賛辞の言葉を述べた。

「これからは同窓生になるね。奇縁だけど、三年間よろしく」

「よろしくお願いします。あの、橘さんは」

「言い忘れてたけど、周吾郎でいいよ。そっちのほうがなにかと都合がいい」

「……そうなんですか? では、周吾郎さんで」

 同年代からさん付けというのも気が引けたが、そこまで強要するつもりは毛頭なかった。小日向は咳払いして続ける。

「いきなりなんですが、周吾郎さんは高校で部活に入るつもりでしょうか」

「部活?」

「ええ、部活です」

 突拍子もないことに聞き返したが、幸い周吾郎の答えは決まっていた。

「今のところは何も考えていないよ。部活とかに縛られない、自由な生き方が好きなんだ。中学でも帰宅部を貫いていたから、最終的にはそこに落ち着くかもしれないね。小日向さんは何か入るつもり?」

「いえ、まだ特に考えていません。私も帰宅部だったので」

「帰宅部という割には、僕も小日向さんも合格発表の日から寄り道してるけどね」

「あはは、たしかにそうですね」

 小日向の口調はだんだんと砕けてきた。店内の音楽が変わる。先刻まで流れていたのは名前の知らない外国のジャズバンドだったが、今流れているのは周吾郎も聞いたことのある、流行のロックバンドの新譜だった。店にいる客層に応じてセットリストを変えているのかもしれない。シャーロックという店名にふさわしい目端の利きようだった。

「湊川に知り合いの方はいますか? 先輩とか、同窓生とかに」

「知り合いね。在校生にはいないかな。卒業生もからっきしだ。同窓はさっきの文太と、あとは……落ちていなければ茅島かやしまっていうのがいるはず。中学が同じでよくつるんでいたんだ。読みが当たっていれば新聞部に入ると思う」

「新聞部?」

 小日向は首を傾げる。

「新聞部ということは、新聞が好きな人なんですか?」

「どうだろう。真意はわからないけど、推測で言うなら新聞が好きじゃなくて記事を書くのが好きなんだと思う。いろんなことを知っているし、僕からすれば腕利きの情報屋って印象だけどね」

「情報屋、ですか」

 心なしか、周吾郎は小日向の顔が上気しているように思えた。ココアで身体が温まったからかもしれないが、控えめで凛としていた表情は徐々になりを潜め、次第に年相応の好奇心旺盛な――クラス名簿紛失事件のときに見せていた探偵じみた顔が戻ってきていた。話す言葉も饒舌になってくる。

 小日向の質問は止まらない。

「時に、周吾郎さんは謎解きが得意なんですか?」

 謎解きという言葉に、周吾郎は手を止めた。チーズケーキの最後の一かけを刺したフォークが宙ぶらりんになる。少し考える素振りをして、チーズケーキを食べ終わると、周吾郎は純粋な笑顔で答えた。

「単純に、謎解きが好きなだけだよ。好きこそものの上手なれというように、謎解きを好んだ結果、他の人より手際が良くなることはあるかもしれない。でも、それを吹聴して歩き回るような趣味はない。悪目立ちするのは苦手だし、どこの誰に迷惑がかかるかもわからないからね」

「そうなんですね。謙遜できるというのは、素晴らしいです」

 小日向は俯き加減だった。今度は周吾郎が訊く。

「小日向さんこそ探偵ぶりが堂に入っていたけど、そういう趣向が?」

「ええ、まあ……私は身振りだけです」

 小日向は頬を赤らめて、笑ってみせる。

「昔から探偵ドラマとか刑事ドラマとか、そういうものを見てきた影響なんです。もともとなぞなぞの類いが大好きで、家にいるときも、買い物に行っているときなんかも、兄となぞなぞを出し合ったりしていました。

 それで、最初は両親が仕事で忙しくしている間、居間のテレビに映されているのをじっと眺めているだけだったんですが、歳を重ねるうちに段々と謎解きに執心するようになって、最近では同じようにドラマを観る兄と事件を推理し合うこともありました。探偵や刑事が事件をすらすらと解決してしまう姿に心底憧れて、私もあんなふうになりたいと思っていました。

 ……でもご存じの通り、私は謎解きに関しては下手の横好きなんです。ドラマの推理に関しても的中した試しがありません。辛うじて解けそうなときも、兄に先を越されてばかりでした。先ほども迷惑をかけただけで、なにも役に立てませんでした」

「迷惑だなんて。謎を解く心持ちがあるのはいいことだと思うよ」

 ただ――と周吾郎は付け加える。

「どうも小日向さんは、物事の真相を知ろうと先走っているがあるように思った。……気を悪くしたらごめんね。さっきも小日向さんを見ていると、悪意を持った犯人がいるということに固執しすぎているせいで、視野が狭くなっているように感じたんだ。実際、さっきのクラス名簿の件は、誰かが間違って持って行ったと考えればあとは現場検証でなんとかなる、事件とも言いがたい事件だったからね」

「……周吾郎さんは、違うんですか?」

「違う? 違うってのは、何が?」

 小日向は、すう、はあ、とひと呼吸置いてから言った。

「周吾郎さんは、物事の真相を知ろうとしてない……いえ、のか――ということです」

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